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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第3章 第57話 時の綻びと代償

――澄月庵、帰還の夜


澄月庵の明かりが見えた時、紗江はようやく肩の力を抜いた。

葵とともに門をくぐると、蒼馬、蓮、隼人、無刄、お蘭も続いた。


皆の衣には、戦いの跡が残っていた。

それでも、誰一人欠けてはいなかった。


「この景色、ホッとするよな」

蓮が庵を見上げて呟くと、隼人が上がり框へ腰を下ろした。

「そうか?おれはこの景色見ると腹がへるんだよなー」


葵は小さく笑い、お蘭、蒼馬、無刄へと目を向けた。

「お蘭、蒼馬、無刄。大事ないか?」

三人が頷くのを確かめ、葵は息をついた。

「……良かった」


「今宵は、皆も傷の手当てが先でしょう。祝いの席は、日を改めて」

蒼馬の言葉に、隼人が葵を見上げた。

「では近いうちに、鰻ご馳走してくださいね」

「ああ!特上だ」

「皆、聞いたか?特上だぞ」

隼人が念を押すように皆を見ると、蓮が吹き出した。

お蘭と無刄も、つられて笑った。


その笑い声を聞いて、紗江はそっと目元を拭った。

つい先ほどまで、またこうして皆で笑えるかどうかさえ、わからなかったのだ。


「紗江?」

葵に呼ばれ、紗江は顔を上げた。

「……嬉しくて。皆さんと、こうして帰ってこられたことが」

葵は紗江を見つめ、静かに頷いた。

「ああ。本当にな」


やがて、傷の手当てを終えた者から、それぞれ休むことになった。


「明日は、皆でゆっくり飯を食おう」

葵が告げると、隼人が顔を上げた。

「それなら、早起きしますね」

「隼人は飯のこととなると、元気になるよな」

蓮が笑い、皆もつられるように笑った。


廊下を歩きながら、紗江は葵の衣に残る血の跡へ目を留めた。

「葵様、傷の手当てをさせてください」

「心配ない、ただのかすり傷だ」

「それでも、手当てはさせてください」

葵は紗江の顔を見つめ、静かに頷いた。

「……では、頼む」


部屋に入り、紗江は葵の傷を洗い、布を当てた。

葵は大人しく腕を預け、その手元を見つめていた。


手当てを終えると、紗江はようやく息をついた。

「これで大丈夫です」

葵は腕に巻かれた布へ目を落とした。

「ありがとう」

そして、紗江へ穏やかな眼差しを向けた。

「……紗江も早く休め、今日は良く頑張ったな」

その言葉に、紗江は小さく頷いた。


部屋を出ようとした時、葵が紗江の手を取った。

温かな指が、労わるようにその手を包む。

「また明日」

「はい。また明日」


手を離し、紗江は自分の部屋へ向かった。

廊下の途中で、一度だけ振り返る。

葵は部屋の入り口に立ち、こちらを見ていた。

目が合うと、穏やかに微笑んだ。


夜が更ける頃、雨が降り始めた。

屋根を打つ雨音は、途切れることなく続いていた。


――翌朝、葵の屋敷


葵が目を覚ました時、最初に感じたのは、雨音の異様さだった。

絶え間なく降り続いているはずなのに、音が近づいたり遠ざかったりしている。

雨粒が屋根を打つ音に交じって、水が空へ吸い上げられていくような、不思議な音まで聞こえてくる。


葵は身を起こし、窓の外へ目を向けた。

庭の半分では、雨がいつものように空から地面へ降り注いでいる。

ところが、そのすぐ隣では、地面に落ちた雨粒が空へ向かって昇っていた。

「……何だ、これは」


寝巻きのまま立ち上がろうとした、その時だった。

足元の畳が、ぐにゃりと波打った。

まるで水面に足を置いたかのように沈み込み、再びゆっくりと元の形へ戻っていく。


葵は咄嗟に柱へ手をつき、体を支えた。

