第1章 第6話 守り抜くと決めた夜
城を出ると、通りには人々の声や荷車の音が満ちていた。
蒼馬はその賑わいの中で、屋根の上を行く影に気づいた。
蒼馬は振り返らず、低い声で告げた。
「蓮。後ろはどうだ」
「……三人いる。いや、もっとだ」
蓮の返事に、蒼馬は表情を引き締めた。
一行が大通りを離れ、澄月庵へ続く道へ折れたとき、隼人が紗江の隣へ寄った。
「紗江、俺たちから離れないで」
「隼人……?」
お蘭も紗江のそばに立つ。
その先の道に、黒い影が降り立った。
影は夜鴉の羽だった。
一人が道の先に立ち、さらに二人が塀の上へ姿を現す。背後からも、足音が近づいてきた。
「お蘭、紗江様を頼む」
蒼馬が前へ出る。蓮は短刀を抜き、隼人も紗江を背にかばって双短剣を構えた。
「好きなようにはさせない」
隼人の声から、さっきまでの無邪気さが消えていた。
羽の一人が踏み込むと、蒼馬がその刃を受け止めた。蓮も横から迫る影を退ける。
だが、塀の向こうから新たな羽が次々と現れた。
「……数が多い」
蒼馬は紗江たちを振り返る。
「蓮、隼人。お蘭と紗江様を連れて、先へ行け」
「蒼馬は?」
「私はここで食い止める。行け!」
蓮と隼人がお蘭と紗江を連れ、道の先へ駆け出した。
蒼馬は追おうとする羽の前に立ちはだかる。
そのとき、塀の上に面を着けた男が現れた。
「……無刄」
蒼馬が名を呼ぶと、無刄は音もなく道へ降り立った。
「ここから先へは行かせぬ」
蒼馬が刀を構える。
無刄も剣を抜いた。
刃がぶつかり、乾いた音が響く。蒼馬は踏み込みながら、わずかな違和感を覚えた。
無刄の剣は速い。だが、決められるはずの一撃が来ない。
(……何か、ためらっているのか?)
蓮たちは曲がり角を抜けた。
だが、道の先には、面を着けた女が立っていた。
「ずいぶん急いでいるのね」
「朧火……!」
蓮が紗江たちを後ろへ下げ、短刀を構える。
朧火が袖を払うと、白い粉が風に乗った。
「口を覆って!」
お蘭が紗江の肩を引く。蓮もとっさに顔をそむけたが、甘い香りが鼻をかすめた。
「……くっ」
足元がわずかに揺らぐ。
「蓮!」
隼人がその腕を支えた。
「蓮、下がって」
お蘭が紗江の前に立ち、扇を構えた。
「久しぶりだね、お蘭ちゃん」
背後からの声に、お蘭の指が扇の柄を強く握る。
振り返ると、塀の上に鴦牙が腰かけていた。
「……」
「つれないなあ。せっかく会えたのに」
鴦牙はひらりと道へ降り、紗江へ目を向けた。
「君が紗江ちゃん? ちょっと一緒に来てもらいたいんだけど」
「……誰が行かせるか」
お蘭の扇が、鴦牙へ向けられた。
お蘭が鴦牙へ踏み出した。
だが、朧火がその行く手を塞ぐ。
「あなたの相手は私よ、お蘭」
お蘭は扇を構え直し、紗江を背にかばった。
「紗江は渡さない!」
隼人が双短剣を振るう。鴦牙は身をかわすと、隼人の腕をつかんだ。
「怖い顔しないでよ。俺は話をしに来ただけなのに」
鴦牙が腕を払うと、隼人は道の端へ転がった。
「隼人!」
紗江が駆け寄ろうとすると、お蘭がその腕をつかんで止めた。
その隙に、朧火が踏み込む。
お蘭は紗江の腕を放し、迫る刃を扇で受けた。
朧火は攻撃を重ね、お蘭を紗江から引き離していく。
蓮も加勢しようとした。だが、朧火の毒が回り、足が前に出ない。
隼人も道の端に倒れ、動けない。
紗江のそばには、誰もいなくなった。
鴦牙が紗江へ近づく。
「さあ、行こうか」
その指先が、紗江の腕に触れかけた。
その瞬間――
蒼馬と刃を交えていた無刄が、ふいに間合いを外した。
「無刄……?」
蒼馬の声を背に、無刄は塀を越える。
鴦牙の手が紗江に届く寸前、無刄が二人の間へ降り立った。
伸ばされた鴦牙の腕が、ぴたりと止まる。
「無刄、何を……」
無刄はただ立っていた。
朧火が眉をひそめる。
「お前……まさか。この娘を捕らえる気がないの?」
無刄はなおも沈黙を貫いた。
「……使えないわね」
朧火が小さく舌打ちする。
そのやりとりを見て、鴦牙の笑みが消えた。
