第1章 第2話 月夜に重なる孤独
葵は一軒の屋敷の門前で足を止めた。
門をくぐると、手入れの行き届いた庭が広がっていた。
月明かりを映す池の水面が静かに揺れ、風にそよぐ竹林から、さらさらと葉音が響く。
そこへ、虫の声がかすかに重なった。
張りつめていた心まで、ほどけてしまいそうな穏やかさだった。
「ここは……」
思わず紗江の口から声が漏れた。
「月が美しく見えることから、古くから澄月庵と呼ばれている」
「澄月庵……素敵な名前ですね」
池に映る月を眺めながら、紗江は小さく微笑んだ。
こんなに美しい場所にいても、胸の奥に残る不安は消えなかった。
なぜ、この時代へ来てしまったのか。
帰る方法も、これからどうすればいいのかも、何ひとつわからない。
それなのに、会ったばかりの葵の隣にいると、なぜか心が落ち着くような気がした。
「ここは私の別邸だ。そなたには、しばらくこの場所で暮らしてもらう」
そう告げると、葵は静かに紗江へ向き直る。
「……ひとつ、尋ねてもよいか」
「はい」
「紗江は……どこから来た」
突然の問いに、紗江の胸が高鳴る。
未来から来たなどと言って、信じてもらえるのだろうか。
「私は……」
言葉が喉につかえた。
「光の中から現れたことは、この目で見た」
葵の声に疑いはなかった。
ただ真実を知りたい――そんな思いだけが伝わってきた。
さらに問いを重ねようとして、葵はふっと口を閉じた。
「……すまぬ」
葵はわずかに苦笑した。
「初めてなのだ。私と同じ境遇の者に出会えたのは」
葵は静かに視線を落とした。
だが、その瞳は何を見ているのでもなかった。
「……ずっと答えを探している」
やがて葵は、ゆっくりと話し始めた。
「……私も、あのような光の中から現れた」
「えっ……葵様も?」
紗江は思わず顔を上げた。
「私は三つほどの幼子の姿で、この時代に現れたと聞いている。幼すぎて、その頃の記憶は残っておらぬ」
その横顔には、言葉では言い尽くせない孤独が漂っていた。
紗江は、葵から目を離すことができなかった。
「お楽の方様は、そのような私を我が子として迎え、慈しみ育ててくださった」
「お楽の方様……?」
「あのお方は、三代将軍・家光様のお側室で、四代将軍・家綱様をお産みになったお方だ」
お楽の方様を思い浮かべたのか、葵の表情がやわらいだ。
「私にとっては、本当の母のようなお方だ」
少し間を置き、葵は再び語り始めた。
「お楽の方様がお亡くなりになった後は、桂昌院様が私を引き取ってくださった」
葵は、遠い記憶をたどるように言葉を継いだ。
「それから幾年が経っても、私の姿はほとんど変わらなかった。だが、いつの頃からか成長し始め、それからの成長は人と変わらぬ」
葵は、静かに自らの手へ目を落とした。
「……私は生まれた日さえ知らぬ。自らがいくつなのかも分からぬのだ」
「なぜそのような成長をしたのか、陰陽師にも分からぬという」
紗江は驚きのあまり、言葉を失った。
「私は徳川の子として育てられた。それゆえに生じた問題もある」
「綱吉様には、いずれ世継ぎとなる男子がおられぬ」
「そのため桂昌院様は、ときおりこう仰せになる」
葵は小さく苦笑した。
「『葵を、次の将軍に』と」
「えっ……将軍様に……?」
紗江は思わず声を上げた。
「もちろん、本気で仰っているわけではない」
「だが、その言葉を冗談として受け流せぬ者もいる。とりわけ、柳沢吉保という男は――」
月明かりが庭石を淡く照らしていた。
「柳沢は徳川の血筋を何より重んじる。将軍は徳川の血を引く者でなければならぬと固く信じている」
葵は庭へ歩み出た。
白い月光が、その背中を静かに照らした。
「もし桂昌院様のお言葉が現実となれば、徳川は終わる――そう考えたのだろう」
振り返った葵の瞳には、怒りではなく、覚悟だけが宿っていた。
「成人してからというもの、夜鴉と呼ばれる忍びの一団を使い、幾度となく命を狙われてきた」
紗江の指先が、小さく震える。
「そんな……なぜ、そこまで……」
葵はわずかに笑った。
「善悪で割り切れる話ではない」
「柳沢にとっては、それが徳川を守るための正義なのだろう」
「正義……」
葵はわずかに目を伏せた。
「だからこそ、始末が悪い」
葵の胸の内を知り、紗江の心は締めつけられた。
生まれた場所も、親の顔も、自分が何者かさえ分からない。
葵は長い間、答えのない問いを抱え続けてきたのだ。
(それなのに、葵様が求める答えを、私は何ひとつ持っていない)
紗江の胸に、焦りにも似たもどかしさが広がった。
「昨夜、そなたが現れたあの光を、柳沢は見ていた」
「おそらく今ごろ、そなたのことを調べさせている」
「私を……?」
「ああ。だが、案ずることはない。ある御方が、そなたを守れと仰せになった」
(知り合いもいないこの時代で、誰が私を……?)