慎重に足を進めて障子を開けると、その向こうには、さらに信じ難い光景が広がっていた。


庭の桜は満開の花を咲かせ、その傍らでは、夏の向日葵が空を仰いでいる。

風に舞う紅葉の下には白い雪が積もり、降り注ぐ雨が、その雪を濡らしていた。

春夏秋冬――本来なら同時に訪れるはずのない四つの季節が、葵の屋敷の庭に重なっていた。


「葵様!」

隣の澄月庵から駆けつけた紗江が、廊下の向こうに姿を現した。

「紗江!」

紗江は波打つ床に足を取られそうになりながら、急いで歩み寄ってきた。

「これ……いったい、どうなっているのでしょう」

「分からぬ。目を覚ました時には、既にこの有様だった」


葵は異変の正体を確かめようと、庭へ降りた。

その瞬間、体がふわりと浮いた。

「……っ!」

咄嗟に縁側の縁を掴む。

地面へ下ろそうとした足が、宙を掻いた。

見えない力が、葵の体を空へ引き寄せている。


「葵様!」

紗江が縁側へ膝をつき、葵の腕を両手で掴んだ。

昨夜、傷に巻いた布が指に触れた。

その下には、確かな腕の感触がある。

それなのに、力を込めて引いても、葵の体はなかなか戻らなかった。


「手を……離すな」

葵は縁側を掴み直し、紗江の力に合わせて身を引き寄せた。

不意に引く力が緩み、二人は縁側へ倒れ込んだ。


紗江は葵を抱きとめ、その背へ腕を回した。

「大丈夫ですか……!」

「ああ……」

葵は息を整えながら、庭を見つめた。

雨粒は、今も空へ昇り続けている。

「何かに……引かれた」


その時、廊下を急ぐ足音がした。

「葵!」

異変に誰よりも早く気づき、自分の庵から駆けつけた松雲だった。

縁側に座り込む二人を見るなり、足を速める。

「松雲様、今、葵様のお体が浮いて……」


松雲は庭へ目を向けた。

入り乱れる季節と、空へ昇っていく雨粒。

その光景を見つめるうちに、顔から血の気が引いていった。

「……あの時の禁呪で保ってきた、時の釣り合いが崩れ始めておる」


葵が顔を上げた。

「時の釣り合い……?」

松雲は葵のそばへ膝をついた。

何かを確かめるように、その肩へ手を置く。

「お前を、この江戸の時につなぎ留めてきた術じゃ」

肩に置かれた松雲の手が、僅かに震えていた。

「積み重なった時の歪みが……ついに、限界を迎えたのじゃ」


「限界を迎えたら……葵様はどうなるのですか」

紗江が尋ねた。

松雲は、葵の肩に置いていた手をゆっくりと下ろした。

「この江戸の時から、引き離される」


「では、先ほど私を引いた力は……」

葵の問いに、松雲は重く頷いた。

「お前をここにつなぎ留める力が弱まっておる。このままでは、時空の狭間へ引き込まれてしまう」


「そこから、戻ることはできるのですか」

紗江の声に、松雲はすぐには答えなかった。

「……分からぬ。帰る道を見失い、永遠に彷徨うことになるやもしれぬ」


紗江の腕に力がこもった。

葵の背を支える手に、その温もりが伝わってくる。

確かにここにいる人が、どこにも帰れなくなる。

そんなことを、受け入れられるはずがなかった。


「令和へ……戻ることはできないのですか」

松雲は苦しげに眉を寄せた。

「今は、時の道そのものが乱れておる。以前と同じように渡ろうとしても、無事に辿り着ける保証はない」


葵は、空へ昇っていく雨粒を見つめた。

「……私だけの異変ではないのですね」


松雲が答えようとした時、廊下の向こうから慌ただしい足音が響いた。

「葵様!」

真っ先に姿を現したのは、蒼馬だった。

その後ろから、蓮、隼人、無刄、お蘭も続く。


「町中がおかしくなっています」

蒼馬が息を整えながら告げた。

「朝になったと思えば、突然夜へ戻り、川の水まで逆に流れている。人々も同じ動きを何度も繰り返して……」


