第1章 第4話 紫蝶のドレス
数日後――加賀屋。
店が開く前から、加賀屋の前には足を止める人が絶えなかった。
その視線を集めていたのは、紗江が仕立てた二部式の着物だった。
淡い水色の地に桜と蝶の刺繍が舞い、前には大きなリボンが結ばれている。
道行く人々は、見慣れぬ装いに次々と足を止めた。
「あれは……着物なのかい?」
「上下に分かれているんだって。帯を結ばずに着られるらしいよ」
「へえ、面白いね。ちょっと近くで見せてもらおうか」
一人が店先へ歩み寄ると、つられるように人が集まった。桜と蝶の刺繍を眺め、前のリボンを指さしながら、あちこちで声が上がる。
「これなら、着るのがずいぶん楽になりそうだね」
「ほかの色もあるのかい?」
女将は満足げに腕を組み、お客たちの様子を眺めていた。
そのとき――
店の入口から、にわかにざわめきが広がった。
引き戸が開くと、一人の女性が供を従え、静かに店へ入ってきた。
淡い藤鼠の小紋に、藍と白の献上柄の帯。町へ出るときは、華やかな花魁の装いを控えているのだろう。それでも、すっと伸びた背筋と迷いのない足取りに、店にいた誰もが目を向けた。
娘たちの笑い声が止まった。店先のざわめきも、ふっと静まる。
「紫蝶花魁様……」
娘の一人が、小さく名を漏らした。
女将は驚きを隠しきれないまま、深々と頭を下げる。
「これは紫蝶様。ようこそお越しくださいました」
紫蝶は軽く頷くと、飾られた着物へ目を向けた。
紫蝶が着物の前で足を止めると、娘たちは息を詰めて見守った。
襟元から裾までをゆっくりと眺め、やがて布地に触れ、縫い目を指先で確かめる。
「……面白いねえ」
女将が一歩進み出た。
「新しい仕立ての着物でございます」
「楽に着られるだけじゃない。着た人が美しく見えるよう、よく考えられている」
紫蝶は縫い目に触れたまま尋ねた。
「これを仕立てたのは、誰だい?」
「紗江と申す娘でございます」
「紗江……」
その名を口の中で転がすように呟くと、紫蝶は女将を振り返った。
「女将、仕立てた娘に会わせておくれ。あたしの衣装を頼みたい」
女将の顔が一瞬で輝いた。
「かしこまりました。すぐに手配いたします」
紫蝶が店を出ると、一人の客がその後ろ姿を不思議そうに見送った。
「なぜ、花魁が吉原の外へ?」
「知らないのかい。紫蝶花魁は特別なんだよ」
「借金もなくて、吉原の外へ出ることも許されているんだよ」
「それだけじゃない。稼ぎを親のない子のために使ってるって噂だよ。なかなかできることじゃないさ」
「だから慕われるんだよ。男にも女にもね」
翌日の夕暮れ――。
紗江は加賀屋の女将とともに、吉原の見世を訪れた。お蘭も護衛として付き添っている。
三人は格子戸の奥へ足を踏み入れ、行灯の明かりが灯る廊下を進んだ。香の甘い匂いが漂っていた。
やがて案内されたのは、金屏風が立てられ、金の蒔絵を施した鏡台が置かれた、華やかな座敷だった。
その上座に、一人の女性が座っていた。
白い肌に、切れ長の瞳。紅を引いた唇には、どこか余裕のある笑みが浮かんでいた。
ただそこに座っているだけなのに、目を離すことができない。
(この方が……紫蝶花魁)
女将は紗江の隣に座り、お蘭は入口近くに控えた。
「お前さんが紗江?」
「は、はい。お目にかかれて光栄です」
緊張で声を震わせる紗江を見て、紫蝶はくすりと笑った。
「そんなに硬くならなくていいよ。あたしは、お前さんの着物をすっかり気に入ってしまったんだから」
「あ、ありがとうございます」
紫蝶は立ち上がると、紗江の前まで歩み寄った。
「あたしは、数えきれないほどの衣装を持っている。どれも腕のよい職人が仕立てた、美しいものばかりさ」
紫蝶は、衣桁に掛けられた打掛へ目を向けた。
「けれど、見慣れた美しさでは、もう人を驚かせられない」
紗江へ向き直り、まっすぐに目を合わせる。
「あたしが欲しいのは、まだ誰も見たことのない衣装さ。お前さん、引き受けてくれるかい?
