第1章 第5話 姫君の旅支度
――広がる評判
加賀屋は、日に日に賑わいを増していた。
女将が紫蝶に頼み込んで店に飾ったドレスを見に、町娘たちが朝から列を作る。
紫蝶のドレス姿が評判を呼び、「私もドレスを」という声が後を絶たなかった。
ある日、澄月庵に女将が訪ねてきた。
「紗江様。加賀屋の女将がお見えです」
「女将さんが?」
紗江が庭へ出ると、女将は帳面を胸に抱えて待っていた。
「紗江様、驚かないでおくれよ」
そう言って帳面を開く。そこには、仕立てを頼みたいという客の名と、望む衣装の色や形が書き連ねられていた。
紗江は目を丸くした。
「こんなに……?」
「紫蝶様の衣装が評判になって、朝から客が絶えないんだ。皆、お前さんに仕立ててほしいんだってさ」
紗江は帳面を受け取り、一人ひとりの希望に目を通した。
「私に、全部できるでしょうか」
思わず漏らすと、女将は笑った。
「今日中に仕立てろと言ってるわけじゃないよ。まずは、会って話を聞いてみないかい」
紗江はもう一度、帳面に並ぶ名を見つめた。
紫蝶のために作った、たった一着のドレス。その衣装を見た人が、今度は自分のための一着を思い描いている。
「……はい。お会いしてみたいです」
女将は嬉しそうに頷いた。
それから紗江は加賀屋へ通い、客の好きな色や着て出かけたい場所を聞きながら、絵を描き、布を選んだ。
澄月庵の自分の部屋に戻ってからも針を握り、夜遅くまで縫う日が続いた。
そんな紗江を案じて、お蘭は毎晩、そっと部屋を覗きに来た。
「紗江様、少しはお休みにならないと」
「ありがとう、お蘭! でも、大丈夫。とても楽しいの」
紗江は笑った。
「私の作った服を、みんなが喜んでくれるって……こんな嬉しいことないもの」
お蘭は紗江の顔を見て、もう何を言っても針を置きそうにないと悟った。
「では、私もお手伝いいたします」
「いいの?」
「はい。紗江様が少しでも早くお休みになれるように」
お蘭は紗江の隣に腰を下ろし、針を手に取った。二人は並んで、夜更けまで縫い進めた。
――千代姫からの依頼
そんなある日の午後、加賀屋の前に立派な駕籠が止まった。
店先にいた女将が、慌てて出迎える。駕籠から降りてきたのは、城の使者だった。
「加賀屋の女将殿に、お伝えする」
使者は書状を広げた。
「千代姫様より、ご依頼がある」
女将は深々と頭を下げる。
「畏まりました」
「大山詣の旅装束を、新しく仕立てよとのこと。ただし、最近評判の紗江という者に仕立てさせよ、との仰せである」
女将は顔を上げた。
「紗江に、ですか……?」
「そうだ」
「畏まりました。必ず本人に伝えます」
使者を見送ると、女将は急いで澄月庵へ向かった。
「紗江様!」
女将の声に、紗江は針を置いた。
「女将さん、どうしたんですか?」
「お城からご依頼があったんだよ。千代姫様が、旅装束をお前さんに仕立ててほしいと」
「……お城から?」
紗江は、すぐには言葉の意味を飲み込めなかった。
「私に、ですか?」
「ああ。千代姫様のお召し物だよ。こんな名誉なことはない」
女将の弾んだ声を聞いて、紗江の胸も高鳴った。けれど同時に、失敗できないという思いが押し寄せる。
「お姫様の旅装束……」
「まずはお会いして、どんなものを望んでおられるか聞いておいで」
女将は、先日帳面を見せたときと同じように笑った。
女将を見送り、紗江が部屋に戻ると、お蘭が入ってきた。
「千代姫様からのご依頼ですか?」
「うん。まだ、びっくりしてる」
「よかったですね、紗江様」
お蘭は微笑んだが、紗江の前に置かれた仕立て途中の衣装にも目を向けた。
「今夜もお手伝いします。お城へ行く前には、少しでもお休みくださいね」
「お蘭ったら」
紗江が笑うと、お蘭もつられて笑った。
二日後、紗江は葵と蒼馬に付き添われ、城へ向かった。
「緊張する……」
城門の前で、紗江は思わず足を止める。
「大丈夫。私がついている」
葵の声に、紗江は小さく頷いた。
城内の長い廊下を進み、奥座敷へ通される。そこには、淡藤色の着物に金糸の帯を締めた、若い姫君が座っていた。