尋ねたいことはあった。けれど、何から聞けばよいのかさえ分からず、紗江は黙り込んだ。
葵は、その戸惑いを察したのか、わずかに声をやわらげた。
「だから、何が起ころうとも私がそなたを守る」
紗江は、その言葉を黙って聞いていた。
これまでの話にも、まっすぐな眼差しにも、葵の誠実さがにじんでいた。
胸の奥に残っていた不安は、いつの間にか薄らいでいた。
紗江は小さくうなずいた。
「……はい」
その様子を見つめ、葵は小さく安堵の息をついた。
「そなたも今は戸惑っているはずなのに、私の話ばかり聞かせてしまったな」
「見ず知らずの私に、このような話をされても困るであろう」
「少し驚きました。でも……」
紗江はしばらく黙り込み、静かに息をついた。
「葵様のお話を聞いて……私だけじゃなかったんだって思えました」
その言葉に、葵の表情がわずかに和らぐ。
「分かることだけでよい」
「そなたが覚えていることを聞かせてくれぬか」
紗江は深く息を吸った。
「私は、ここからずっと先の……未来から来ました」
「突然、まばゆい光に包まれて……」
「どうしてこの時代へ来たのかは……わかりません」
葵は、わずかに目を見開いた。
「そうか……未来か」
しばらく紗江を見つめたあと、静かに頷いた。
「信じよう」
「え……?」
「光の中から突然現れたそなたを、この目で見た。尋常ならざることが起きたのは確かだ」
「未来から来たとしても、不思議とは思わぬ」
紗江の胸に張りつめていたものが、わずかにほどけた。
二人の間に静かな沈黙が流れた。
その足元で、クロが小さく「にゃあ」と鳴いた。
金色の瞳が月明かりを映し、まるで二人の運命を最初から見守っていたかのように、静かに輝いていた。
小鳥のさえずりが、静かな朝を知らせていた。
障子の向こうから柔らかな朝の光が差し込む。畳の香りが、どこか懐かしいようで、それでいて知らない世界の空気を感じさせた。
紗江は、ゆっくりと目を開けた。
「……あれ、ここは?」
紗江は見慣れない格子窓に目を向けた。その向こうに、庭の木々が見える。
「夢……じゃないんだ」
ふと足元を見ると、黒猫のクロが丸くなって気持ちよさそうに眠っていた。
「クロがいてくれて良かった」
その姿に、張りつめていた心が少しだけほどける。
その時――ふわりと、味噌汁の香りが漂ってきた。
(……わぁ、いい匂い)
襖が静かに開いた。
「おはようございます」
不意に声をかけられ、紗江は驚いて顔を上げた。
目の前には、年配の女性が穏やかな笑みを浮かべていた。
「あ、おはようございます」
「紗江様のお世話を仰せつかりました、絹と申します。どうぞ、ご遠慮なく何なりとお申しつけくださいませ」
紗江は小さく頭を下げた。
「紗江です。よろしくお願いします」
絹は優しくうなずいた。
「さあ、朝餉の支度が整っております。冷めないうちに召し上がってくださいませ」
茶の間には、朝餉が用意されていた。
紗江の御膳には、湯気の立つ豆腐の味噌汁。艶やかな白いご飯に、ふんわりと焼き上げられた玉子焼き。焼き魚に、香の物が彩りを添えている。
「いただきます」
紗江はそっと手を合わせた。
(そういえば……昨日の昼から何も食べてなかった)
箸を取り、炊きたての白米を一口頬張る。ふっくらとした米の甘みが、口いっぱいに広がった。
