第3章 第58話 さよなら、愛しき江戸
――静寂
荒れ狂っていた風が止んだ。
空を覆っていた光の渦が、静かに消えていく。
巨大な裂け目はゆっくりと閉じ、やがて跡形もなくなった。
庭に降る雨は、再び空から地面へ落ちていた。
満開の桜も、向日葵も、風に舞っていた紅葉も、雪も消え、本来の季節だけが戻っている。
江戸の時は、元へ戻った。
けれど――
葵は、いなかった。
誰も動けなかった。
誰も声を出せなかった。
つい先ほどまで葵がいた場所を見つめたまま、何が起きたのかを受け止められずにいた。
蒼馬は、空へ伸ばしていた手をゆっくりと下ろした。
「蒼馬!……確かに受け取った」
その声が、耳の奥に残っていた。
間に合った。
刀は、確かに届けた。
けれど、自分はここにいる。
どこへでも、ともについて行くつもりだった。
それなのに、葵は一人で行ってしまった。
蒼馬は唇を動かした。
呼び慣れたはずの名が、うまく声にならない。
「葵……様……」
その場に膝をつき、顔を伏せた。
蓮は、固く握った拳を見つめていた。
昨夜、皆で笑っていた。
隼人の腹が減るという言葉に、葵も笑っていた。
「明日は、皆でゆっくり飯を食おう」
今日も、そうして笑えるはずだった。
蓮は拳を地面へ押しつけた。
「……朝飯、まだじゃないですか」
返事はなかった。
雨が、握りしめた手を濡らしていく。
隼人は顔を背けた。
鰻をねだった自分に、葵は何のためらいもなく答えた。
「ああ!特上だ」
あの声も、嬉しそうな顔も、まだはっきりと思い出せる。
近いうちに。
そう約束したばかりだった。
「……楽しみに、してたんですよ」
笑おうとした口元が歪んだ。
堪えようとするほど、息が震える。
隼人は袖で目元を覆った。
無刄は、葵が消えた空を見上げていた。
かつては、刃を向けた相手だった。
その葵と、ともに戦い、同じ場所へ帰ってきた。
昨夜も、皆と並ぶ自分へ、葵は声をかけてくれた。
「お蘭、蒼馬、無刄も、大事ないか?」
自分の傷より先に、仲間の無事を確かめていた。
今、自分はここに立っている。
守りたかった人だけが、どこにもいなかった。
無刄は静かに目を閉じ、深く頭を垂れた。
お蘭は、紗江の肩を支えたまま立ち尽くしていた。
昨夜、葵は皆の顔を見回して言った。
「みんなと、こうして帰ってこられる。それが、私には何より嬉しい」
あの時は、ただ嬉しかった。
自分も、その輪の中にいることが。
また皆で帰ってくればよいのだと思っていた。
何度でも。
お蘭の頬を、涙が伝った。
拭おうとはしなかった。
紗江を支える手を、離せなかった。
紗江は、葵が消えた場所を見つめていた。
手のひらには、まだ葵の指の感触が残っている。
最後に離れたのは、葵の方だった。
自分を見つめていた目。
名を呼んだ声。
ゆっくりと離れていった手。
紗江は、自分の手を見下ろした。
昨夜も、この手を握ってくれた。
「また明日」
明日も会えると信じていた。
朝になれば、あの穏やかな顔で迎えてくれると思っていた。
「……葵様」
紗江が、一歩踏み出した。
お蘭の手が肩から滑り落ちる。
葵が立っていた場所へ、もう一歩近づいた。
けれど、そこには何もない。
紗江は手を伸ばした。
指先に触れたのは、冷たい雨だけだった。
「葵様……」
膝から力が抜けた。
お蘭が咄嗟に支え、ともに地面へ膝をつく。
紗江は伸ばしていた手を胸元へ引き寄せ、握りしめた。
「お願いです……戻ってきてください……」
何度呼んでも、返事はなかった。
松雲は、光を失った陣の前に立ち尽くしていた。
雨に濡れた呪符が、地面に張りついている。
つい先ほどまで印を結んでいた両手を、ゆっくりと見下ろした。
葵をこの時代へ呼び寄せた手だった。
幼い体を抱き上げ、幾度もその頭を撫でてきた。
その手で今、葵を送り出した。
「……すまぬ」
震える声が漏れた。
「すまぬ……葵……」
頬を伝う涙が、雨に交じって落ちた。
何度詫びても、葵からの返事はない。
松雲は顔を上げられなかった。
縁側では、クロが空を見上げていた。
葵の姿を探すように、金色の瞳を動かしている。
やがて、小さく鳴いた。