「これは、葵様」
千代姫が葵に声をかける。
「お久しぶりでございます、千代姫様」
葵が礼をすると、千代姫は紗江へ目を向けた。
「そして、こちらが紗江様か」
「は、はい……織原紗江と申します」
緊張で声が震える。千代姫は柔らかく笑った。
「そなたの作ったドレスを見ました。とても可愛らしかったの」
「ありがとうございます」
葵が穏やかに問いかける。
「千代姫様、どちらでご覧になったのですか」
「加賀屋ですよ。私もたまには城下へ行くのです。内緒ですよ」
千代姫は口元に指を添え、いたずらっぽく微笑んだ。
「……お一人で行かれたのですか」
「もう、葵様は相変わらず心配性ですね。今日は紗江様のお話が先でしょう?」
葵は小さく息をつき、苦笑する。
「……失礼いたしました」
そのやり取りに、紗江の肩から少し力が抜けた。
千代姫は再び紗江へ向き直る。
「大山詣は長い旅になります。相模国の大山まで、数日はかかりますから」
千代姫は少し照れたように笑った。
「可愛らしいだけでなく、窮屈でない装束がほしいのです」
紗江は、千代姫の言葉を胸の中で繰り返した。
可愛らしくて、旅の間も楽に過ごせる衣装。
考え始めると、緊張していたはずの心が少しずつ弾んでいく。
「千代姫様、私、精一杯作らせていただきます。旅を心から楽しめるような衣装を」
千代姫は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、紗江様。楽しみにしています」
――城を出て
城門を出ても、紗江は千代姫の言葉を思い返していた。
「可愛らしくて、窮屈でない旅装束……」
「もう考え始めているのか」
隣を歩く葵が、紗江の顔を覗き込む。
「はい。長い旅ですから、駕籠の中でも窮屈にならないようにしたいんです。でも、千代姫様らしい上品さは残したくて」
言いながら、紗江は自分の袖口をつまんだ。
「袖が邪魔にならないようにして……座っていても帯が苦しくない形に……」
「楽しそうだな」
葵が微笑む。
「はい! すごく楽しいです」
紗江は顔を上げた。
「千代姫様が旅先でも、着ていて嬉しくなるような衣装にしたいんです」
葵はその笑顔を見つめた。先ほどまで緊張していた紗江が、もう新しい衣装のことで目を輝かせている。
「そなたなら、きっと作れる」
「ありがとうございます。まずは絵に描いてみます!」
紗江は弾むような足取りで歩き出した。葵も微笑み、少し後ろを行く蒼馬とともに、そのあとを追った。
――その夜
紗江の部屋には、描きかけのデザイン画が何枚も広がっていた。
「駕籠の中で長く座っていても、苦しくないように……」
紗江は帯を細く描き直し、袖の形を見つめる。
「袖も、駕籠の中で邪魔にならないほうがいいよね。でも、千代姫様らしい上品さは残したい」
描いては首を傾げ、新しい紙を広げる。それを何度も繰り返した。
膝の上では、クロが丸くなっていた。
「クロ、どう思う?」
「ニャア」
「そうだよね……もう少し工夫してみよう」
紗江が筆を取り直すと、クロは膝の上で目を閉じた。
――その頃、柳沢邸
夜の茶室で、玄斎が柳沢吉保と向かい合っていた。
「柳沢様。紗江が千代姫様から、旅装束の仕立てを依頼されたそうです」
「ほう。千代姫様が、あの娘を」
柳沢は茶碗を置いた。
「町娘たちの間で評判とは聞いていたが、千代姫様のお目にも留まったか」
「はい。才があり、人を惹きつける力もある。そして何より――」
玄斎の口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「葵様が、深く信頼しておられます」
「信頼、か」
柳沢の指が、茶碗の縁に静かに触れた。
「玄斎。あの娘は使えそうか」
「葵様を動かすには、十分かと」
柳沢はしばらく黙っていた。
「……人の情ほど、御しやすいものはない」
玄斎は、柳沢の言葉の意味を察して頭を下げた。
――数日後
千代姫の旅装束のデザインが、ようやく完成した。