味噌汁はやさしく体に染み渡り、焼き魚は皮が香ばしく、中はふっくらとしている。
「……美味しい」
思わず笑みがこぼれた。一口、また一口。気づけば夢中になって箸を進めていた。
「ごちそうさまでした」
その時、襖の向こうに人の気配がした。
襖が静かに開き、姿を現したのは葵だった。
淡い青の羽織をまとい、朝日を背に立つその姿は、まるで絵巻物から現れた人物のようだった。
「口に合ったか」
「葵様」
紗江の顔に笑みが浮かんだ。
「はい、とても美味しかったです」
その笑顔を見て、葵も自然と微笑んだ。
「それは良かった」
葵は部屋へ入り、静かに腰を下ろした。
「よく眠れたか」
「はい」
紗江はうなずいた。
「……まだ夢を見ているみたいです」
「昨日までいた場所とは違う。戸惑うのも無理はない」
その落ち着いた声を聞くと、紗江の心が安らいだ。
「葵様が来てくださって、本当に助かりました」
紗江は照れたように笑った。
「そなたの着物を用意した。今日は江戸の町を案内しようと思う。どのような町か、知っておいた方がよい」
「江戸の町を見られるんですね。楽しみです」
「そうか。江戸は良い町だ。活気があって、人も温かい。きっと気に入る」
葵の言葉に、紗江は笑顔でうなずいた。
「そなたは……よく笑うな」
「えっ、あ、すみません」
「いや」
葵は静かに首を振った。
「良いことだ。その笑顔を、失わぬようにな」
「はい」
紗江はうなずいた。
葵は、その明るい返事を聞きながら思った。
(不思議だ……。この娘といると、心が軽くなる)
紗江は部屋に戻ると、用意されていた着物を手に取った。
薄藤色の美しい絹地だった。
「わぁ……素敵な着物」
指先でそっと触れると、なめらかな手触りが伝わってきた。
長襦袢を身につけ、着物に袖を通す。帯を結ぶと、鏡を見ながら形を整えた。
鏡の中には、薄藤色の着物をまとった自分がいた。ほんの少しだけ、江戸の娘らしく見える。
(ちゃんと着られた……かな)
襖を軽く叩く音がした。
「紗江様、お支度はいかがですか」
絹の声だった。
「はい。どうぞ」
襖が開き、絹が部屋へ入ってきた。
「その……おかしくないでしょうか」
紗江が尋ねると、絹は衿元と帯を確かめ、穏やかに微笑んだ。
「衿の合わせも、帯の結び方も見事でございます」
「ありがとうございます。着付けは、学校の和装実習で習ったんです」
「そうでございましたか」
絹はもう一度、紗江の着姿を見て微笑んだ。
「では、髪を整えるお手伝いをさせてくださいませ。どうぞ、お掛けください」
「はい。お願いします」
紗江が腰を下ろすと、絹は慣れた手つきで髪を結い上げた。仕上げに薄く化粧を施す。
「はい、できました。まあ、紗江様、とてもお綺麗です。中庭で葵様がお待ちでございますよ」
鏡をのぞくと、先ほどとは少し違う自分がいた。
「ありがとうございます、お絹さん」
紗江は部屋を出て、中庭へ向かった。
朝の光を受けて、池の水面がきらきらと輝いている。池のほとりには、葵が立っていた。
足音に気づいた葵が振り向く。
薄藤色の着物をまとった紗江が立っていた。結い上げられた髪が、朝の光を受けている。
「葵様、着物をありがとうございます」
紗江は薄藤色の袖を見せ、嬉しそうに微笑んだ。
