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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第4章 第60話 君のいる朝

アパートへ着くと、紗江は葵を部屋へ招き入れた。

クロは二人の足元をすり抜け、いつもの場所へ丸くなる。


「どうぞ、座っていてください。何か食べるものを用意しますね」

紗江が台所へ向かうと、葵もそばへ来た。

「私にも、手伝わせてくれ」

「では、お皿を並べていただけますか」


二人分の皿を出しながら、紗江はそっと葵を見た。

こうして、また一緒に食事の支度をしている。

それが嬉しくて、自然と頬が緩んだ。


簡単な食事を小さな卓へ並べ、二人で向かい合って座った。

「いただきます」

箸を取ると、ようやく空腹を感じた。

葵も一口食べ、ゆっくりと味わっている。

「紗江の作るものは、やはりうまいな」

「あり合わせですけれど……」

「こうして、お前と食べられるのが何よりだ」

紗江は照れながら、自分も箸を進めた。


食事をしながら、江戸の皆のことを話した。

紗江が戻ると決めた時のこと。

皆が見送ってくれたこと。

そして、風呂敷の中に託されていた、幾つもの贈り物のこと。


「お蘭、葵様のお着替えまで入れてくれたんです」

葵の箸が止まった。

「私のものも」

「はい。きっと会えると、信じてくれていたんですね」

葵はしばらく目を伏せていたが、やがて静かにうなずいた。

「皆には、案じさせてしまったな」


紗江にも、見送ってくれた皆の顔が浮かんだ。

「葵様に会えたと、知らせたいです」

「ああ。無事に会えたと、伝えたい」

二人は少しの間、黙って食事を続けた。


やがて紗江が、隼人の腕輪と無刄の守り刀の話をすると、葵の口元がほころんだ。

蒼馬の手紙に添えられていた言葉には、「あやつらしい」と懐かしそうに笑った。


皆のことなら、話は尽きなかった。

紗江の話に葵が耳を傾け、時には同じ出来事を思い出して笑い合う。

気づけば皿は空になり、窓から差していた陽も傾いていた。


食器を片づけたあと、紗江はお蘭が持たせてくれた寝間着を葵へ渡した。

葵は丁寧に受け取り、畳まれた布へそっと手を置いた。


紗江は、その隣へ腰を下ろした。

話すことが途切れても、もう不安にはならなかった。

すぐそばに葵がいて、時折、足元のクロへ手を伸ばしている。


窓の外に明かりが灯り始めても、二人はしばらく、そうして寄り添っていた。


六畳一間の部屋で、葵にはベッドを使ってもらい、紗江はそのすぐそばの床に横になった。


これまで一人で暮らしていた部屋に、葵がいる。

手を伸ばせば届いてしまいそうな場所から、静かな息遣いが聞こえてくる。それを意識するたびに胸が高鳴り、紗江は毛布の中で何度も寝返りを打った。

恥ずかしくて、葵の方を向くこともできない。


それでも、しばらくすると不安になり、そっと目を開けた。


「どうした、紗江。眠れないのか」

暗闇の中から声をかけられ、紗江は身体を起こした。

「葵様、ごめんなさい。起こしてしまいましたか?」

「いや。私も、少し緊張しているようだ」

「葵様も……?」

「ああ」


静かな声が、すぐそばから聞こえる。

紗江は毛布を胸元まで引き上げ、暗闇の中にいる葵を見つめた。

「葵様が、またいなくなってしまうのではないかと思って……」

「紗江」

「今日の再会も、すべて夢だったのではないかと……どうしても、不安になってしまうんです」


葵は、しばらく何も言わなかった。


「私もだ」

やがて、低い声が返ってきた。

「一度は、死を覚悟した。それなのに今、お前がすぐそばにいる」

葵の手が、掛け布団の上で固く握られる。

「このように幸せでよいのかと、私も夢を見ているような心地がする」

「葵様……」


「紗江、こちらへ来ないか」

葵は掛け布団を少し持ち上げた。

「え……?」

「お前のぬくもりを、確かめたい」

紗江の胸が大きく鳴った。


同じベッドで眠る。

その意味を意識すると、身体が動かなくなる。

けれど葵もまた、自分と同じ不安を抱えているのだ。


「……はい」

紗江は毛布から抜け出し、ためらいながらベッドへ入った。

狭いベッドの中で向き合うと、葵の顔があまりにも近い。

どこを見ればよいのか分からず、紗江は俯いた。


葵の腕が、紗江の身体を包むようにそっと背へ回された。

「このままでいてくれ」

「はい……葵様」

「これで、安心して眠ることができる」

葵の声から、ようやく緊張が解けていく。

けれど、紗江の胸は先ほどよりも激しく高鳴っていた。


(葵様、私はこれでは眠れません……)


