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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第4章 第59話 時を超えた再会

――少し前、江戸


令和へ戻る決意を固め、澄月庵の庭へ向かおうとした時だった。

紗江は、お絹が朝早くから皆のために用意してくれた朝食に目を留めた。

葵がいなくなり、お絹もつらいはずなのに、いつもと変わらぬように朝食を整えてくれている。

けれど、箸を取る者は誰もいなかった。

皆、葵が消えてから、何も口にしていない。

このまま自分までいなくなれば、なおさら食事どころではなくなってしまうだろう。


「松雲様、少しだけ時間をください」

紗江はそう告げると、一人で台所へ向かった。

お櫃に残っていたご飯を手に取り、一つずつ、おにぎりを作り始める。

中に入れたのは、お蘭と一緒に干した梅干しだった。


これから先、自分はもう、皆のために食事を作ることもできない。

だから、せめてこれだけは食べてほしかった。

悲しくても、つらくても、生きていくためには食べなければならない。

紗江はこぼれそうになる涙を堪えながら、黙々とおにぎりを握り続けた。


その頃――。


お蘭は、台所へ向かった紗江の背中を見送ると、ふと思いついたように顔を上げた。

軽く咳払いをし、蒼馬、蓮、隼人、無刄へ目配せする。

「紗江様がおにぎりを握っていらっしゃる間に、ご用意したいものがあります。紗江様の部屋に来てください」

皆はすぐにその意図を察し、紗江に気づかれないよう、そっと彼女の部屋へ向かった。


部屋へ入ると、お蘭は大きな風呂敷を床に広げた。

「今のうちに、紗江様にお持ちいただきたい物を集めませんか」

その言葉を聞くなり、蒼馬と蓮は、それぞれ何かを思い出したように部屋を出ていった。


隼人は腕を組み、しばらく考え込んでいたが、やがて、いつも身につけていた腕輪を外した。

「これは、俺が編んだんだ」

腕輪を風呂敷の上へ置き、隼人はそれを見つめた。

「これを見たら、俺のこと、思い出してくれるかな」

ぽつりと漏らしたあと、寂しさを隠すように胸を張る。

「魔除けだからな。悪い奴らなんて、近づいてこないんだぜ」


「それでも近づいてきたら、これを使えばいい」

無刄が懐から守り刀を取り出し、腕輪の隣へ置いた。

「護身用だが、切れ味は日本一だ」

「これで紗江は安心だな」

「ああ」

隼人と無刄は顔を見合わせると、これで守りは完璧だと言わんばかりに、そろって胸を張った。

お蘭は呆れたように二人を見たが、やがて堪えきれず、ふっと笑みをこぼした。


「お蘭は、何を持たせるんだ?」

隼人が、箪笥を開けていたお蘭のそばへ寄っていく。

「持たせたい物が、ありすぎて……」

お蘭は箪笥の中を見つめながら、困ったように微笑んだ。

「まずは、紗江様が江戸へいらした時にお召しになっていたもの。それから、紗江様がお気に召していた着物も……」

一枚ずつ大切に取り出し、風呂敷の上へ重ねていく。


やがて、お蘭の手が一枚の着物の前で止まった。

「それから……葵様のお着替えも」


一瞬、部屋の中が静まり返った。


「葵様の分も……?」

隼人が言いかけると、お蘭は着物を抱いたまま、静かに首を振った。

「きっと、必要になりますから」

その声には、迷いがなかった。


「そうだな。着替えがなくては、葵様もお困りになる」

無刄が、感心したようにつぶやいた。


ほどなくして、蒼馬が部屋へ戻ってきた。

「私からは、これを」

差し出したのは、小さな巾着袋だった。

「それ、何だ?」

隼人が尋ねると、蒼馬は巾着袋を軽く振った。

チャリン、と中で硬い物が触れ合う音がする。

「あっ」

隼人が目を見開いた。

「ああ、なるほど! 蒼馬らしい」