葵の視線が、その笑顔にふと留まった。
「……よく似合っている」
「はい。色も生地も、とてもきれいで」
その時、庭の向こうから人の話し声が聞こえてきた。
葵がそちらへ目を向ける。
「来たようだな」
「葵様、お待たせいたしました」
蒼馬が庭へ姿を現し、葵に一礼した。
続いて紗江へ視線を向け、穏やかに微笑む。
「紗江様。昨夜は名乗らずに失礼いたしました。私は蒼馬と申します」
「昨夜はありがとうございました」
紗江も丁寧に頭を下げた。
すると、蒼馬の後ろから年若い少年がひょこっと顔をのぞかせた。
「俺は隼人! よろしくね、紗江!」
「あ、はい! よろしくお願いします!」
紗江が笑顔で頭を下げると、隼人もにこっと笑った。
さらにその後ろから現れた蓮は、紗江の姿を目にして、思わず足を止めた。
薄藤色の袖を指先でそっと整える仕草。
少し恥ずかしそうな微笑み、やわらかな表情。
その飾らない可愛らしさに、蓮は一瞬見入ってしまった。
「蓮、どうしたの?」
隼人が不思議そうに首をかしげる。
「あ、いや……なんでもない」
蓮は慌てて視線を逸らし、顔の熱を誤魔化すように笑った。
「俺は蓮。今日は城下を案内するから、よろしくな」
「はい、よろしくお願いします」
紗江が笑顔を返すと、隼人が待ちきれない様子で声を上げた。
「ねえねえ、早く行こうよ! お腹空いちゃった!」
「お前は本当に、そればっかりだな」
蓮が呆れたように笑った。
「だって、町に行くって言うから、朝ご飯食べてこなかったんだよ!」
隼人が胸を張る。紗江は思わず吹き出した。
「ふふっ」
「笑われてるぞ、隼人」
「えっ? なんで俺?」
庭に笑い声が広がり、葵も小さく口元を緩めた。
「では、参ろう」
葵が歩き出す。紗江も新しく出会った仲間たちとともに、そのあとに続いた。
――江戸の町。
通りは、多くの人で賑わっていた。
魚を売る威勢のよい声。茶屋の軒先から漂う、焙じ茶の香り。
反物屋の店先には、色とりどりの絹が風をはらみ、陽の光を受けてきらめいている。
「まるで、時代劇の世界みたい……」
紗江は目を輝かせながら、行き交う人々を目で追った。
「みんな、着物を思い思いに着こなしているんですね。江戸の町って、こんなに賑やかなんだ……」
「俺たちには、見慣れた景色だけどな」
蓮が隣で笑った。
「そんなに珍しいか?」
隼人が不思議そうに尋ねる。
「はい! どこを見ればいいか迷ってしまいます」
紗江が大きく頷くと、蓮が前方を指さした。
「あそこが魚河岸だ」
「朝は、人で埋め尽くされるんだぜ」
隼人が得意げに続けた。
「紗江じゃ、人の波に流されちまうかもな」
蓮がからかうように笑った。
「もう、子ども扱いしないでください!」
紗江は頬を膨らませる。その顔がおかしくて、蓮はさらに笑った。
そのやり取りを、少し離れたところから葵が静かに見つめていた。
「葵様」
隣を歩く蒼馬が、小声で囁いた。
「紗江様、お喜びのようですね」
「ああ……不思議な娘だ」
葵は楽しそうに笑う紗江を見つめ、静かに目を細める。
「見ていると、不思議と心が安らぐ」
「左様でございますか」
蒼馬は葵の横顔を見つめ、わずかに微笑んだ。
やがて一行は、一軒の呉服屋の前で足を止めた。
(わあ……この柄、すごく繊細!)