そう思いながらも、離れたいとは思わなかった。

頬を寄せた胸元から、葵の鼓動が聞こえてくる。

規則正しく繰り返されるその音が、葵がここにいることを何度も教えてくれた。


紗江は葵の寝間着をそっとつかみ、目を閉じた。


いつしか二人は互いのぬくもりに包まれたまま、静かな眠りへ落ちていった。


翌朝、紗江が目を覚ますと、葵は窓辺に立っていた。

薄いカーテン越しに差し込む朝の光が、その横顔を柔らかく照らしている。

葵が身につけているのは、昨夜、紗江が渡した寝間着だった。

声をかけると、葵が振り返った。

「起きたか」

「はい。よくお休みになれましたか?」

「ああ」

葵は短く答え、再び窓の外へ目を向けた。

「この辺りは、静かだな」

「はい。大通りから少し離れていますから」

紗江はそう答え、毛布を畳み始めた。


夢ではない。

窓辺に立つ葵の姿を見つめながら、紗江は胸の奥に広がる幸せをかみしめた。


ふいに葵が振り返り、二人の目が合った。

昨夜、狭いベッドの中で抱き合ったことが、紗江の脳裏によみがえる。

葵はわずかに目をそらし、紗江も慌てて畳みかけの毛布へ視線を落とした。

「……よく眠れたか」

「……はい」

答えるだけで、頬が熱くなった。

葵も少しだけ困ったように口元を緩めた。

それだけのことなのに、胸がいっぱいになった。


「葵様、朝ご飯にしましょう」

紗江は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。

食パンとハム、それにチーズが残っている。

食パンにハムとチーズをのせ、マヨネーズをかけて焼くと、やがて香ばしい匂いが小さな部屋に広がった。


「どうぞ。熱いうちに食べてみてください」

葵は、皿にのった食パンを珍しそうに見つめた。

「これが、食ぱんというものか」

「はい。小麦粉から作られているんですよ」

「これも、小麦なのか」

「そうなんです。お箸は使わずに、手で持って食べます」

紗江が自分の食パンを持ってみせると、葵もそれに倣った。

「熱いので、気をつけてくださいね」

「ああ」

葵が慎重に一口かじる。

溶けたチーズが細く伸び、葵はわずかに目を見開いた。


「……これは何だ」

「チーズです。それから、この薄いお肉がハムです」

「これが肉か」

「はい。もう一口、食べてみてください。おいしいですから」

葵は伸びたチーズを不思議そうに見つめたのち、もう一口かじった。

しばらく味わい、満足そうに頷く。

「美味だな」

「本当ですか?」

「ああ。はむの塩気と、ちいずがよく合う」

「マヨネーズも入っています」

「まよねえず……令和には、覚えねばならぬ名が多いな」

「少しずつ覚えれば大丈夫ですよ」


葵は再び食パンを口へ運んだ。

今度はチーズが伸びても、戸惑うことなく食べている。

「紗江」

「はい」

「明日の朝も、これがよい」

紗江は思わず笑顔になった。

「お気に召したのですね」

「ああ。江戸へ持ち帰れないことが惜しいほどだ」


その言葉に、紗江の胸がわずかに揺れた。

皆にも食べさせてあげたかった。

紗江は食パンを持つ手を止め、葵を見つめた。


「では、明日も作りますね。今度は卵ものせましょうか」

「それもうまいのか?」

「もちろんです」

「では、頼む」

「はい」


豪華な朝食ではない。

それでも今日は、昨日までとは違う。

食卓の向こうに、葵がいる。

それだけで、いつもの食パンまで特別なものに思えた。


「葵様、食べ終わったら出かけましょう。今日は忙しくなりますよ」

「朝稽古をしておらぬゆえ、少し歩きたいのだが」

「はい。では、少し遠回りしていきましょう」


朝食を終えると、紗江は先に洗面所で洋服に着替え、風呂敷包みから葵の着物一式を取り出した。

深い藍色の着物に、黒の羽織。

それを見た葵の目が、わずかに細められた。

「お蘭には、世話になってばかりだな」

葵は着物に手を触れたまま、しばらく何も言わなかった。


江戸へ帰ることは、もうできない。

それでも、仲間たちの思いは、時を超えてここまで届いている。


やがて葵は、そっと着物を手に取った。

紗江は財布と携帯電話を、小さな鞄へ入れた。

「では、私は外で待っています。着替えが終わったら呼んでください」

「外?」

「ドアの向こうにいますね」

「分かった」

紗江は玄関から外へ出ると、扉を閉めた。


やがて、内側から葵の声がした。

「よいぞ」

「はい」

扉を開けると、藍色の着物を身につけた葵が立っていた。

黒い帯で引き締められた姿は、いつもの葵そのものだった。

江戸にいた頃と、何も変わらない。

紗江は思わず、その姿に見入った。

「何だ、どうした」

「いいえ。やっぱり、よくお似合いだと思って」

「着慣れた物だからな」

葵は羽織の襟元を整えた。


紗江も鞄を肩にかけ、玄関の扉を開けた。

「では、参りましょうか」

「ああ」

二人は並んで、朝の渋谷へ歩き出した。

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