「これが一番必要ですわね」

お蘭も納得したようにうなずき、巾着袋を風呂敷の中へ収めた。


そこへ蓮が、小さな桐の箱を手にして戻ってきた。

蓮は誰とも目を合わせようとせず、桐の箱をお蘭へ差し出す。

「いつか渡そうと思っていたんだが……今日になるとはな」

「蓮、中を見てもいい?」

お蘭が尋ねると、蓮は黙ってうなずいた。


桐の箱の蓋を開ける。

中に収められていたのは、桜の花が幾重にも彫り込まれた、柘植の櫛だった。

「まあ……きれい」

お蘭が思わず声を漏らす。

「紗江に、似合うと思ったんだ」

蓮は照れを隠すように顔を背けた。

お蘭は何も言わず、桐の箱の蓋をそっと閉じると、大切に風呂敷の中へ収めた。


最後に、松雲が包みを抱えて部屋へ入ってきた。

「これも頼めるか」

「これは……?」

お蘭が両手で受け取ると、松雲は静かに目を伏せた。

「瑠璃天糸鏡じゃ。葵のもとへ、導いてくれるやもしれん」

お蘭は包みを胸に抱き、深くうなずいた。


紗江が台所で皆のためにおにぎりを握っている間に、仲間たちもまた、紗江のためにできることを探していた。


やがて、紗江がおにぎりを握り終えると、お蘭は大きな風呂敷包みを差し出した。

「紗江様。お着替えと、向こうで必要になりそうなものを、少しばかりお入れしました」



――再び令和・紗江の部屋


紗江は、江戸から持ち帰った大きな風呂敷包みへ手を伸ばした。

震える指で結び目を解いていく。

包みの中から現れた品々を見つめ、紗江は小さく息を漏らした。

「……みんな」


紗江は、風呂敷の中から品物を一つずつ取り出していった。

最初に目に留まったのは、編み込まれた腕輪だった。

「あっ……これ、隼人がつけていた腕輪……」

見間違えるはずがない。

隼人がいつも大切そうに身につけていたものだ。

紗江は腕輪を両手で包み込んだ。

「大切にしていたのに……」

いつもの明るい笑顔が、目の前に浮かんでくる。


その隣には、一振りの守り刀が置かれていた。

「これは、無刄さんの……」

無刄が毎日、欠かさず手入れをしていた守り刀だった。

その刃を磨く横顔を、紗江は何度も見ている。

二人が自分の身を案じ、そっと持たせてくれたのだと分かった。

「ありがとう……」

涙で視界が滲み始める。


紗江は二つの品を大切に置くと、小さな桐の箱を手に取った。

蓋を開けた瞬間、思わず息を呑む。

箱の中に収められていたのは、桜の花が幾重にも彫り込まれた、柘植の櫛だった。

「これは……蓮だ」


越後屋を訪れた日のことを思い出す。

店先でこの櫛を見つけ、あまりの美しさに、しばらく見入っていた。

その時、蓮が何気ない口調で言ってくれたのだ。


――紗江に似合う。


「覚えていてくれたんだ……」

指先で桜の彫り物に触れると、堪えていた涙が一粒、桐の箱の上へ落ちた。

「蓮……ありがとう」


桐の箱を閉じた紗江は、次に見覚えのある衣を見つけた。

「えっ、もしかして……」

広げてみると、それは紗江が初めて江戸へ渡った時に着ていたジャージだった。

懐かしい手触りに、江戸へ来たばかりの頃の記憶がよみがえる。


紗江がジャージを持ち上げた拍子に、その上に載っていた小さな巾着袋が床へ落ちた。

チャリン、と硬い物が触れ合う音がする。

紗江は不思議に思いながら、巾着袋の口を開いた。

「小判……?」

中には、十枚の小判が収められていた。

さらに、折り畳まれた小さな紙が入っている。

紗江は紙を開き、そこに記された文字を読んだ。


『少なくて申し訳ありません。手元にある分だけですが、どうかお納めください。 蒼馬』


あまりにも蒼馬らしい、実直な文だった。

紗江は涙を拭いながら、思わず笑みをこぼした。

「蒼馬さんらしい……。ありがとうございます」

小判と手紙を巾着袋へ戻し、大切に桐の箱の隣へ置く。


