第4章 第61話 葵、令和の装い
「葵様、食べ終わったら出かけましょう。今日は忙しくなりますよ」
「朝稽古をしておらぬゆえ、少し歩きたいのだが」
「はい。では、少し遠回りしていきましょう」
朝食を終えると、紗江は先に洗面所で着替えを済ませ、風呂敷包みの中から着物一式を取り出した。
寝間着とともに、お蘭が入れてくれたものだった。
深い藍色の着物に、黒の羽織。
それを見た葵の目が、僅かに細められる。
「江戸から持ってきてくれたのか……」
「はい。お蘭が、荷物の中へ入れてくれたんです」
葵は着物へ手を触れたまま、しばらく何も言わなかった。
江戸へ帰ることは、もうできない。
それでも、仲間たちの思いは、時を越えてここまで届いている。
「お蘭も……信じてくれていたのか」
「はい。葵様ともう一度会えると、信じてくれていたんです」
やがて葵は着物を手に取った。
紗江は財布と携帯電話を、小さな鞄へ入れる。
「では、私は外で待っています。着替えが終わったら呼んでください」
「外?」
「ドアの向こうにいますね」
「分かった」
六畳一間の部屋には、着替える場所を隔てる襖もない。
昨夜も互いに背を向け、相手の気配を意識しながら着替えた。
あの時の緊張を思い出しただけで、紗江の頬が熱くなる。
紗江は玄関から外へ出ると、扉を閉めた。
朝の空気が、火照った頬に心地よい。
やがて、内側から葵の声がした。
「よいぞ」
「はい」
扉を開けると、藍色の着物を身につけた葵が立っていた。
黒い帯で引き締められた姿は、いつもの葵そのものだった。
江戸にいた頃と、何も変わらない。
紗江は思わず、その姿に見入った。
「何だ、どうした」
「いいえ。やっぱり、よくお似合いだと思って」
「着慣れた物だからな」
葵は羽織の襟元を整えた。
紗江も鞄を肩にかけ、玄関の扉を開ける。
「では、参りましょうか」
「ああ」
二人は並んで、朝の渋谷へ歩き出した。
「遠回りするのでしたら、杜宮神社へ行ってみませんか?」
「神社か。よいな」
「お店が開くまで、まだ時間がありますから」
紗江自身も、そこを訪れたことはなかった。
けれど、深い杜に囲まれた静かな場所なら、令和へ来たばかりの葵も、少しは心を落ち着けられる気がした。
二人は人の流れを離れ、神社へ向かった。
大きな鳥居をくぐると、町の喧騒が次第に遠ざかっていく。
高い木々に囲まれた参道には、朝の柔らかな光が差し込んでいた。
砂利を踏む音が、静かな杜に響く。
葵は足を緩め、頭上を覆う緑を見上げた。
「町の中に、このような場所があるのか」
「落ち着きますね」
「ああ」
葵はゆっくりと周囲を見渡した。
「ここだけ、時が止まっているようだ」
その横顔から、わずかに緊張が解けたのが分かり、紗江はほっとして微笑んだ。
「元禄の時代から、三百年以上が経っています。でも、日本には昔の面影を残している場所が、まだたくさんあるんですよ」
「そうなのか」
「私も、知らない場所がたくさんあります」
紗江は葵を見上げた。
「これから長い時間をかけて、二人で探しませんか?」
葵は少し驚いたように紗江を見つめた。
やがて、静かに目を細める。
「そうだな」
短く答えたのち、再び参道を歩き始めた。
「紗江となら、どこに行っても楽しいのだがな」
紗江は一瞬、足を止めた。
けれど葵は振り返らず、何事もなかったように歩いていく。
紗江は緩みそうになる頬を押さえ、少し先を行く葵の背中を追いかけた。
参道の先では、白衣に袴を身につけた一人の神職が、竹箒で落ち葉を掃いていた。
二人に気づくと、手を止めて静かに頭を下げた。
「おはようございます」
葵も足を止め、丁寧に一礼した。
「おはよう。朝早くから、ご苦労なことだ」
少し古風な言葉に、神職は一瞬目を瞬いた。
紗江も慌てて頭を下げる。
「おはようございます。私たち、初めて来たんです」
「そうでしたか。どうぞ、ごゆっくりお参りください」
神職の視線が、葵の着物へ向けられた。
「よいお着物ですね」
「ああ。友が持たせてくれた、大切な物だ」
「そうでしたか。どうぞ、大事になさってください」
「無論だ」
この時は、それだけだった。
