第3章 第56話 あなたを守る、時の糸
――谷の中央、葵対玄斎
谷の中央では、葵と玄斎が激しく刃を交えていた。
黒金の太刀と玄斎の刀が正面からぶつかり、甲高い音が谷に響く。散り飛んだ火花が、二人の顔を照らした。
「……葵!」
鍔迫り合いの向こうで、玄斎が笑みを浮かべる。
「夜鴉の鴉主にならぬか!」
葵は答えず、渾身の力でその刀を押し返した。
玄斎はわずかに身を引くと、すかさず次の一太刀を繰り出してくる。
「ずっと見てきた。お前ほど相応しい男はいない!」
葵はその刃を受け流し、間合いを取り直した。
(……速い)
その剣技は、想像を遥かに超えていた。
太刀筋には一切の迷いがなく、斬撃の一つ一つが葵の急所を正確に狙ってくる。
受け流すだけでは、間合いを奪われる。踏み込めば、そこを狙われる。
夜鴉の頂点に立つ男――その実力は、決して伊達ではなかった。
「……徳川の血だと?」
玄斎が低く呟く。
「将軍候補だと?」
笑みが消え、その目に憎悪が滲んだ。
「ふざけるな……!」
玄斎が地を蹴った。
一瞬にして間合いを詰め、刀を振り下ろす。
葵は黒金の太刀で受け止めた。
刃が軋み、柄を握る手に衝撃が走る。
「くっ……!」
踏ん張った足が、地面を削りながら後ろへ押された。
「お前は……私のものだ!」
玄斎がさらに刀を押し込む。
「柳沢の思い通りになど、させん!」
「私は、誰のものにもならぬ!」
葵は腰を落とし、玄斎の刀を弾き返した。
「鴉主にも、将軍にもなるつもりはない!」
「黙れ!」
返す刃が、葵の顔を狙う。
咄嗟に身を引いたが、切っ先が頬を掠めた。
一筋の血が流れ落ちる。
葵は素早く後方へ跳び、呼吸を整えながら太刀を構え直した。
玄斎は追ってこなかった。
刀を片手に持ち替え、空いた手で印を結ぶ。
「……剣だけが、戦いではない」
その足元から、黒い霧が湧き上がった。
霧は瞬く間に玄斎の姿を覆い隠し、地を這うように広がっていく。
「妖術か……!」
葵が身構えた。
霧の中から、無数の腕が這い出してくる。
人のものとは思えぬ黒い手が、足を、腕を、喉元を捕らえようと一斉に伸びた。
「……葵!」
玄斎の声が、霧の奥から響く。
「お前を縛り上げ、必ず夜鴉へ連れて帰る」
「させるか!」
葵は黒金の太刀を大きく薙ぎ払った。
刃から巻き起こった風が黒い手を切り裂き、霧を吹き散らす。
だが、その向こうに玄斎の姿はなかった。
「……!」
背後に、鋭い殺気が走る。
「遅い」
振り向いた時には、既に刃が迫っていた。
葵は身を捻ったが、避け切れない。
切っ先が肩口へ食い込み、深く斬り裂いた。
「ぐっ……!」
鮮血が飛び散る。
葵はよろめき、黒金の太刀を地面に突き立てて、かろうじて倒れるのを堪えた。
「葵様!」
離れた場所から、紗江の悲鳴が響いた。
「紗江、来るな!」
葵が叫ぶ。
玄斎は喉の奥で笑った。
「どうした、葵。もう限界か?」
肩から溢れた血が、着物を赤く染めていく。
太刀を持ち上げようとしても、傷を負った腕に力が入らない。
葵は歯を食いしばった。
それでも膝が崩れ、地面につく。
(まずい……)
玄斎が、ゆっくりと刀を振り上げた。
「さあ、観念しろ」
その目が、葵の手元を見据える。
「刀を握れぬ身になろうと構わん。お前は、私が連れて帰る」
葵は地に突き立てた太刀を引き抜こうとした。
だが、それより早く、玄斎の刀が振り下ろされる。
「やめて!」
紗江が、葵の前へ飛び出した。
――紗江の目覚め、時を縫う瑠璃天糸鏡
「紗江……!」
葵が目を見開く。
玄斎の刃が、そのまま紗江へ迫った。
「紗江!」
無刄の叫び声が、谷に響き渡る。
逃げなければ――。
そう思っても、紗江の足は動かなかった。
背後には、傷ついた葵がいる。
ここで身をかわしたら、その刃が葵に届いてしまう。
(嫌……!)
紗江は懐へ手を伸ばした。
(葵様を、失いたくない……!)