……その衣装で客を魅了して、一人でも多くの親のない子らを助けたいじゃないか」
紫蝶はふと目を伏せた。
「……あたしも親がいなかったから、ここで育ったのさ」
「苦労したとは思っていないよ。でも、選べるものなら、別の生き方をしてみたかった……」
「おかしいねぇ。お前さんを前にすると、今まで自分でも気づかなかった本音まで口にしてしまう」
紗江の瞳から一筋の涙がこぼれた。
「紫蝶様……まだ先の話ですが、女子が好きな仕事を選べる時代は必ず来ます」
紫蝶は微笑んだ。
「紗江がそう言うと、本当にそんな時代が来る気がして嬉しくなるね」
「紫蝶様……私に衣装を作らせて下さい!」
「はなからそのつもりで来てもらったのさ。期待しているよ」
紫蝶の了承を得て、紗江はさっそく、衣装のための寸法を取った。
――澄月庵。
紗江は自室に戻ると、すぐに構想を練り始めた。
「花魁の衣装……見たことがない華やかさ。紫蝶様らしさも出したい」
机の上には、加賀屋から選んできた最高級の反物が並ぶ。黒漆のような艶を持つ無地の生地と、透け感の強い黒い布を選んだ。
紗江は紫蝶の姿を思い浮かべながら、筆を走らせた。
胸元を包むのは、艶のある黒いビスチェ。腰には金の帯を添える。スカートは膝のあたりまで身体の線に沿わせ、そこから裾へ向かって、波がほどけるように大きく広げる。内側には幾重にも重ねた薄い下衣を仕込み、歩いても美しい形を保てるようにした。
仕上げに、透ける黒い布をショールのように肩へふわりとかける。紫蝶が腕を動かせば、その布も軽やかに揺れるはずだった。
それからの一週間、紗江は衣装作りに没頭した。身体に沿う身頃を縫い、膝下から広がる裾には、何枚もの布を惜しみなく使った。さらに、その内側へ重ねる下衣を一枚ずつ仕立てていく。部屋いっぱいに広げた裾の形を確かめ、少しでも違うと感じれば、迷うことなく糸をほどいた。
「紗江様、少しはお休みになってください」
「ありがとう、お蘭。もう少し……もう少しだけだから」
そう言いながらも、紗江の手が止まることはなかった。行灯の明かりの下で夜遅くまで針を動かす紗江を案じ、お蘭は幾度も部屋を覗きに来た。黒猫のクロだけが、いつも足元で見守っていた。
――約束の日の吉原。
紗江とお蘭は、幾つもの包みを携えて紫蝶の部屋を訪れた。
女たちが手を貸し、包みを一つずつ解いていく。衣装が姿を現すと、座敷にいた女たちの声が止んだ。
紫蝶はしばらく言葉を発さず、その衣装を見つめていた。やがて、黒い薄絹へそっと指を触れる。
「……これは、着物なのかい?」
「いいえ。私のいたところでは、ドレスと呼ばれている衣装です」
「どれす……」
初めて耳にする言葉を、紫蝶は味わうように繰り返した。
「着てみてもいいかい?」
「はい」
女たちに手を借り、紫蝶は衣装を身に纏った。
紗江は胸元と腰の具合を確かめ、紫蝶に少し歩いてもらった。膝まわりの動きと裾の丈を見て、気になるところへ小さく印をつける。
「少しだけ、お直しをさせてください」
紗江が針を入れ、最後の糸を留めた。
紫蝶はもう一度衣装を身に纏い、紗江の前で足を止めた。
「……どうだい?」
紗江が振り返ると、座敷にいた誰もが紫蝶を見つめていた。
「紫蝶様……お美しいです」
ようやく一人が口を開き、堰を切ったように感嘆の声が上がった。
紫蝶は皆の反応を見渡し、満足そうに笑った。そして、紗江へと歩み寄る。
「驚かせてほしいとは言ったけれど――」
一度言葉を切り、もう一度、自分の衣装へ目を落とした。
「あたしの想像を、軽々と越えてきたね」
「紫蝶様……」
「ありがとう、紗江。お前さんは、本物の職人だよ」
その夜、吉原では名のある豪商や武士たちが集う宴が開かれていた。
賑やかだった座敷に、紫蝶の到着を知らせる声が響く。障子が開き、紫蝶が姿を現した。
艶のある黒いビスチェが胸元を包み、金の帯が細い腰を彩る。スカートは膝まで身体の線に沿い、そこから裾へ向かって大きく広がっていた。紫蝶が一歩進むたび、幾重もの下衣に支えられた裾が、黒い波のように揺れる。
肩からふわりと流れる薄絹が、その動きを追うように舞った。髪は高く結い上げ、飾りは金の簪一本だけ。その潔い装いが、紫蝶の美しさをいっそう際立たせていた。
黒と金の二色だけで仕立てられているにもかかわらず、これまでのどの打掛にも負けない艶やかさがあった。
先ほどまで笑い声に満ちていた座敷が、しんと静まり返った。
紫蝶は集まった視線を楽しむように、ゆっくりと座敷を見渡した。やがて、一人の客が息を吐くように呟いた。
「……美しい」
そのひと言を皮切りに、座中から感嘆の声が上がった。
「紫蝶、今宵はまた、ずいぶんと皆を驚かせてくれる」
声をかけられた紫蝶は、艶やかに笑った。
「これは、どれすという衣装だそうよ」
「どれす?」
「ああ。加賀屋の紗江という娘が、あたしのために仕立ててくれたのさ」
紫蝶は金の帯へそっと手を添え、誇らしげに続けた。
「覚えておくといいよ。あの娘は、これから江戸の装いを変えるかもしれないからね」
その夜のうちに、紫蝶のドレスは吉原中の噂となった。翌朝には、その噂は大門を越え、江戸の町へと広がっていた。
「紫蝶様の衣装の話を聞いたかい?」
「黒と金の、見たこともない装いだったそうだよ」
「加賀屋と取引をしている、紗江という娘が仕立てたんだって」
やがて加賀屋には、紗江への仕立てを願う注文が次々と舞い込んだ。
こうして紗江の名は、紫蝶のドレスとともに、江戸の町へ知れ渡っていった。