そこまで話し、蒼馬は紗江に支えられている葵へ目を留めた。

「葵様、どうなさいました」

「私は大事ない」

葵は縁側に手をつき、座り直した。

「だが、この異変は……私と関わりがあるらしい」


皆の表情が変わった。

「どういうことだ、松雲様」

蓮が一歩進み出る。

「町の異変と葵に、何の関係があるんだ?」


松雲は集まった皆を見回し、深く息を吐いた。

「……全て、わしが禁呪を使った代償じゃ」


「代償……?」

お蘭が不安げに呟いた。

「わしは禁呪を使い、幼い葵を未来からこの時代へ呼び寄せた。そして、本来いるべき時から切り離された葵を、この江戸につなぎ留め続けてきた」


誰も言葉を挟まなかった。

松雲は膝の上で、強く拳を握った。

「じゃが、それは本来の時の流れに背くこと。長い年月の間に積み重なった歪みが、葵一人に留まらず、この江戸の時にまで及び始めておる」


隼人が庭へ顔を向けた。

桜の花びらと紅葉が入り交じり、降る雨と昇る雨が、その間を行き交っている。


蒼馬が松雲を見つめた。

「町で起きている異変も……全て、その禁呪の影響なのですか」

松雲は目を伏せた。

「……わしが招いたことじゃ」


「では、どうすればよいのですか」

お蘭が尋ねた。

「葵様も、町の人々も……助ける方法は、あるんですよね!」


松雲は答えず、葵を見つめた。

その目には、葵を失う恐怖と、自らが下さなければならない決断への苦しみが滲んでいた。


長い沈黙の後、松雲は重い口を開いた。

「禁呪を解き、時の流れを……元へ戻すしかない」


「解けば、葵様はどうなるのですか」

蒼馬の問いに、松雲の唇が僅かに震えた。

「この江戸につなぎ留めるものが、なくなる」


「では……」

蒼馬は、その先を口にできなかった。

「葵を、時空の狭間へ送り出すことになる」


蓮が松雲へ詰め寄った。

「松雲様……それがどういうことか、分かって言ってるんですか」

蓮の声が震えた。


松雲は、膝の上で握った拳を見つめた。

「このまま術が崩れれば、時の歪みはさらに広がる。わしの手で解けば、少なくとも、この江戸を巻き込むことは止められる」


「江戸を救うために……葵様を手放せというのか」

隼人の声が低く震えた。

松雲は何も答えなかった。

否定できないことが、その沈黙から伝わってきた。


その時だった。

耳をつんざくような轟音が響き、屋敷全体が激しく揺れた。

庭の木々がざわめき、屋根から瓦が滑り落ちる。

葵は咄嗟に紗江を庇い、その肩を抱き寄せた。


一同が空を見上げると、厚い雲を引き裂くように、巨大な亀裂が走っていた。

「何だ、あれは……」

隼人が呟いた。

亀裂の向こうから眩い光が溢れ出し、周囲の雲や雨を巻き込みながら、大きな渦を作り始める。


「時空の裂け目じゃ……!」

松雲が立ち上がった。

渦は唸りを上げながら、ゆっくりと広がっていく。


屋根の向こうに見える町並みが、霞のように揺らいだ。

建物の一部が消え、次の瞬間には再び現れる。

人々の悲鳴が、風に乗って屋敷まで届いた。


「このまま裂け目が広がれば、江戸全体が時空の狭間へ飲み込まれる」

「江戸全体が……?」

無刄が目を見開いた。

「町も、そこに暮らす者たちも、全てじゃ」

お蘭は口元へ手を当てた。

誰もが、遠くの町並みを見つめていた。


紗江の肩に置かれた葵の手が、ゆっくりと離れた。

「葵様……?」

葵は縁側に手をつき、立ち上がった。


足元の揺らぎに耐えながら、幼い頃から暮らしてきた江戸の町を思い返した。

通りに響く物売りの声。

子供たちが駆けていく路地。

紗江と並んで歩いた日本橋。

その一つ一つが、葵の胸に浮かんだ。


やがて葵は、松雲へ向き直った。

「……分かりました」