名前も知らず、互いの身の上を尋ねることもない。
神社を出る頃には、町の店も開き始めていた。
静かな杜を離れ、再び人の行き交う通りへ戻る。
紗江は葵と並んで歩きながら、大きな衣料品店の前で足を止めた。
「こちらへ寄ってもいいですか?」
「ああ」
ガラスの扉が、二人の前でひとりでに開いた。
葵はわずかに足を止めたものの、先に入っていく紗江を見て、そのあとに続いた。
店内には、さまざまな色や形の洋服が並んでいる。
「これほど多くの衣が、一つの店にあるのか」
「ここなら、普段着る物はほとんどそろうんですよ」
紗江は男性用の売り場へ向かった。
並んだ服へ目を走らせるうちに、自然と足取りが軽くなる。
まず、白と黒のTシャツを一枚ずつ。
肩の位置と身幅を確かめ、葵の体に合いそうな物を選ぶ。
その上に羽織るのは、濃紺のシャツ。
黒のパンツならすっきりと引き締まり、ベージュなら柔らかな印象になる。同じシャツでも、合わせ方で違う表情を見せてくれるはずだった。
紗江は濃紺のシャツを手に取ると、葵へ向き直った。
「葵様、少し失礼しますね」
胸元へ合わせ、顔映りを確かめる。
思ったとおり、深い紺が葵の端整な顔立ちを引き立てた。
「……やっぱり」
「何だ」
「この色、よくお似合いです」
少し離して全体を眺めると、今度は袖を折ったときの姿が浮かんだ。
手首が見えるだけでも、軽やかになる。
着物を選ぶときとは、また違う楽しさがあった。
これまで見たことのない葵の姿を、自分の手で一つずつ見つけていくようで、紗江は次の一枚へと目を向けた。
「紗江」
「はい?」
「先ほどから、随分と楽しそうだな」
「そうでしょうか」
「ああ」
見抜かれたことが恥ずかしくなり、紗江は手元の服へ目を落とした。
「葵様に似合いそうな物が、たくさんあるので。あれも着ていただきたい、これも、と考えてしまって」
「私には、どれも同じに見えるが」
「着てみると、違うんですよ」
紗江は白いTシャツと黒いパンツに、濃紺のシャツを重ねた。
「まずは、こちらから」
案内された試着室の前で、葵は足を止めた。
「この中で着替えるのか」
「はい。着物を脱いで、こちらを着てください」
葵は渡されたTシャツを広げた。
「紗江、中で手伝ってくれるか」
「え、私がですか?」
「着方が分からぬ」
「……分かりました」
試着室へ入ると、紗江はTシャツの襟元を示した。
「ここに頭を通して、左右の袖に腕を通します」
「こちらは?」
「こちらはパンツです。着物を脱いで、これをはいてください」
そこまで言って、紗江は葵が着物の下に身につけている物を思い出した。
「あの……下に身につけている物は、そのままで大丈夫です」
葵も一瞬、紗江を見つめた。
「……分かった」
「では、後ろを向いていますね」
紗江は葵に背を向けた。
背後で衣擦れの音がする。
説明するためとはいえ、二人で入った試着室は狭い。すぐ後ろに葵がいると思うと、紗江は身じろぎもできなかった。
「紗江、よいぞ」
振り返った紗江は、言葉を失った。
白いTシャツに、濃紺のシャツ。
黒いパンツは腰回りにもたつきがなく、葵の長い脚をいっそう際立たせている。
肩も、袖の長さもちょうどよかった。
思い描いていたとおりだった。
それなのに、実際に目の前に立たれると、胸が高鳴った。
「どこか、おかしいか」
「いいえ……とても、よくお似合いです」
紗江はシャツの襟元を整え、袖を少し折り返した。
手首がのぞくと、全体の印象が軽やかになる。
鏡の中で、葵がわずかに首を傾げた。
「同じ衣でも、着方で変わるものなのだな」
「はい。こうするだけでも、違うでしょう?」
鏡越しに目が合い、紗江は嬉しそうに微笑んだ。
試着室を出ると、近くで服を選んでいた女性たちが、葵へ目を向けた。
「モデルさんかな」
「すごく格好いい……」
囁き声が聞こえ、紗江の胸の奥がわずかにざわついた。
葵が人目を引くことなど、初めから分かっていた。
似合う服を選べたことも、嬉しい。
それでも、ほかの女性たちが葵を見つめていると、落ち着かなかった。
「紗江」
顔を上げると、葵は周囲の視線には気づかぬ様子で、紗江を見ていた。