杏もまた、濡れた頬を拭わずに、閉じてしまった空を見つめていた。
――その夜、葵の屋敷
雨がやんでも、屋敷に話し声が戻ることはなかった。
皆がそれぞれの場所で、葵を失った悲しみに耐えていた。
紗江は一人、葵の部屋に座っていた。
畳まれた着物。
いつも葵が座っていた場所。
何一つ変わっていないように見えるのに、そこにいるはずの人だけがいない。
障子の向こうで、微かに物音がした。
紗江は顔を上げた。
今にも障子が開き、葵が戻ってくるような気がした。
穏やかに自分の名を呼んでくれる。
ただ、それだけのことを待っていた。
けれど、障子は開かなかった。
紗江は膝の上へ目を落とした。
両手の中には、葵の守り袋があった。
「……葵様」
小さな呟きが、暗い部屋へ吸い込まれていく。
「私も、一緒に参ると申し上げたのに……」
守り袋を握る指に、力がこもった。
最後まで手を離さないつもりだった。
どこへでも、ともに行くつもりだった。
けれど、葵は自らその手を離した。
自分の足が地面から浮きかけた、あの瞬間。
葵がどんな思いで手をほどいたのか、今なら分かる。
分かっても、会いたかった。
「葵様にも、生きていてほしいのです」
そう伝えた自分に、葵は確かに頷いてくれた。
「……生きていてください」
守り袋へ、一粒の涙が落ちた。
「どこにいても……どうか……」
紗江は守り袋を胸へ抱きしめた。
葵と歩いた江戸の町。
並んで月を見上げた縁側。
令和の両親の姿を、涙を浮かべて見つめていた横顔。
思い出すたび、胸の奥が痛んだ。
あの時も、葵は江戸へ帰ることを選んだ。
皆がいる、この場所で生きたいと願っていた。
それなのに。
「もっと、一緒にいたかった……」
声にした途端、堪えていたものが崩れた。
紗江は守り袋を胸へ押し当て、声を上げて泣いた。
「もう一度……会いたいです……葵様……」
その背後で、瑠璃色の光が微かに揺らめいた。
瑠璃天糸鏡から、細い光の糸が一本、紗江の手にある守り袋へ向かって伸びていく。
けれど、俯いて泣き続ける紗江は、それに気づかなかった。
光の糸は守り袋へ触れる寸前、淡くほどけた。
そして、何事もなかったかのように消えていった。
その夜、葵の部屋には、紗江の泣き声だけがいつまでも響いていた。
――翌朝、葵の屋敷
夜が明けても、紗江は葵の部屋にいた。
守り袋を握ったまま、ほとんど眠ることができなかった。
廊下から、足音が近づいてきた。
「紗江、良いか。……これからの話がある、澄月庵に来てくれるか」
障子の向こうから、松雲の声がした。
紗江はゆっくりと顔を上げた。
「皆にも、集まってもらった」
「……はい」
紗江は守り袋を握りしめ、立ち上がった。
間もなく、澄月庵の居間に仲間たちが集まった。
蒼馬、蓮、隼人、無刄、お蘭――。
誰の目も赤く腫れ、言葉少なに座っていた。
紗江もまた、葵の守り袋を両手で握りしめている。
その足元には、クロが寄り添っていた。
松雲は皆の顔を見回し、静かに口を開いた。
「昨日、葵が紫皇刀を受け取った時……わしは、禁呪を解く術へ、もう一つの術を重ねた」
蒼馬が顔を上げた。
「光が見えたら、そこを斬れと……仰っていましたね」
松雲は頷いた。
「蒼馬のおかげで気づくことができた。時を断つ刀ならば、狭間に道を開けるやもしれぬ、とな」
紗江は、守り袋を握り直した。
「では、葵様は……」
「わしが重ねたのは、葵を本来いるべき時へ導く術じゃ」
「本来いるべき時……」
「令和じゃ」
紗江の胸が、大きく鳴った。
「葵様が……令和に?」
松雲は、すぐには頷かなかった。
「間違いなく辿り着いたとは、言えぬ」
その言葉に、紗江の指が強張った。
「術を重ねることはできた。じゃが、あの乱れた時の中で、葵に道を示せたかどうか……」
松雲は一度、言葉を切った。
「ゆえに、確かめられるまでは、何も言えなんだ」
「……何か、分かったのですか」
蒼馬が尋ねた。
松雲は、紗江の手元へ目を向けた。
「夜明け前、葵の部屋から微かな時の揺らぎを感じた」
紗江は、はっと守り袋を見下ろした。
「まさか、この守り袋から?」
「葵の気配が、完全には消えておらぬ」
座敷に、沈黙が落ちた。