松雲が、息を呑んだ。

「私を、時空の狭間へ送り出してください」


「葵様!」

蒼馬が葵へ詰め寄った。

「お待ちください。ほかに方法があるはずです。もう少し時間があれば……」

「その間にも、裂け目は広がる」

葵は静かに首を振った。

「私一人がここに留まるために、江戸に暮らす全ての者を巻き込むことはできぬ」


「でも……どうして葵様だけがいなくならなきゃならないんだよ!」

蓮が強く拳を握りしめた。

「そんなの絶対、嫌だ!」


その時、遠くから悲鳴が聞こえた。

続いて、子供の泣き声が風に乗って届く。

広い庭に囲まれたこの屋敷には、普段、町の人々の声が届くことなどなかった。

蓮が言葉を失った。


葵は声のした方へ顔を向けた。

「……怖くないと言えば、嘘になる」

葵の声に、蓮が顔を上げた。

「私も、ここにいたい。皆と飯を食い、他愛のない話をして……これからも、そうして生きていたかった」


紗江は葵を見つめた。

昨夜交わした「また明日」という言葉が、胸に蘇った。


「だが、皆が暮らすこの町を、私が失わせるわけにはいかぬ」

葵は、一人一人の顔を見回した。

「私は、この江戸が好きだ。ここで出会った皆を、心から大切に思っている」

その声が、揺れる空の下へ静かに響いた。

「だからこそ、守りたい」


「葵様……」

隼人が歯を食いしばった。

「俺たちは、葵様を守りたいんだ……」

葵は、その言葉を受け止めるように頷いた。


紗江が葵の腕へ手を添えた。

「私も一緒に参ります」

静かな声だった。

葵が振り向くと、紗江はその目を真っ直ぐに見つめた。

「どうか、お連れください」


葵は何も答えられなかった。

腕に添えられた紗江の手へ、自分の手を重ねる。

「……紗江。どこへ辿り着くかも分からぬのだ」

「承知しております」

紗江の指が、葵の手を握り返した。

「それでも、葵様と一緒にいたいのです」


葵は紗江を引き寄せ、強く抱きしめた。

「俺もだ……」

声が、耳元で震えた。

「だが、お前には生きてほしい」

「葵様にも、生きていてほしいのです」

葵の腕に、いっそう力がこもった。


「……まだ、あきらめるな!」

蓮が松雲へ向き直った。

「俺たちに何か、できることはないんですか!」

松雲は苦しげに首を振った。

「無理につなぎ留めれば、さらに時の歪みを広げることになる」

「それでも――」


「もうよい!」

葵の声に、皆が言葉を失った。

「松雲様の邪魔をするな。……これは命令だ」


葵は紗江の背から、ゆっくりと腕を離した。

「頼む。これ以上、私の決意を鈍らせないでくれ」

蓮は唇を噛みしめた。

隼人も、握った拳を下ろせずにいる。


その頭上で、空の裂け目が大きく脈打った。

屋敷が軋み、庭の木が根元から傾く。


松雲は庭へ下り、懐から呪符を取り出した。

揺らぐ地面へ、一枚ずつ並べていく。

葵は紗江の手を握ったまま、その後へ続いた。

蒼馬も無言で付き従う。


最後の呪符を置いた松雲が、顔を上げた。

「葵、そこへ」

葵が呪符に囲まれた場所へ立つ。

紗江と蒼馬も、そのそばを離れられなかった。


「二人とも、陣の外へ。この術で、ともに渡ることはできぬ」

紗江は葵の手を握りしめた。

蒼馬も動かなかった。

「同じ場所へ行けるとは限らぬのじゃ。お主らまで、別々に時の中へ投げ出されるやもしれぬ」


葵は紗江を見つめた。

「……聞いてくれ、紗江」

紗江は首を振った。

葵はその手を両手で包み、握られた指をゆっくりとほどいた。

「離れていても、お前を想っている」


指先が離れる。

お蘭がそばへ寄り、立ち尽くす紗江の肩を支えた。


葵は蒼馬へ目を向けた。

蒼馬は答えなかった。

葵を一人で行かせるつもりなど、なかった。