紗江が描いたデザイン画には、生成り色のインナードレスに、淡い桃色から裾へ向かって色を深める着物が重ねられていた。襟や袖口には小さなフリルを、着物には細かな花模様をあしらう。
長く駕籠に乗っていても足元がかさばらないよう、裾の広がりを抑えた。袖は駕籠の中でも扱いやすい長さに整えてある。
帯は幅を抑え、座っていても身体を締めつけない形にした。柔らかな緑色が桃色を引き締め、千代姫らしい上品さを添えている。
紗江は筆を置き、デザイン画を少し離れたところから眺めた。
「うん……これなら」
そのとき、襖の向こうから葵の声がした。
「紗江、入ってもよいか」
「はい、どうぞ」
葵は部屋に入ると、広げられたデザイン画に目を留めた。
「……華やかな衣装だな」
「でも、見た目だけじゃないんです。長く駕籠に乗っていても、楽に過ごせるようにしたくて」
紗江は帯や袖に施した工夫を、一つずつ指し示した。
葵は最後まで聞いてから、もう一度、絵に目を落とす。
「これなら、千代姫もきっと喜ぶ」
「本当ですか?」
「ああ」
葵は頷き、ふと懐かしそうに目を細めた。
「千代姫とは、幼い頃から兄妹のように育った。私にとって、妹のような方だ」
葵は、城での千代姫の笑顔を思い出した。
「あれほど嬉しそうな顔を見るのは、久しぶりだった。紗江、私からも頼みたい。千代姫の旅装束を、仕立ててやってくれぬか」
紗江はデザイン画を見つめ、それから葵の顔を見た。
「はい。千代姫様が旅を楽しみにできるような衣装を、必ず作ります」
「……頼んだぞ」
葵の声は穏やかだった。その言葉を胸に、紗江はもう一度、デザイン画へ目を向けた。
――夜鴉の郷
玄斎の前に、三人の黒羽が並んでいた。
朧火、鴦牙、無刄。いずれも面で顔を隠し、片膝をついている。
「朧火。お前の毒は、百人を眠らせる」
朧火が黙って頭を下げた。
「鴦牙。お前の術は、千の兵を惑わす」
面の奥から、かすかな笑い声が漏れる。
「無刄。お前の剣を見切れる者はおらぬ」
無刄は答えず、玄斎を見つめていた。
「お前たちは、間違いなく強い」
玄斎は三人を見渡した。
「それでも、葵一人を討ち取ることができぬ」
部屋の空気が張り詰める。
しばらくして、朧火が口を開いた。
「……それで、紗江を使うのですね」
「そうだ。葵は己の命を惜しまぬ。だが、あの娘の命となれば話は別だ」
玄斎は声を落とした。
「紗江を我らの手に置けば、葵は必ず動く」
「娘を捕らえよ、と?」
「まだ娘には手を出すな。羽を放ち、澄月庵の守りを探れ」
玄斎の視線が、三人の面をゆっくりと巡った。
「葵が、どこまであの娘を守るかも見ておきたい」
――その夜
澄月庵の周囲に、複数の黒い影が現れた。
塀の向こう、木立の奥。姿は見えなくとも、その気配を蒼馬は捉えていた。
「……数が増えている」
庭の闇を見据えたまま、蒼馬が低く言う。
「夜鴉か」
蓮が声を潜めた。
「ああ。だが、今夜いるのは羽ばかりだ。黒羽は動いていない」
隼人が、紗江の部屋にともる灯りを見た。
「紗江を狙ってるのか?」
「まだ分からぬ」
蒼馬は首を振る。
「こちらの人数や、守りの配置を探っているのだろう。警戒を怠るな」
蓮と隼人は黙って頷いた。
その頃、紗江は自分の部屋でデザイン画を見つめていた。
「明日、加賀屋で千代姫様に似合う布を探そう」
傍らにいたクロが、ふいに耳を動かす。
クロは障子の向こうへ金色の瞳を向けた。だが、紗江はデザイン画に夢中で、その様子に気づかない。
翌日、紗江は加賀屋で千代姫に似合う布を選んだ。
淡い桃色の絹を部屋に広げ、デザイン画と見比べる。
「うん。この色なら、千代姫様に似合う」
それから紗江は、毎晩、行灯の灯りの下で針を進めた。
手の空いたときには、お蘭も紗江の隣に座り、縫い物を手伝った。
淡い桃色の絹を一針ずつ縫い合わせ、旅装束は少しずつ形になっていく。
「もう少し……ここを縫えば、形になる」
その夜、澄月庵の屋根の上で、蒼馬は周囲の気配を探っていた。
塀の向こうに潜む夜鴉の羽は、昨夜より数を増している。
「……監視にしては多すぎるな」
蒼馬は紗江の部屋にともる灯りへ目を向けた。
――その頃、夜鴉の郷。