紗江は守り袋を見つめたまま、動けなかった。
昨夜、どれほど呼んでも、返事はなかった。
もう二度と会えないのだと、何度も思った。
それでも――。
「生きて……いるのですか」
声が震えた。
「葵様は、どこかで生きているのですか」
松雲は、紗江を真っ直ぐに見つめた。
「そう信じられるだけのものは、残っておる」
紗江の目から、涙が溢れた。
今すぐにでも、確かめたかった。
本当に令和にいるのなら、どこにいても探しに行きたかった。
けれど、そこへ戻る道は――。
紗江は足元のクロを見つめた。
クロが顔を上げた。
金色の瞳が、紗江を見つめ返す。
「前に令和から戻った時、クロがひどく疲れておったのを覚えておるか」
紗江は頷いた。
「はい……。ぐったりして、目も、片方しか金色に光らなくなっていました」
「あの後、わしが預かって様子を見ておった。体は休めば持ち直したが……時を渡る力まで、元に戻ったわけではなかった」
紗江はクロを見下ろした。
あの時、腕の中で身を預けていた重みを思い出す。
松雲は、静かに続けた。
「クロに残された、時を渡る力はあと一度だけじゃ」
紗江の手が、クロの背へ伸びた。
「その最後の力を使えば、お主を令和へ帰すことができる」
「……帰れるのですか」
「ああ。じゃが、令和へ帰れば、もう、この江戸へ渡ってくることはできぬ」
紗江は息を詰めた。
松雲は、紗江を真っ直ぐに見つめた。
「葵がおるかどうかも分からぬ。それでも、令和へ行くか?」
「私は……」
紗江は、守り袋を握りしめた。
葵が、令和にいるかもしれない。
その僅かな可能性に、今すぐにでも縋りたかった。
けれど、仲間たちの顔を見ると、その先の言葉が出てこなかった。
葵のいない江戸。
それでも、ここには大切な仲間たちがいる。
この居間で、何度皆と話しただろう。
笑い合い、時には言い争い、それでも最後には、誰かがそばにいてくれた。
何かあれば、すぐに話したくなる。
姿が見えなければ、どこにいるのかと探してしまう。
いつの間にか、皆がそばにいることが、紗江の日々になっていた。
この場所を離れることもまた、紗江にとっては身を切られるほどつらいことだった。
松雲は、そんな紗江をしばらく見つめていた。
「紗江」
静かな声に、紗江は顔を上げた。
「決めるのは、お主じゃ」
江戸に残れば、大切な仲間たちとともに生きていくことができる。
令和へ戻れば、二度とこの江戸へ来ることはできない。
それでも、そこには葵と再び会えるかもしれない、僅かな可能性がある。
紗江は、長い間、何も言わなかった。
仲間たちも、固唾を呑んで見守っている。
誰も、返事を急がせなかった。
紗江は、手の中の守り袋へ目を落とした。
「これを……持っていてくれ」
最後に託された時の、葵の声が蘇った。
紗江はそっと指を重ね、守り袋を胸へ当てた。
もう一度、会いたい。
どこかで生きているのなら、今度は自分が、その人のもとへ行きたかった。
やがて紗江は、ゆっくりと顔を上げた。
「……私、令和へ戻ります」
声は震えていた。
それでも、松雲を見つめ、言葉を続けた。
「葵様に会える可能性を……信じます」
松雲は、深く頷いた。
「……分かった。ならば、支度をせよ」
「時の揺らぎは、今も薄れ続けておる。道が閉じる前に、お主を送らねばならぬ」
松雲は、紗江の足元にいるクロへ目を向けた。
「クロだけに任せるには、残された力が少なすぎる。わしも力を貸し、令和への道を支えよう」
紗江はクロを見つめ、それから松雲へ深く頭を下げた。
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
「わしは庭に陣を整える。その間に、皆と話しておくがよい」
松雲が居間を出ると、紗江は仲間たちへ向き直った。
「皆さんとお別れするのが、寂しいです」
声にすると、また涙が溢れた。
「紗江様、そんなに泣いては……目が腫れてしまいますよ」
お蘭は手を伸ばし、その頬を濡らす涙を拭った。
「葵様に、腫れた目でお会いするのですか」
いつものように言ってから、お蘭自身も涙を零した。
紗江は泣きながら、小さく笑った。