葵が松雲へ向き直る。

「……続けてください」

松雲は涙を拭うこともせず、印を結んだ。

低く力強い呪文が、揺らぐ庭へ響き始める。


蒼馬は葵を見つめていた。

陣の中に立つ、その姿を。


――紫皇刀。時を断つ刀だ。


蒼馬は、はっと顔を上げた。

あの刀なら。

時空の狭間にあっても、葵様が道を切り開けるかもしれない。


「葵様、少しだけお待ちください!」

葵が振り向くより早く、蒼馬は身を翻した。

縁側へ駆け上がり、波打つ廊下を走る。

葵の部屋の奥。

そこに置かれていた紫皇刀を、鞘ごと掴み取った。


背後では、松雲の呪文が響き続けていた。

庭の呪符が、一枚ずつ光を放つ。

細い光の線が互いにつながり、葵を囲む陣を描いていく。


「時の綻びよ――閉じよ!」


空から降り注いだ光の渦が、葵の体を包み込んだ。

「くっ……!」

葵の足が、地面から浮き上がる。


「葵様!」

紗江が咄嗟に駆け寄り、その腕へしがみついた。

蓮と隼人も腕と肩を掴み、無刄とお蘭は衣を掴んだ。


「まだ、離すものか!」

蓮が歯を食いしばる。

皆で足を踏ん張り、葵を地面へ引き戻そうとした。

だが、踏みしめた足が滑っていく。

葵を引く力は、少しも緩まなかった。


「このままでは、お前たちまで……!」

葵の声が、渦の唸りにかき消された。


突如、光が激しく脈打つ。

無刄とお蘭の手が衣から離れた。

蓮と隼人も弾かれるように膝をつく。


最後まで、紗江だけが葵の手を握っていた。

葵も、その手を強く握り返した。

指先には、確かな温もりがあった。


「葵様……!」

葵は空いている手で懐から守り袋を取り出し、紗江の手へ押し当てた。

「これを……持っていてくれ」

「葵様……?」

紗江は戸惑いながらも、守り袋を受け取った。


その足が、地面から浮きかけた。

葵は息を呑んだ。

このまま握っていれば、紗江まで連れていかれる。


「紗江……」

その顔を、目に焼きつけるように見つめた。

そして、自ら手を離した。


「葵様!」

紗江がよろめき、無刄とお蘭が咄嗟に支えた。

葵はもう、手を伸ばさなかった。

紗江を見つめたまま、空へ引き上げられていく。


「葵様――!」

廊下から、蒼馬が飛び出してきた。

その手には、紫皇刀が握られていた。

葵が声の方へ顔を向ける。


「受け取ってください!」

蒼馬は庭へ駆け下り、祈りを込めて刀を投げ上げた。

宙を駆ける紫皇刀が、眩い紫色の光を放った。


葵は刀へ腕を伸ばした。

その手が、確かに紫皇刀を掴んだ。

刀を胸元へ引き寄せ、蒼馬を見つめる。

「蒼馬!……確かに受け取った」

蒼馬の顔が、涙で歪んだ。


松雲の目が、葵の手の中で輝く刀に留まった。

「あれは! 時を断つ刀……ならば!」

咄嗟に印を変える。

禁呪を解く術へ、もう一つの術を重ねていく。

それは、針の穴ほどの可能性に賭けた、葵を本来いるべき時へ導く術だった。


「葵! 光が見えたら、そこを斬るのじゃ!」

松雲の叫びに、葵が顔を向けた。


直後、光が激しく渦巻いた。

それまでとは比べものにならない力が、葵を空へ引き上げる。

葵は皆へ顔を向け、何かを伝えようと口を開いた。

だが、渦の唸りが、その声を呑み込んだ。


「葵様――!」

皆の叫びが、葵の屋敷の庭へ響き渡る。

その姿を、幾重もの光が覆っていった。


紗江は手を伸ばし続けていた。

ほんの少し前まで、その手にあった温もりを追うように。


「ありがとう」


遠くから、葵の声が聞こえた気がした。


次の瞬間、眩い光が弾けた。


光が薄れた時、そこに葵の姿はなかった。

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