その下には、きれいに畳まれた着物が何枚も入っていた。

どれも、お蘭が紗江のために選んでくれたものだった。

その中に、見覚えのある一枚を見つける。

「これ……」

葵が、紗江のために用意してくれた着物だった。


それを着て、初めて葵と蒼馬、蓮と隼人の五人で江戸の町へ出かけた。

目に映るものすべてに心を躍らせた、あの日の自分。

あの時は、これほど葵を大切に思うようになるとは、まだ知らなかった。

紗江は着物を胸に抱きしめ、そっと目を閉じた。


その下から、さらにもう一枚の着物が現れる。

「葵様の……」

それは、葵が身につけていた着物だった。

お蘭が何を願って、この着物を入れたのか。

考えなくても分かった。


葵は、きっと令和にいる。

必ず紗江が見つけ出す。

そう信じて、持たせてくれたのだ。


「そうだ……」

紗江は葵の着物を強く抱きしめた。

「私は、葵様に会うために令和へ戻ってきたんだ」

いつまでも泣いている場合ではない。

「探さなくちゃ。それが、みんなの願いなんだから」

紗江は涙を拭い、顔を上げた。


しかし、その決意とは裏腹に、すぐに不安が胸を覆う。

「でも……どうやって?」

東京は、あまりにも広い。

葵がどこへ降り立ったのか、何一つ分からない。

そもそも、葵が令和にいるという確証さえなかった。


紗江は着物の皺を丁寧に伸ばし、一枚ずつ箪笥へしまった。

その時、風呂敷の底に、もう一つ包みが残っていることに気づいた。

「これは……」

松雲が使っていた風呂敷に包まれ、さらに幾重にも布でくるまれていた。

「松雲様の風呂敷だわ」

紗江は布を傷つけないよう、慎重に包みを解いていく。

中から現れたものを見て、目を見開いた。

「瑠璃天糸鏡……!」


鏡には、一通の手紙が添えられていた。

紗江は急いで手紙を開く。

そこには、松雲の力強い筆跡で、短い言葉が記されていた。


『瑠璃天糸鏡は、時を隔てた者の姿を映す。葵がそなたと同じ時におるならば、必ずや二人を繋いでくれるであろう』


「この鏡が……葵様と繋いでくれる」

紗江は瑠璃天糸鏡を両手で持ち、祈るようにその面を見つめた。

「お願い……葵様の居場所を教えて」


紗江が鏡をそっと机の上へ置くと――。

「ニャア」

それまで足元にいたクロが、突然、机の上へ飛び乗った。

「クロ?」

クロは、瑠璃天糸鏡をじっと見つめていた。

金色の瞳が、何かを感じ取ったように細められる。

やがてクロは、瑠璃天糸鏡へ向かって前足を伸ばした。

黒い肉球が、鏡面に触れる。


その瞬間――。


瑠璃天糸鏡の鏡面に、青白い光が浮かんだ。

「……!」

淡かった光が、脈打つように強くなっていく。

一本一本の糸のような光が命を得たかのように動き始め、鏡面を流れていった。

「クロ、これは……」

クロは瑠璃天糸鏡から目を離さない。


光の糸が複雑に交わり、やがて鏡の中央に、一つの景色を映し出した。

明るい陽射しに照らされた町。

空へ向かってそびえる高い建物。

道の上を、幾台もの車が走り抜けていく。


その景色の中を、江戸の着物をまとった一人の男が歩いていた。



――令和へ


眩い光が消えた時、葵は見知らぬ道の上に立っていた。

抜けるような青空から、明るい陽射しが降り注いでいる。

目の前には、空へ届きそうなほど高い建物が立ち並び、その窓が陽光を受けて白く輝いていた。

道の上を、幾台もの車が絶え間なく走り抜けていく。


葵は目を細め、辺りを見回した。

以前、紗江と一度だけ訪れた、不思議な町。

「……令和」


葵は、自分の両手へ目を落とした。

傷はない。

体のどこにも痛みはなかった。

胸へ手を当てれば、確かな鼓動が伝わってくる。

「私は……生きているのか」


禁呪によって失われるはずだった命。

葵は、自分がここへ至るまでのことを思い返した。