指先が瑠璃天糸鏡に触れた瞬間、懐から青白い光が溢れ出した。
細い光の糸が伸び、迫る刃に絡みつく。
刀の動きが、急に鈍った。
「……あっ」
紗江は瑠璃天糸鏡を取り出し、その縁を両手で握りしめた。
鏡面から、さらに光の糸が宙へ伸びた。
一本、二本――。
糸は瞬く間に数を増し、紗江と葵の前で幾重にも交差した。
まるで目に見えない布へ針を通すように、何もない空間を縫い合わせていく。
光の糸が玄斎の刀に絡みつき、そのまま周囲の空間へ幾重にも縫い込まれていく。
「何……?」
刀だけではない。玄斎の腕も、踏み込んだ足も、動きを止めた。
そのすぐそばで、舞い落ちる木の葉が宙に留まっている。
まるで玄斎のいる場所だけ、時の流れから切り離されたかのようだった。
「これは……」
紗江は、目の前の光景に息を呑んだ。
刃先は目の前にありながら、そこから先へ進まない。
光の糸に囲まれた玄斎の周囲だけ、景色の色が薄れていた。
「時を……縫っているの……?」
紗江の呟きに応えるように、光の糸がさらに伸びた。
玄斎の刀を伝い、腕へ、肩へ、全身へと絡みついていく。
玄斎は目を剥いた。
振りほどこうと力を込めるが、その身体は縫い止められたまま動かない。
背後で、葵が紗江の名を呼んだ。
その声に、紗江は鏡を握り直した。
瞳が、瑠璃色の光を帯びている。
長い髪が、風もないのにふわりと舞い上がった。
鏡を握る指先が冷えていく。
糸が伸びるたび、身体の奥から何かが抜け落ちるようだった。
それでも、紗江は玄斎から目を逸らさなかった。
傷つきながら戦う仲間たちも、背後で膝をつく葵も、これ以上傷つけさせたくなかった。
「もう、みんなを傷つけないで! 葵様を……連れて行かないで!」
玄斎を縛る糸が、一斉に張り詰める。
瑠璃天糸鏡が、眩い光を放った。
次の瞬間、空間に縫い込まれていた糸がほどけ、玄斎の身体を後方へ強く引き放った。
「ぐああっ!」
玄斎は地面へ叩きつけられ、何度も転がった。
光の糸がほどけ、宙へ消えていく。
玄斎の周囲に色が戻り、宙に留まっていた木の葉が地に落ちた。
吹き抜ける風が、紗江の頬を打つ。
「……あ……」
紗江の瞳から、瑠璃色の光が薄れた。
膝から力が抜ける。
手を離れた鏡が足元へ落ち、その身体が傾いだ。
「紗江!」
無刄が駆け出す。
その目前で、片膝をついていた葵が身を乗り出した。
倒れかかる紗江を、傷のない腕で抱き留める。
肩に激痛が走った。
葵は息を詰めながらも、その身を膝の上へ支えた。
「紗江! しっかりしろ……!」
紗江が、薄く目を開く。
葵の顔を見上げると、弱々しく微笑んだ。
「葵様……ご無事で……」
「ああ……」
葵の声が震えた。
「お前が、守ってくれた……」
紗江の頭を、そっと胸元へ抱き寄せる。
まだ何かを言おうとした唇が緩み、紗江は葵の腕の中で目を閉じた。
細く、けれど確かな息が胸元に触れる。
葵はそれを確かめるように、紗江の顔を見つめていた。
無刄は、二人のすぐそばで足を止めた。
紗江を抱き留めようと伸ばした手が、宙に残っている。
(……紗江)
葵の腕の中で、紗江は安堵したように目を閉じていた。
無刄は伸ばした手を、静かに下ろした。
胸の奥が、鈍く痛む。
それでも、その穏やかな横顔を見届けると、二人を庇うように玄斎へ向き直った。
――撤退、残された想い
「……くそ……」
玄斎が刀を杖代わりにして、よろめきながら立ち上がった。
口元から血が滴り、裂けた着物の下には、地面へ叩きつけられた傷が覗いている。
刀を握る手が震えていた。
一歩踏み出そうとしただけで、膝が折れかける。
玄斎は荒い息をつき、周囲を見回した。
夜鴉の多くは既に倒れていた。
残った者たちも葵の仲間に押され、退路を守るのが精一杯だった。
ここで戦い続ければ、連れ帰る者さえ失う。
「……撤退だ」
呻くように告げた。
近くにいた夜鴉たちが、弾かれたように振り返る。
「撤退しろ!」
怒号が谷に響いた。
夜鴉たちは倒れた仲間を抱え、次々と闇の中へ退いていく。
無刄は刀を構えたまま、その動きを見据えていた。
背後では、肩から血を流す葵が紗江を抱いている。
追うために、ここを離れることはできなかった。
玄斎の目が、無刄の肩越しに葵を捉えた。
その姿を確かめると、血に濡れた口元が歪む。
「……葵!」
葵は紗江を支えたまま、顔を上げた。
「必ず、また来る……」
足元から黒い霧が湧き上がり、玄斎の身体を包み込む。
その顔が見えなくなるまで、執着に満ちた眼差しは葵から離れなかった。
やがて霧が薄れた時、そこには、夜鴉の姿はなかった。