「冗談にしては、面白くないな」
道の向こうから、駆けてくる足音が聞こえた。
澄月庵で一行を待ちきれず、迎えに出ていた葵だった。
紗江の前に立つ無刄と、周囲を囲む夜鴉を見て、葵の表情が変わる。
「……そこまでだ」
葵は紗江を見た。怪我はない。だが、その顔は恐怖で強ばっている。
葵は刀を抜き、夜鴉へ向き直った。
「紗江から離れろ」
鴦牙が一歩退き、いつもの調子で肩をすくめる。
「あーらら……葵様、直々のお出ましとはね」
「まだ何もしていませんよ」
「ならば、そのまま退け」
葵の声は静かだった。
「次に紗江へ手を伸ばせば、容赦はせぬ」
朧火が袖の中へ指を入れた。
葵の視線が、その手元に移る。
「朧火。毒は使うな」
「命令される筋合いはないわ」
朧火が腕を上げるより早く、葵が間合いを詰めた。
刀の切っ先が、朧火の喉元で止まる。
「……くそっ!」
朧火の指が、袖の中で動きを止めた。
鴦牙が紗江へ視線を走らせ、わずかに足を動かした。
「鴦牙、動くな!」
「チッ……」
鴦牙が舌打ちする。
「やれやれ……本気ですか」
葵は鴦牙を睨んだ。
「紗江を狙った……お前たちは許さぬ」
(葵様……)
紗江の胸に、震えるような想いが走る。
その間に、無刄は紗江の前から退き、道の奥へ身を引いた。
蒼馬はそのあとを追う。
夜鴉たちから離れた塀の陰で、二人は向き合った。
二人の間を、風が吹き抜ける。
「……」
お互いに何も言わない。
仮面の奥の瞳だけが、わずかに揺れた。
その時――
「無刄、撤退だ!」
鴦牙の声が鋭く響いた。
葵が刀を引くと、朧火は鴦牙のもとへ下がる。
無刄は一瞬だけ蒼馬へ視線を向け、何も言わずに去っていった。
朧火と鴦牙は、それぞれ別の方向へ散って行った。
夜鴉の気配が遠ざかってから、葵は刀を鞘へ納め、紗江のもとへ歩み寄った。
「紗江」
その声を聞いた途端、紗江の身体から力が抜けた。
「……葵様」
張りつめていたものがほどけ、涙がこぼれる。
葵は何も言わず、そっと紗江の肩を抱いた。
紗江はその胸元で、小さく肩を震わせた。
「ごめんなさい……私のせいで、皆さんまで……」
「違う。そなたが謝ることではない」
葵は紗江の顔を見て、静かに続けた。
「怖い思いをさせたな」
紗江は首を横に振ろうとしたが、言葉にならなかった。
「紗江様……ご無事で」
お蘭がそばへ来る。紗江は涙を拭いながら頷いた。
「お蘭も、怪我はない?」
「はい。それより、蓮と隼人を」
蒼馬は道の端で隼人を助け起こした。
「歩けるか」
「うん……少し、ふらつくけど」
蓮も毒のせいか顔色が悪い。お蘭がその腕を支えた。
「澄月庵へ戻ろう」
葵が言うと、一行は互いを支えながら歩き出した。
――その夜、澄月庵。
紗江は縁側に腰を下ろし、月に照らされた竹林を眺めていた。
鴦牙の手が伸びてきた瞬間を思い出し、紗江は思わず両腕を抱きしめた。
触れられてはいない。それでも、身体の震えがなかなか収まらない。
そこへクロが膝に飛び乗ってきた。
「クロ……」
紗江が背を撫でると、クロは膝の上で丸くなった。
その温かさを感じているうちに、庭から足音が聞こえてきた。
月明かりの中を、葵が歩いてくる。
「眠れぬのか」
「はい……少し」
葵は紗江の隣で足を止めた。
「ここに座ってもよいか」
「……はい」
葵が腰を下ろす。二人はしばらく、風に揺れる竹の葉音を聞いていた。
「葵様。今日は、助けてくださってありがとうございました」
「礼には及ばぬ」
葵は竹林へ目を向けたまま、少し間を置いた。
「……間に合わぬかと思った」
紗江はクロを撫でる手を止めた。
「私は……何もできませんでした」
「恐ろしい思いをしたのだ。無理もない」
葵の声は穏やかだった。
だが、しばらくして小さく息をつく。
「私も、あのときは冷静ではいられなかった」
「葵様が……?」
「そなたの無事を確かめるまで、ほかのことは何も考えられなかった」
葵は少し照れたように目を伏せる。