絹地に描かれた細やかな花模様に、紗江の目が釘付けになる。
「お目が高いね、お嬢さん」
店の女将が笑顔で声をかけた。
「これは、届いたばかりの新しい反物だよ」
「届いたばかりなんですか……」
紗江は、壊れ物に触れるように、そっと布地をなぞった。
「……職人さんって、すごい」
「店の中にも、まだたくさんあるよ。よかったら見ていってくださいな」
女将はそう言って笑ったが、ふと困ったように眉を下げた。
「ただねぇ、うちのお針子が転んで、腕の骨を折っちまってね。この忙しい時に仕立てができなくなって、困っているんですよ」
「お針子さんが?」
「そうなんです。せっかくいただいたご注文も、いつお渡しできるか分からなくてねぇ……」
紗江は女将の手元にある反物へ目をやった。少し迷ったあと、意を決して口を開いた。
「あの……もし、ご迷惑でなければ、私がお手伝いできるかもしれません」
女将が驚いたように紗江を見た。
「お嬢さんが?」
「はい。和裁を習っていました。まだ未熟ですが……」
「気持ちはありがたいけれど、預かっているのは、お武家のお嬢様のお召し物でね。腕前も知らずに任せるわけには……」
「ならば、一度、この者に腕を見せる機会を与えてはくれぬか」
それまで黙っていた葵が、静かに口を開いた。
女将は葵の姿を見て、はっと背筋を伸ばす。
「葵様が、仰るのでしたら……」
女将は少し考えたあと、裁縫箱から端切れを取り出した。
「では、まずはこちらを縫ってみてくださいな」
「はい」
紗江は端切れを受け取ると、針に糸を通し、慣れた手つきで縫い始めた。
迷いのない指先が、布の上を滑るように進んでいく。
やがて、細かく揃った縫い目が現れた。
それを見た女将の表情が、みるみる明るくなる。
「まあ……お嬢さん、未熟だなんてとんでもない」
女将は縫い目を確かめるように、端切れを光へかざした。
「一針一針が丁寧だね。これなら安心して任せられるよ」
女将は嬉しそうに頷き、反物と仕立てに必要な道具を紗江へ手渡した。
「これほどの腕前なら、ぜひお願いしたいね。助かるよ。お礼は、きちんとはずみますからね」
「ありがとうございます。精一杯、仕立てさせていただきます」
紗江は反物を大切そうに受け取り、頷いた。
女将は、ふと思い出したように微笑む。
「そういえば、まだお名前を伺っていなかったね」
「私、織原紗江と申します」
「紗江さんというのかい」
女将は、にっこりと笑った。
「よろしくお願いしますね」
「はい!」
――茶屋
湯気の立つ甘酒の香りと、香ばしい団子の匂いが漂っていた。
「紗江、江戸の町は楽しかった?」
隼人が、団子を頬張りながら尋ねた。
「はい!」
紗江は弾んだ声で答え、満面の笑顔を見せる。
「みなさんのおかげで、とっても楽しかったです。ありがとうございました」
葵は、その横顔を静かに見つめていた。
あれほど無邪気に笑う姿を見ていると、とても争いに巻き込まれるような娘には思えない。
(松雲様は、なぜ紗江を助けよと仰ったのだ。
いったい、何から守れというのか――)
その時――。
紗江の背筋を、冷たいものが走った。
(……誰かに見られている?)
思わず辺りを見回す。
だが、行き交う人々の中に、それらしい者の姿は見当たらない。
「蒼馬、気づいたか」
葵の低い声が響いた。
「はい。夜鴉です」
蒼馬は周囲へ鋭い視線を巡らせながら、静かに立ち上がった。
「柳沢が、動き始めたようですね」
それを聞いた紗江は、不安そうに唇を噛んだ。
「私……つけられているんですか?」
「おそらくな」
葵の声は、どこまでも穏やかだった。
「私とともにいれば、そなたまで危険にさらしてしまうかもしれぬ。……すまぬ」
「謝らないでください。葵様が助けてくださらなかったら、私、今ごろどうなっていたか……」
「だが、心配するな」
「そなたの詳しい素性までは、まだ知られておらぬ。それに――」
葵は、蒼馬たちへ目を向けた。
「皆がついている」
「任せてくれって! こう見えて、俺たち強いんだぜ!」
隼人が得意げに胸を張る。
「隼人たちは、私に仕える忍びだ」
葵の言葉に、紗江は驚いて三人を見た。
「えっ……みなさん、忍びなんですか?」
「誰にも言うなよ。紗江はもう仲間だから、教えたんだ」
蓮が笑って告げたその言葉に、紗江の瞳が揺れた。
仲間――。
その温かな響きが、胸の奥へゆっくりと染み込んでいく。