「お蘭だって……」
「……そうですね」
二人は互いの顔を見つめた。
言いたいことはたくさんあるはずなのに、何から話せばよいのか分からなかった。
お蘭は紗江の手を取り、両手で包んだ。
「……お蘭に、お願いしてもいい?」
「何でしょう」
「……お店を任せてもいいかな」
お蘭は、驚いたように目を見開いた。
「私が……でございますか」
「うん。お針子さんたちと一緒に、この先もお店を守ってほしいの」
「ですが、私に務まるでしょうか……」
「お蘭なら大丈夫。私が大切にしてきたものを、安心して託せるのは、お蘭しかいないもの」
お蘭の瞳から、再び涙が溢れた。
「承知いたしました。紗江様のお店も、お針子の皆も……私が必ず守ります」
「ありがとう、お蘭」
「紗江様が残してくださったものを、決して途絶えさせはいたしません」
紗江は、お蘭を強く抱きしめた。
「紗江」
「……はい」
無刄に呼ばれ、紗江は無刄の方へ向き直った。
「お別れの前に、お礼を申し上げたくて」
「お礼……?」
無刄は静かに頷いた。
「あなたに出会わなければ、私は今も、夜鴉にいたかもしれません」
紗江は、その顔を見つめた。
「初めは、妹に似ていると思ったのです。だから、放っておけぬのだと……」
そこで言葉を切り、僅かに目を伏せた。
「ですが、ともに過ごすうちに、あなたが笑っていると、私も嬉しくなりました。今日は何を話してくださるだろうと、楽しみにするようになっておりました」
紗江の目に、涙が浮かんだ。
「無刄さん……」
「皆と食事をし、他愛のない話をして眠る。翌朝には、また誰かが声をかけてくれる」
無刄は、仲間たちへ目を向けた。
「そのような暮らしが、自分にもできるとは思っておりませんでした」
そして、紗江へ視線を戻した。
「あなたに出会えて、私は幸せです。ありがとうございます」
紗江は首を振った。
「夜鴉を離れたのは、無刄さんが自分で決めたことでしょう」
「はい。ですが、そのきっかけをくださったのは、あなたです」
無刄は微笑もうとした。
けれど、その目に涙が滲んだ。
「……寂しくなります」
紗江の頬を、涙が伝った。
「……私もです」
無刄はゆっくりと頷いた。
「無刄さんがここにいてくれて、どんなに心強かったか……」
その言葉に、無刄の表情が揺れた。
やがて、深く頭を下げる。
「どこにいても幸せでいてください」
「はい、無刄さんも」
「隼人……」
紗江が向き直ると、隼人は笑おうとした。
けれど、うまくいかなかった。
「……本当は、行くなって言いたい」
紗江は、その顔を見つめた。
「葵様もいなくなって、紗江まで……。明日から、どうすればいいかわかんないや」
「隼人……」
「皆がいる。分かってる。でも、紗江としか出来ないこと……いっぱいあるだろ」
「ごめん、隼人。……ごめん」
隼人は袖で目元を拭った。
「……葵様を見つけたら、伝えてくれよ。特上の鰻、俺は忘れてませんからって」
紗江は涙を浮かべたまま、小さく頷いた。
「うん……必ず、伝える」
隼人も頷いた。
今度は、少しだけ笑っていた。
「蒼馬さん」
紗江は蒼馬へ向き直り、深く頭を下げた。
「葵様に刀を渡してくださって、本当にありがとうございました。おかげで、もう一度お会いできるかもしれないと……希望が持てました」
「いえ。お礼を申し上げたいのは、私の方です」
紗江が顔を上げると、蒼馬は静かに微笑んでいた。
「紗江様がいらしてから、葵様はよく笑われるようになりました」
その声が、僅かに震えた。
「長くお仕えしてきた私も、知らなかったお顔です。紗江様を見つめておられる時は、いつも……」
蒼馬は一度、言葉を切った。
目元を拭い、紗江を見つめる。
「そのお顔を拝見するのが、私も嬉しかったのです」
「蒼馬さん……」
「紗江様も、どうかお元気で」
蒼馬は深く頭を下げた。
「そして、葵様にお会いできたなら……今度こそ、お二人で幸せになってください」
紗江は涙を流しながら、しっかりと頷いた。
「はい……。必ず、見つけます」
蓮は目元を拭い、紗江を見つめた。
「……少しだけ、いいか」
紗江が頷くと、蓮はそっと腕を伸ばし、紗江を抱きしめた。
「蓮……」