玄斎の前に、朧火、鴦牙、無刄の三人が並んでいた。
「朧火。澄月庵の守りは探れたか」
「はい。葵の側近たちは、夜も紗江の部屋を守っています」
「ならば、屋敷では手を出さぬ」
玄斎は三人を見渡した。
「千代姫に旅装束を届けた帰りを狙え。あの娘を生け捕りにする」
「葵はどうする」
無刄が低い声で尋ねた。
「紗江を手に入れれば、葵のほうから動く」
玄斎の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
――数日後。
朝の光が障子を透かす頃、紗江は最後の糸を留めた。
「……できた」
広げた旅装束を眺めるうちに、千代姫の笑顔が浮かぶ。
「気に入ってくださるといいな」
そこへ、お蘭が顔を覗かせた。
「まあ……可愛らしいお召し物ですね」
「ありがとう、お蘭。明日、お城へ届けようと思うの」
その日の午後、葵は紗江を呼んだ。
「明日、城へ届けに行くそうだな」
「はい。千代姫様に、直接お渡ししたくて」
「蒼馬たちを同行させる」
「そんなに大勢で行くのですか?」
葵は紗江の顔を見た。
「澄月庵の周りにいる夜鴉が、数を増やしている」
「……私を、狙っているのでしょうか」
「まだ分からぬ。だが、備えておきたい」
葵は少し声を和らげた。
「城まで、皆と一緒に行ってくれるか」
「はい。分かりました」
翌日、紗江は旅装束を丁寧に包み、城へ向かった。
蒼馬、蓮、隼人、そしてお蘭が同行する。
「皆さんにまで来ていただいて、すみません」
「お気になさらず。私どもの務めです」
蒼馬が答えると、蓮も笑った。
「それに、俺たちも千代姫様が着たところを見てみたいしな」
「俺は城のお菓子も気になる!」
「ああ。千代姫様のところでいつも出る、猫屋の饅頭な。あれはうまい」
「だろ? 蓮も楽しみなんじゃないか!」
紗江もつられて笑った。
だが蒼馬だけは、道の先から目を離さなかった。
城に着くと、紗江とお蘭は千代姫の待つ奥座敷へ通された。蒼馬たちは、近くの控えの間で待つことになった。
「紗江様、お待ちしていました」
千代姫は、紗江の抱えた包みを見て目を輝かせた。
「旅装束をお持ちしました。千代姫様に、ぜひ見ていただきたくて」
紗江が包みを差し出すと、侍女がそっと布をほどいた。淡い桃色の衣装が姿を現す。
「まあ……」
千代姫は身を乗り出し、花模様のあしらわれた袖へ指先を伸ばした。
「思い描いていたより、ずっと素敵です」
千代姫は侍女に付き添われ、奥の部屋で旅装束に着替えた。
やがて姿を現すと、紗江は思わず息をのんだ。
生成り色のインナードレスの上に、淡い桃色から裾へ向かって色を深める着物。袖口の小さなフリルが、千代姫の動きに合わせて揺れる。柔らかな緑色の帯が、装いを上品にまとめていた。
「紗江様、見て」
千代姫は袖を軽く動かし、それから座布団に腰を下ろした。
「座っても、帯が苦しくありません。これなら駕籠の中でも楽に過ごせそう」
「よかった……。長い旅になりますから、そこが一番気になっていたんです」
千代姫は立ち上がり、もう一度、自分の袖を眺めた。
「それに、とても可愛い。旅へ出るのが、ますます楽しみになりました」
千代姫は紗江のそばへ来ると、そっとその手を取った。
「ありがとう、紗江様。私の旅のことを、こんなに考えてくださったのですね」
「千代姫様……」
紗江は胸がいっぱいになり、言葉を探した。
「また、そなたにお願いしてもよろしいかしら」
「はい。喜んで!」
千代姫の笑顔を見て、紗江もようやく笑った。
紗江とお蘭が控えの間へ戻ると、侍女が茶と菓子を運んできた。
丸い饅頭には、猫の顔の焼印が押されている。
「あっ、猫屋の饅頭!」
隼人が嬉しそうに声を上げた。
紗江は饅頭を手に取り、小さな猫の顔を眺めた。
「可愛い……クロに見せたら、どんな顔をするかな」
「食べ物だって分かったら、俺より先に寄ってきそう」
隼人が言うと、紗江はくすっと笑った。蓮とお蘭も顔をほころばせる。
だが、蒼馬だけは窓の外へ目を向けていた。
茶碗を置き、静かに言った。
「そろそろ戻りましょう」