「これでよいか」
「はい。よくお似合いです」
「紗江が選ぶ物なら、私はどれでもよい」
そう言って、葵が微笑んだ。
紗江は小さく頷いた。
「……では、こちらにしましょう」
最後に紗江は、葵を靴の売り場へ連れていった。
「今度は、こちらを履いてみてください」
「履物まで替えるのか」
「はい。先ほどの洋服にも合いますし、たくさん歩くなら、こちらの方が楽だと思います」
紗江が選んだのは、飾りの少ない黒いスニーカーだった。
葵は腰を下ろし、差し出された靴へ足を入れた。
紗江はつま先の余裕を確かめてから、靴紐へ手を伸ばす。
「きつくありませんか?」
「ああ。だが、この紐はどうする」
「こうして結びます」
片方をゆっくり結んでみせると、葵はその手元をじっと見つめた。
もう片方は、自分で紐を手に取る。
一度だけ結び目を確かめると、葵は同じように結んでみせた。
立ち上がり、足元を見下ろしてから、店内を数歩歩いてみる。
「軽いな」
「歩きやすいですか?」
「ああ。足を包まれているようで、不思議な感じはするが」
「少し歩いてみて、痛いところがあったら教えてくださいね」
葵は頷き、今度は少し大きく足を踏み出した。
会計を済ませると、葵は買ったばかりの服へ着替えた。
脱いだ着物は丁寧に畳み、羽織とともに紙袋へ収める。
「葵様、そちらは私が持ちます」
紗江が手を伸ばすと、葵は紙袋を反対側の手へ持ち替えた。
「よい。私が持つ」
「でも……」
「私が身につける物なのだろう」
紗江は差し出しかけた手を引き、微笑んだ。
「では、お願いします」
店を出ると、先ほどより陽射しが強くなっていた。
隣を歩く葵の姿に、紗江はそっと目を向けた。
歩くたびに濃紺のシャツの裾が揺れ、足元では黒いスニーカーが軽やかに地面を踏んでいる。
「どうした」
「いいえ。歩きにくくありませんか?」
「ああ。なかなか具合がよい」
葵はそう答え、紗江の歩調に合わせて足を緩めた。
「葵様、お茶を飲みましょう」
紗江は通りの脇に並ぶ自動販売機へ向かった。
「この箱からお茶が?」
「はい。ここで買えるんです」
紗江が硬貨を入れ、ボタンを押す。
機械の中で音がして、取り出し口へペットボトルが落ちてきた。
葵は少し身をかがめ、その中を覗き込んだ。
「人がおらぬのに、品が出てくるのか」
「お金を入れると、出てくる仕組みなんですよ」
紗江は同じお茶をもう一本買い、葵へ差し出した。
「どうぞ」
葵は受け取ったペットボトルを眺めた。
指先で表面に触れ、今度は蓋へ目を向ける。
「これは、どう開ける」
「ここを回します」
紗江が自分の蓋を回してみせると、葵も同じように開けた。
葵は一口飲み、ペットボトルの中を見つめた。
「これは、茶なのか」
「はい。いつも飲んでいたお茶とは、少し違いますか?」
「冷たい」
「味ではなくて、そちらですか」
紗江は思わず笑った。
令和の物を前にすると、葵は時折、思いがけないところに驚く。
そのたびに、次は何と言うのだろうと、紗江は楽しみになるのだった。
「何がおかしい」
「いいえ。何でもありません」
葵はもう一口飲んだ。
「だが、うまい。歩いたあとの冷たい茶も、悪くないな」
「令和の物を、また一つ気に入っていただけましたね」
「ああ」
紗江もお茶を口にした。
歩いて温まった体に、冷たさが心地よかった。
目の前を、大勢の人々が行き交っている。
紗江はお茶を飲みながら、隣にいる葵の横顔をそっと見た。
洋服を着ただけで、印象が大きく変わった。
けれど、後ろで一つに結んだ長い髪は、令和の町ではまだ目を引く。
「葵様、このあと、もう少しだけ付き合ってください」
「まだ買う物があるのか」
「今度は、買い物ではありません」
「では、何をする」
紗江は葵の長い髪へ目を向けた。
「髪を、少し整えていただこうと思って」
葵の手が、髪を束ねた紐へ触れた。
「これを切るのか」
「嫌でしたら、無理にとは言いません」
葵は行き交う人々へ目を向けた。
男たちの多くは、襟元が見えるほど髪を短くしている。
髪を束ねた紐に触れながら、しばらくその姿を目で追った。
「確かに、私のように長い髪の者は少ないな」
