第1章 第3話 傷物の反物
次の日、紗江は着物を預かった呉服屋の暖簾をくぐった。両手には、丁寧に包まれた着物。
「おや、紗江さん……?」
「こんにちは。お預かりした着物が仕上がりました」
女将が目を丸くする。
「昨日、預けたばかりじゃないか!」
「急ぎと伺っていたので、先に仕上げました。見ていただけますか?」
紗江が包みを開く。
女将は着物を手に取り、袖の丈や襟の合わせ、裾の始末を確かめた。
「縫い目も細かい。昨日預けたばかりなのに、見事な仕立てだよ」
女将は感心したように顔を上げた。
「ありがとう、紗江さん。本当に助かったよ」
「お役に立ててよかったです」
「ちょっと待っておくれ」
女将は店の奥へ向かった。やがて、巾着と反物を手に戻ってきた。
「これは、約束したお代だよ。それと……」
女将は反物を広げた。
「これ、物はいいんだけどね。ほら、いくつか傷があるだろう? だから安く仕入れたんだけど、買い手がつかなくてさ」
「きれいな生地ですね」
紗江は傷を確かめながら、反物に目を留めた。
「紗江さんなら、上手く使えるんじゃないかと思ってね。お礼に持っていくかい」
「いただいてもいいんですか? ありがとうございます。大切に使います」
紗江は反物を丁寧に受け取った。
――澄月庵
澄月庵に戻ると、紗江は部屋に反物を広げ、傷の位置を確かめた。
傷を避けて裁つと、上衣とスカートに分けて縫い進めた。襟とスカートの裾には、薄桃色の桜と金糸の蝶を刺繍する。
数日後、二部式の着物が仕上がった。別布で作った太めのリボンを、帯の代わりに前で結ぶ形だ。
(……この時代に二部式なんて、きっとないんだろうな)
紗江は出来上がった着物を眺め、小さく笑った。
(着るのも楽だし、江戸の人たちにもおすすめなんだけどな)
「……面白いものを作ったな」
不意に背後から声がして、紗江は驚いて振り返った。部屋の入口に、葵が立っている。
「葵様」
葵は紗江のそばまで歩み寄ると、出来上がったばかりの着物へ目を向けた。
「これまでの着物とは、ずいぶんと形が違うようだが」
「はい、生地に何ヶ所か傷があったので、そこを避けて裁ったんです。それで、上下を分けて仕立ててみました」
紗江は少し恥ずかしそうに、上衣とスカートを葵に見せた。
葵は刺繍や縫い目まで、じっくりと眺めている。
「うまいものだな」
「本当ですか」
「ああ。傷を避けたことで、新しい形が生まれた」
その言葉に紗江の表情がふっと明るくなった。
「これは、加賀屋の女将に見てもらうとよい」
「加賀屋ですか?」
「この界隈では名の知れた、大店の呉服屋だ。女将は着物を見る目が確かだと聞く」
葵が紗江をまっすぐ見つめた。
「ともに行ってみぬか」
――加賀屋
加賀屋は、江戸で名の知れた老舗の呉服屋だった。
磨き込まれた太い柱に、広々とした店構え。帳場では商談の声が絶えず、奉公人たちが反物を抱えて忙しそうに行き交っている。
店の奥には、色鮮やかな反物を前に見比べる、豪商の妻や武家の奥方らしき姿も見えた。
「す、すごい……」
紗江は圧倒され、店先で思わず足を止めた。
そんな紗江の様子に気づき、葵が静かに声をかける。
「大丈夫だ。自信を持て」
「……はい」
紗江が小さく頷き、葵とともに暖簾をくぐる。
すると、店の奥から、凛とした佇まいの女性が現れた。
年の頃は四十ほどだろうか。着物の着こなしもそつなく、清潔な装いと立ち姿は一目でこの店を取り仕切る者だと分かる。
「これはこれは、葵様。ようこそお越しくださいました」
女将は品のある微笑みを浮かべ、二人を迎えた。
「女将に、見てもらいたいものがある」
葵がそう告げると、紗江を前へ促した。
紗江は緊張しながらも、女将に向かって丁寧に頭を下げる。
「初めまして。織原紗江と申します」
「お初にお目にかかります」
加賀屋の女将も、穏やかに会釈を返した。
紗江は抱えていた包みを差し出す。
「あの……こちらを見ていただけますか?」
女将は包みを受け取ると、着物が汚れぬよう、近くにいた奉公人へ声をかけた。
「そちらを空けておくれ」
「はい」
奉公人が台の上を整えると、女将は包みを開き、ゆっくりと紐を解いた。
現れたのは、淡い水色の二部式の着物。
女将は何も言わず、まず生地を指先で確かめる。続いて襟元や裾へ視線を走らせ、裏返して縫い目まで念入りに見ていく。
やがて、薄桃色の桜と金糸の蝶の刺繍へ目を留めると、その指がぴたりと止まった。
「この刺繍も、紗江様が?」
「はい。私が刺しました。もとの反物には傷があったので、そこを避けて裁ったんです」
女将はもう一度、着物全体を見渡した。
「なるほど……」
その眼差しは、先ほどまでの穏やかなものとは違っていた。着物の価値を見定める、商人の鋭い目である。
しばらく考え込んだのち、女将は紗江を見た。
「紗江様。一度、こちらをお召しになったお姿を、拝見してもよろしいでしょうか」
店の奥にある一室へ案内された紗江は、持ってきた着物を身につけ始めた。
上衣に袖を通し、巻きスカートを腰へ合わせる。最後に、帯代わりの大きなリボンを前で結ぶ。これで出来上がりだ。
着付けを手伝う者も必要なく、あっという間に着替えが整うと、紗江は葵と女将の待つ部屋へ戻った。
「お待たせしました」
紗江が戻ると、女将は驚いたように目を見開いた。
「まあ……もうお召し替えになったのですか?」
「はい。上下に分かれているので、とても簡単に着られるんです」
「これほど短い時間で……」
女将は感嘆の声を漏らし、紗江の姿を改めて見た。
淡い水色の着物に、薄桃色の桜と金糸の蝶が美しく映えている。前で結んだリボンも、愛らしさを添えていた。
「……着てみると、また違いますね」
女将は一歩近づき、襟元から裾へと視線を移した。紗江の後ろ姿も確かめ、頷く。
「傷があったとは思えませんね。帯も使わず、これほど手軽に着られるとは」
女将の瞳に、商人らしい光が宿った。
「朝の支度に追われる女たちや、働きに出る娘たちにも重宝されることでしょう。紗江様、こちらのお着物を、ぜひ加賀屋に置かせていただけませんか」
「……はい。ぜひ、お願いします」
紗江は嬉しそうに頭を下げた。
――加賀屋からの帰り道
加賀屋を出るころには、西の空が茜色に染まり始めていた。
紗江は葵と並んで歩いている。その足取りは、店へ向かった時よりずっと軽やかだった。
「葵様……今日は、本当にありがとうございました」
紗江が隣を歩く葵へ、嬉しそうに微笑む。
「葵様が加賀屋へ連れてきてくださらなかったら、あの着物を女将さんに見てもらうこともできませんでした」
「私は、よい店を教えただけだ。あの女将を動かしたのは、そなたの腕と発想だ。もっと自信を持つとよい」
「……はい」
紗江は小さく頷いた。
葵も穏やかに目を細める。
二人の間に、柔らかな沈黙が流れた。
茜色の空の下、夕暮れの風が草木をそっと揺らしている。
二人はそれ以上言葉を交わすことなく、肩を並べて澄月庵への道を歩いていった。