「……私らしくないな」
紗江が葵を見つめると、葵もまっすぐにその顔を見た。
「これからも、紗江のことは私が必ず守る」
「……葵様」
紗江は、小さく頷いた。
しばらく、二人は竹の葉音を聞いていた。
やがて葵が立ち上がる。
「夜も更けた。休むといい」
「はい。葵様も、お休みください」
葵は頷き、庭を歩いていった。
その背中を見送ってから、紗江はそっと胸に手を当てた。
さっきまで震えていた胸が、今は別の理由で落ち着かない。
「……おやすみ、クロ」
膝の上のクロが、小さく鳴いた。
葵は庭を歩きながら、先ほどの紗江の震えを思い返していた。
夜鴉は、紗江を狙っている。自分のそばにいるために、彼女まで巻き込まれた。
(距離を置くべきか……)
葵の足が止まる。
だが、夜鴉はすでに紗江の顔も名も知っている。離れたところで、危険が消えるわけではない。
(ならば、守り抜く)
葵はもう一度歩き出した。
――同じ頃、夜鴉の郷。
玄斎は三人の黒羽から報告を受けていた。
「失敗したか」
「葵が駆けつけました。それに――」
鴦牙が無刄へ目を向ける。
「こいつが止めなければ、紗江を捕らえられたんですけどね」
「無刄。なぜだ」
無刄は面を伏せたまま、答えない。
「黙っていれば済むと思っているのか」
玄斎の声が低くなる。
朧火が無刄を睨んだが、玄斎が片手を上げて制した。
「……よい。今は聞かぬ」
無刄がわずかに顔を上げる。
「だが、次に命を違えれば許さぬ」
玄斎は鴦牙へ視線を移した。
「葵は、あの娘を守るために駆けつけたのだな」
「はい。あのまま手を出せば、俺も朧火も斬られていたでしょうね」
玄斎の目が細められる。
「……ほう」
「少なくとも、あの娘は葵にとって無関係な存在ではありません」
玄斎は静かに笑った。
「十分だ」
茶碗をゆっくり置いた。
「ならば、その娘は奴の隙になり得る」
三人の黒羽が顔を上げる。
「次は、力ではなく策で揺さぶる」
玄斎の口元が不気味に歪んだ。
「紗江を使い、葵を追い詰めよ」
「御意」
朧火と鴦牙が頭を下げた。無刄だけは、面を伏せたまま動かなかった。
――二日後
葵の屋敷。
葵は書院で書状に目を通していた。
やがて、書院の外に人の気配がした。
「葵様」
蒼馬が静かに一礼した。
葵は書状から目を上げる。
「どうした」
「桂昌院様より、お召しの使者がお見えです」
「桂昌院様が……」
葵の表情がわずかに引き締まった。
「紗江様も、ご一緒にとの仰せです」
葵は静かに書状を閉じた。
「……紗江も?」
「はい。お迎えの駕籠も、すでに用意されております」
一瞬、静寂が流れる。
「要件は聞いているか?」
「存じ上げません。ですが、桂昌院様は先日の一件をご存じのようです」
蒼馬は静かに答えた。
葵はしばらく考え込み、小さく息を吐く。
「では、その件であろう」
「急ぎ支度を」
「心得ました」
蒼馬は一礼し、踵を返しかけたが、ふと思い出したように振り向く。
「紗江様にも、正装をお願いせねばなりません」
「ああ」
「そうだな、絹とお蘭に伝えよ」
「心得ました」
蒼馬は葵の屋敷を出ると、ほど近い澄月庵へ向かった。
庭で洗濯物を取り込む絹とお蘭に声をかけた。
「桂昌院様から葵様と紗江様に呼び出しだ。葵様のお屋敷で使いの方がお待ちだ」
「急ぎで、紗江様のお支度を頼みたい」
「あら、それでは急がなければ!」
「紗江様のお召し物なら、もう用意してあるわ。安心して」
お蘭は誇らしそうに微笑んだ。
蒼馬が紗江の部屋へ向かった。
紗江は衣装の絵を描いていた。
「紗江様、いらっしゃいますか。桂昌院様からお召しです」
紗江の筆が止まった。
「桂昌院様が……私を?」
「はい。葵様もご一緒です」
「どうしましょう。こんな格好でお会いするわけには……」
「絹とお蘭が、もう支度を始めています」
蒼馬が少し笑った。
「お二人に任せれば大丈夫ですよ」
紗江もつられて笑い、筆を置く。
「ありがとうございます。すぐに行きます」