暗闇の中に見えた、一筋の光。


「葵! 光が見えたら、そこを斬るのじゃ!」


松雲の叫びが、耳の奥によみがえる。


――紫皇刀。時を断つ刀。


蒼馬が投げ渡してくれた、あの刀だ。

「そうか……蒼馬、お前のおかげか」

松雲の声が、斬るべき場所を教えてくれた。

そして蒼馬が、そのための刀を届けてくれた。

どちらが欠けても、ここにはいなかったのだろう。


陽射しの温かさも、頬を撫でていく風も、あまりに鮮明だった。

生きている。

自分は、本当に生きている。


その喜びが胸へ広がりかけた時、葵の脳裏に紗江の姿が浮かんだ。

「紗江……」


もう一度会いたい。

けれど、葵には時を渡る術などなかった。

葵は唇を引き結び、その思いを胸の奥へ押し込めた。


それでも、生きなければならない。


葵は改めて周囲を見回した。

橋のたもとには、見覚えのない姿をした獅子が据えられている。

その近くに刻まれた文字を読み、葵は目を見開いた。

「日本橋……」


建物も、橋も、人々の装いも、葵の知るものとはまるで違う。

それでも、この名を忘れるはずがなかった。

紗江と初めて出会った場所。

時を越えて現れ、途方に暮れていた紗江へ、葵が初めて手を差し伸べた場所だった。


葵は、ここにはいない紗江の姿を探すように、人々の行き交う道を見つめた。

だが、どれほど願っても、あの日のように紗江が現れることはない。


「……行こう」


行く当てはなかった。

頼れる者も、持ち合わせもない。

この時代でどう生きればよいのかさえ、何一つ分からない。

それでも葵は、令和の町へ向かって歩き始めた。


江戸の着物に身を包み、髪を結った葵の姿は、行き交う人々の視線を集めた。

中には足を止め、手にした携帯電話を向ける者もいる。

「撮影かな?」

「俳優さんじゃない?」

そんな声が耳へ届いたが、葵には何を言われているのか分からなかった。


ただ一人、紗江のいない時代を歩いていく。

その足取りに迷いはなかったが、胸の内には、二度と埋めることのできない寂しさが広がっていた。



――瑠璃天糸鏡の導き


紗江のアパートでは、瑠璃天糸鏡が青白い光を放ち続けていた。

その鏡面には、令和の町を歩く葵の姿が映っている。

「葵様……」

紗江は震える手で、鏡へ触れた。


映し出された葵は、紗江が江戸で最後に見た時とは違っていた。

足取りもしっかりしている。

傷ついた様子はどこにもない。


生きている。

葵は本当に、令和で生きている。


目から涙が溢れた。

けれど、今は泣いている場合ではない。

葵は歩き続けている。

令和のことをほとんど知らないまま、たった一人で、どこかへ行こうとしている。


「待っていてください、葵様」

紗江は、瑠璃天糸鏡を胸へ抱きしめた。

「私が、必ず見つけます」


鏡の中で、葵の背後にある橋が見えた。

欄干の近くに刻まれた文字。

そこには、はっきりと「日本橋」と記されていた。

「日本橋……」

紗江は息を呑んだ。


二人が、初めて出会った場所。

もし松雲の術が二人の縁をたどったのなら、葵があの場所へ現れたことも、偶然ではないのかもしれない。


葵の守り袋を首へ掛け、財布と携帯電話、アパートの鍵を鞄へ入れる。

瑠璃天糸鏡を抱え、クロを連れて、急いで部屋を飛び出す。

「行こう、クロ」

「ニャア!」

「葵様のところへ」


日本橋へ向かう間も、瑠璃天糸鏡の光は消えなかった。

鏡面には、令和の町を歩く葵の姿が映り続けている。

高い建物の前を通り、交差点を渡り、人々の間を進んでいく。

葵がどちらへ向かっているのか、紗江には分からない。

それでも、鏡は葵の姿を見失わなかった。


「もう少しだけ、待っていてください……」

紗江は何度も、鏡の中の葵へ呼びかけた。

その声は届かない。

けれど、葵がまだそこにいるというだけで、紗江は前へ進むことができた。