「長い髪の男性もいます。でも、短くした方が手入れはしやすいです」
「ならば、切ろう」
「……よろしいのですか?」
「ああ。髪が短くとも、支障はあるまい」
葵はそう言って、髪から手を離した。
見慣れた長い髪が変わると思うと、紗江には少し寂しさもあった。
それでも、葵の新しい姿を見てみたかった。
「では、よくお似合いになるようにしていただきましょう」
二人はお茶を飲み終えると、再び歩き始めた。
紗江が見つけたのは、大通りから少し入ったところにある美容室だった。
ガラス張りの店内は明るく、落ち着いた音楽が流れている。
幸い、少し待てば受け付けてもらえるという。
案内された椅子へ、葵が腰を下ろした。
担当の美容師は、三十代ほどの男性だった。
葵の長い髪を確かめ、鏡越しに尋ねる。
「今日は、どのくらい切りましょうか?」
葵は鏡の中の自分へ目を向けた。
「襟元にかからぬくらいに。手入れのしやすい形にしてもらいたい」
「でしたら、少し長さを残して、自然に流れる感じはいかがでしょう」
美容師が髪を持ち上げ、仕上がりの長さを示した。
葵は鏡で確かめ、頷いた。
「それで頼む」
髪を束ねていた紐が解かれ、長い髪が肩へ広がった。
やがて、鋏の音が響く。
切り離された髪が、一房ずつ白い布の上へ落ちていった。
紗江は少し離れた椅子に座り、その様子を見守った。
鋏が動くたび、葵の首筋が少しずつ見えてくる。
長い髪に隠れていた耳が現れると、見慣れた横顔まで、どこか新鮮に感じられた。
やがて、美容師が鋏を置いた。
「……あら、やっぱり」
鏡の中の葵を眺め、美容師は満足そうに微笑んだ。
「長い髪も素敵でしたけど、短くすると、お顔立ちがよく分かるわね」
近くを通りかかった女性スタッフも、足を緩めた。
「すごくお似合いですね」
紗江は椅子から立ち上がった。
襟足はすっきりと整えられ、前髪が額へ柔らかく落ちている。
髪に隠れていた輪郭が現れ、葵の目元がいっそう際立って見えた。
「どう、彼女さん」
美容師に声をかけられ、紗江は葵から目を離さないまま答えた。
「……とても、素敵です」
口にしてから、自分の声が思った以上にはっきり響いたことに気づく。
鏡の中で葵と目が合い、紗江の頬が熱くなった。
美容師はにっこりと笑った。
「よかった。切った甲斐があるわ」
葵は短くなった襟足へ手をやった。
「随分と軽くなるものだな」
「洗うのも乾かすのも、楽になりますよ」
差し出された手鏡で後ろの形も確かめ、葵は頷いた。
「ああ。気に入った。ありがとう」
その隣で、紗江はもう一度、葵の横顔をそっと見つめた。
美容室を出たところで、紗江は改めて隣を歩く葵を見上げた。
短くなった髪が、風に揺れている。
「まだ、見慣れぬか」
「はい。少しだけ」
紗江は微笑んだ。
「でも、これからは、こちらの葵様を見慣れていくんですね」
葵は紗江を見つめ、静かに目を細めた。
「ああ」
二人は並んで、再び通りを歩き始めた。
そのあと、百円ショップへ立ち寄った。
茶碗や箸、歯ブラシ、タオルなど、葵が暮らすために必要な物を一つずつ買いそろえていく。
葵は棚に並ぶ茶碗や箸、タオルへ目を向けた。
「ここでは、どれも同じ値なのか」
「はい。値段の違う物もありますけど、このあたりは全部、百円です」
「これほど違う品が、同じ値とはな」
葵は手にした茶碗をもう一度眺め、紗江の持つ籠へ入れた。
帰りにはスーパーへ寄り、夕食の材料を買った。
紗江が品物を選び、会計を済ませる間、葵は隣でその様子を見ていた。
店を出ると、葵が手を差し出した。
「紗江、そちらも寄越せ」
「でも、もう荷物を持っていらっしゃいますから」
「これくらい、何でもない」
葵は食材の入った袋も引き取り、歩き始めた。
紗江はその隣へ並んだ。
夕食の席で紗江は、葵の口数が少ないことが、少しだけ気にかかった。
今日は一日歩き回ったのだから、疲れているのだろう。
そう思い、紗江は何も尋ねなかった。
葵が、紗江に世話をかけていることを気に病み始めているとは、まだ知らなかった。
二人の令和での暮らしは、まだ始まったばかりだった。