「……さよならは言えそうにねーや」
その声が、すぐそばで震えた。
紗江は蓮の袖を、そっと握った。
蓮は一度、目を閉じた。
それから、ゆっくりと腕をほどく。
「葵様を、頼むな」
紗江は涙を浮かべ、頷いた。
「うん……」
蓮は紗江の肩を軽く叩いた。
「行ってこい!」
「……行ってきます」
蓮は頷き、肩に置いていた手を離した。
紗江は皆を見回した。
皆で笑った日。
一緒に食事をした日。
他愛のない話をした夜。
別れを前にして思い浮かぶのは、悲しい記憶ではなかった。
どの思い出の中でも、皆が笑っていた。
紗江は涙を拭った。
「不思議だね……」
泣きながら、それでも僅かに微笑む。
「こんなに寂しいのに、みんなの笑顔ばかり、思い浮かぶ」
誰も言葉を返せなかった。
紗江は、一人一人の顔を心へ刻み込むように見つめた。
「皆さんのこと、絶対に忘れません」
声が震える。
「ここで過ごした日々も、この澄月庵のことも……ずっと、心に刻んでおきます」
深く頭を下げると、紗江は居間を出た。
その時、手つかずのまま残された朝食に目が留まった。
皆、葵が消えてから、何も口にしていない。
紗江は足を止め、それから庭へ目を向けた。
松雲が陣を整えていた。
「松雲様、もう少しだけ時間をください」
「……時は迫っている、急いでくれ」
紗江は、一人で台所へ向かった。
――澄月庵の庭
紗江が戻った時、庭には大きな陣が描かれていた。
その前に座った松雲が、低い声で呪文を唱えている。
陣の線に沿って、淡い光が走った。
お蘭が、大きな風呂敷包みを差し出した。
「お着替えと、向こうで必要になりそうなものを、少しばかり」
「こんなにたくさん……ありがとう」
お蘭は紗江の背へ包みを回し、背負えるように結んだ。
紗江は、葵の守り袋が懐にあることを、そっと確かめた。
足元で、クロが小さく鳴いた。
紗江はしゃがみ、その背を撫でた。
「クロ……もう一度だけ、お願いね」
金色の瞳が、紗江を見上げた。
差し出した腕へ、クロは大人しく身を預ける。
紗江はその体を胸に抱き、陣の中へ進んだ。
松雲が顔を上げた。
「支度はよいか」
「はい」
松雲は紗江とクロを見つめ、頷いた。
「陣が道を支えられるのは、僅かな間じゃ。わしが合図をしたら、クロに呼びかけるのじゃぞ」
紗江はクロを抱き直し、陣の前で術を続ける松雲へ目を向けた。
「松雲様、皆さん、大変お世話になりました」
深く頭を下げると、松雲は呪文を唱えながら、一度、確かに頷いた。
紗江は顔を上げ、庭に集まった皆を見回した。
「私、ここで暮らせて、本当に幸せでした」
お蘭が口元を覆った。
隼人は顔を伏せ、蓮は唇を噛みしめている。
無刄と蒼馬は、紗江を見つめたまま立っていた。
地面に描かれた陣が脈打つ。
クロの金色の瞳が光を増し、紗江の足元から、淡い光が立ち上り始めた。
松雲が、紗江を見上げた。
「時は、人を遠く引き離す。じゃが――結ばれた縁まで断つことはできぬ」
紗江は、涙に濡れた目で松雲を見つめた。
「葵との縁は、まだ尽きておらぬ。わしは、そう信じておる」
松雲は涙を拭うことなく、紗江へ静かに微笑んだ。
「いつの日か再び巡り会えたなら、その時こそ、二人で幸せになるのじゃ」
紗江の胸に、小さな光が灯った。
「……はい」
松雲は再び呪文を唱え、印を結ぶ手に力を込めた。
光が、紗江とクロを包み始めた。
紗江は、もう一度皆の顔を見渡した。
蒼馬も、蓮も、隼人も、無刄も、お蘭も。
この人達を、絶対に忘れない。
澄月庵も、皆と過ごした日々も。
「……行ってきます」
クロを片腕で抱き、笑顔で手を振った。
「元気でな!」
仲間たちも、手を振り返す。
松雲の肩では、杏も小さな手を懸命に振っていた。
光が強くなる。
紗江は最後に、澄月庵を見渡した。
目に映る全てが、愛おしかった。
もう一度、必ず葵様に会いたい。
「紗江、今じゃ!」
松雲の声が響いた。
その願いを胸に、紗江はクロの背へそっと触れた。
「――クロノス」
その瞬間、光の陣が眩い輝きを放った。
白い光が庭いっぱいに弾け、紗江とクロを包み込む。
やがて、その姿は光の中へ溶けるように消えていった。