――届いた声


日本橋へ着くと、紗江は瑠璃天糸鏡と目の前の景色を交互に見ながら、葵を追った。

鏡の中を横切った白い建物が、紗江の前にも現れる。

葵が渡った交差点。

葵の横を通り過ぎた店。

鏡の中の景色と、目の前の景色が、少しずつ重なっていく。


「近い……」

瑠璃天糸鏡の光が、脈打つように強くなった。

「葵様は、すぐそこにいる」

紗江は鏡を抱えたまま、人々の間を急いだ。

江戸の着物姿で走る紗江を、道行く人々が驚いたように見つめている。

けれど、今の紗江には周囲の視線など何も気にならなかった。


その時、紗江の足元を走っていたクロが、突然立ち止まった。

金色の瞳が、真っ直ぐ前を見つめている。

「ニャア」

クロの声と同時に、瑠璃天糸鏡が一際強い光を放った。

紗江は足を止め、顔を上げた。


行き交う人々の向こう。

明るい陽射しの中を、江戸の着物をまとった一人の男が歩いていた。

見慣れた背中。

何度も寄り添い、何度も追いかけた、愛しい人。


紗江の胸が大きく震えた。


「葵様――!」


声の限りに、その名を呼んだ。

葵の足が止まる。


聞こえるはずのない声だった。

江戸にいるはずの紗江の声が、この時代で聞こえるはずがない。

それでも、葵がその声を聞き間違えるはずはなかった。


「紗江!」


葵は声を上げ、振り返った。

二人の視線が重なった。


その瞬間、瑠璃天糸鏡から光が消えた。

役目を終えた鏡面には、青空と、涙を流す紗江の顔だけが映っていた。


「葵……様……」

紗江の目から、涙が次々と溢れ出す。


生きていた。

葵様が、本当に生きていた。

もう一度、会うことができた。


喜びがあまりにも大きすぎて、胸が詰まり、息をすることさえ苦しい。


葵も、動かなかった。

目の前に立つ紗江が本当に存在しているのか、信じられないように見つめている。

「なぜ……」

葵の声が震えた。

「なぜ、紗江がここにいる」


紗江は瑠璃天糸鏡を鞄へ滑り込ませ、葵へ向かって駆け出した。

クロも、その後を追う。

「葵様……!」

葵も紗江へ向かって歩き出した。

やがて、その足は駆け足に変わった。

二人の距離が、急速に縮まっていく。


葵の前までたどり着いた紗江は、震える手を伸ばした。

葵は、紗江の手を取った。

「私だ、ここにいる」

その温もりに触れた瞬間、紗江の膝から力が抜けた。

葵は紗江を両腕で受け止め、強く抱きしめた。


「よかった……」

ようやく、それだけが声になった。

「本当に……よかった……」


江戸で最後に抱き合った時とは違う。

その腕には力がある。

頬を寄せた胸からは、確かな鼓動が伝わってくる。


「葵様……葵様……!」

紗江は何度も、その名を呼んだ。

「生きていた……本当に、生きていた……」

「ああ」

葵も、紗江の髪へ顔を埋めた。

抱きしめる腕が、僅かに震えている。


「……」

葵は紗江の肩へ手を置き、その顔を見つめた。

「どうして、この時代にいる」

「葵様が消えたあと、松雲様が教えてくださったのです。時戻しの術が成功し、葵様が時の狭間を斬ることができていれば、令和で生きているかもしれないと」

「松雲様が……」

「クロに残された力を使い、私も江戸から戻ってきました」


葵の目が大きく揺れた。

「私を、追ってきてくれたのか」

紗江は涙を拭い、しっかりと頷いた。

「はい」

「どうしても、葵様に会いたかったのです」


葵は何も言わなかった。

ただ、堪えきれなくなったように、もう一度紗江を抱きしめた。

「紗江……」

「はい」

「私も、会いたかった」


その一言に、紗江の目から再び涙が零れた。

「私もです……!」


二人の足元へ、クロが駆け寄る。

「ニャア」

葵は紗江を抱いたままクロを見下ろし、涙の滲んだ目で微笑んだ。

「クロも、よく来てくれた」

クロは返事をするように、もう一度鳴いた。



――二人を見つめる人々


いつの間にか、二人の周囲には人だかりができていた。

江戸の着物をまとった美しい男女が、互いの名を呼びながら駆け寄り、涙を流して抱き合っている。

人々には、映画かドラマの撮影にしか見えなかった。


「何の撮影?」

「あの二人、俳優さんかな」

「すごく綺麗……」

「カメラはどこ?」

あちらこちらから声が上がり、幾つもの携帯電話が二人へ向けられている。


紗江はようやく周囲の視線に気づき、葵の胸から慌てて離れた。

「葵様……私たち、見られています」

「先ほどから、あの小さな板をこちらへ向けている者がいるな」

「あれは、携帯電話です。写真や動画を撮っているのだと思います」

「なぜ、私たちを撮る」

「たぶん、何かの撮影だと勘違いされているのです」

「撮影……」

葵には、やはり意味が分からないらしい。


その時、人だかりの中から、一人の女性が進み出た。

三十代半ばほどだろうか。

端正な服装をしたその女性は、仕事用と思われる鞄を抱え、驚きを隠せない様子で二人を見つめていた。

「失礼ですが、お二人は、どちらの事務所に所属されていますか?」

「事務所……?」

葵が首を傾げる。

「俳優さんか、モデルさんですよね? 今のは、映画か何かの撮影ではないのですか?」


「いいえ、違います」

紗江は葵の前へ一歩出た。

「私たちは、そういう者ではありません」

「では、一般の方なんですか?」

女性は信じられないという顔で、二人を見比べた。

「もしよろしければ、お二人にお願いしたいお仕事があります」

「ちょうど今、和装を取り入れた広告の企画を進めているんです」


「仕事……」

葵が、その言葉に僅かに反応した。

だが紗江は、すぐに頭を下げた。

「申し訳ありませんが、お断りします」

「紗江、よいのか?」

「はい。今は葵様と家に帰ることが先です」


女性は残念そうな顔をしたが、無理に引き止めようとはしなかった。

鞄から一枚の名刺を取り出し、紗江へ差し出す。

「突然、申し訳ありませんでした。もし気が変わったら、こちらへご連絡ください」

「……はい」


紗江は名刺を受け取り、何気なく目を落とした。

「……高瀬さん」

記された名前を確かめ、そのまま名刺を鞄へしまった。


「お二人でなければ作れない広告になると思います」

女性はそう言い残すと、何度も振り返りながら人混みの中へ戻っていった。


葵は、紗江が名刺をしまった鞄へ目を向けた。

「今の者は、何を頼んでいたのだ」

「私たちに、広告へ出てほしいと言っていたのです」

「こうこくとは、何だ」

「品物を、たくさんの人に知ってもらうためのものです。先ほどの方は、私たちにその手伝いをしてほしいと言っていたのです」


紗江は葵へ手を差し出した。

「葵様」

「とにかく、私の家へ帰りましょう」

「紗江の……家」

「はい。江戸とは違って、部屋が一つしかない狭い家ですけれど」


「広さなど、どうでもよい」

葵は、紗江の手を強く握った。

「お前と同じ場所にいられるのなら、それでよい」

紗江の胸に、温かなものが込み上げた。


「令和のことは、私が葵様にお教えします。江戸で葵様が私へ手を差し伸べてくださったように、今度は私が、葵様をお守りします」

「頼りにしてよいのか?」

「もちろんです」

紗江が笑うと、葵も安堵したように微笑んだ。

「ああ。頼りにしている」


二人は、手をつないで歩き始めた。

その足元には、クロが寄り添っている。

明るい陽射しの中、二人の影が並んで伸びていた。


元禄の日本橋で始まった二人の物語は、令和の日本橋から、再び動き始めた。

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