これほどまっすぐに、自分の居場所を示してもらったことがあっただろうか。
胸の奥に、やわらかな灯がともる。
「はい……ありがとうございます」
紗江は目に涙を浮かべながら、それでも嬉しそうに笑った。
「紗江は、泣いたり笑ったり忙しいね!」
隼人が楽しそうに笑う。
「お前が言うなよ」
蓮が呆れたように返すと、皆の間に再び笑い声が広がった。
葵はそんな紗江たちを見つめながら、夜鴉の気配が消えた方角へ、静かに目を細めていた。
――お蘭
夜の澄月庵。
月明かりが竹林を照らし、細長い影を庭へ落としていた。
紗江が部屋で呉服屋から預かった反物を眺めていると、障子の向こうに人の気配がした。
「紗江様、失礼いたします」
静かに障子が開く。
現れたのは、黒髪を高く結い上げた若い女性だった。
紅を引いた唇に、凛とした瞳。
けれど、紗江へ向ける微笑みはやわらかい。
「お蘭と申します。このたび、葵様の仰せにより、紗江様の護衛を務めることになりました」
「え……護衛?」
驚く紗江に、お蘭はにこやかに頷いた。
「紗江様をお守りするために参りました。身の回りのお世話も、どうぞ私にお任せくださいませ」
穏やかに話しながらも、その鋭い視線は部屋の隅々へ向けられている。
わずかな異変も見逃すまいとする姿に、紗江はお蘭がただの侍女ではないことを感じた。
「あの……お蘭さん」
「どうぞ、お蘭とお呼びください」
「では、私のことも紗江と呼んでください」
お蘭は微笑みながら、静かに首を振った。
「それはできませぬ。私は紗江様をお守りする身でございますから」
「そうですか……」
紗江は少し残念そうにしたが、やがて微笑んだ。
「では……お蘭。どうして急に、私の護衛を?」
お蘭は紗江の前へ静かに座ると、まっすぐにその瞳を見つめた。
「本日、夜鴉の者につけられたことを、葵様はひどく案じておられました」
「葵様が……」
「今後、柳沢がどのような手を使うか分かりませぬ。決してお一人で澄月庵の外へ出ぬようにと、仰せつかっております」
「はい。分かりました」
紗江が素直に頷くと、お蘭は安堵したように微笑んだ。
「何かございましたら、いつでもお呼びくださいませ。すぐ近くに控えております」
お蘭が一礼して部屋を辞したあと、紗江は呉服屋から預かった反物を広げた。
針に糸を通し、ひと針ずつ丁寧に縫い進めていく。
(今日は……本当に楽しかった)
江戸の賑やかな町。
行き交う人々の笑顔。
そして、葵の優しさ。
『よく似合っている……』
朝にかけられた言葉が、ふいに胸の奥によみがえった。
(葵様……)
気づけば、針を持つ手が止まっている。
紗江は小さく首を振り、熱くなった頬を両手でそっと押さえた。
(だめ、だめ……今は仕立てに集中しなくちゃ)
再び針を持ち、布へ向き直る。
夜風が障子をかすかに揺らした。
縫い針が月明かりを受け、きらりと光る。
同じ月が、江戸の別の場所を照らしていた。
――夜鴉の本拠
闇に沈む、古びた屋敷。
長い廊下に人の気配はなく、冷たい夜風だけが音もなく吹き抜けていた。
屋敷の奥深く。
月明かりさえほとんど届かぬ一室に、玄斎が立っていた。
「何か分かったか、鴦牙」
低い声が、闇の中に響く。
その背後から、夜鴉の黒羽・鴦牙が音もなく姿を現した。
「娘の素性を探りましたが、何もつかめませぬ」
「何も、か」
「はい。あの娘がどこから来たのか、知る者はおりません。ただ――」
鴦牙が、わずかに声を落とす。
「眩い光の中から、突然現れたと」
「光の中から現れた……か」
玄斎は窓の外へ目を向けた。
雲の切れ間から差し込む月明かりが、その口元に浮かんだ薄い笑みを照らす。
「面白い。もう少し探れ」
「御意」
「それよりも――」
玄斎が、ゆっくりと振り向いた。
「葵の動きはどうだ」
「相変わらず慎重にございます。蒼馬たちが、常に傍らを固めております」
「蒼馬か……」
玄斎の目が、闇の中で鋭く光る。
「まずは、あやつらの動きを探らせるとしよう」
その声が消えると、室内に重い沈黙が落ちた。
やがて玄斎は、闇の奥へ向かって命じる。
「無刄を呼べ」
「はっ」
鴦牙は一礼すると、闇に溶けるように姿を消した。
しばらくして、一人の男が音もなく現れた。
夜鴉の黒羽・無刄。
面を着けたその姿からは、息遣いさえ感じられない。
無刄は何も語らず、ただ静かに玄斎の前へ膝をついた。
「蒼馬のもとへ行け」
玄斎の低い声が響く。
「何をすべきかは、分かっておろう」
無刄は無言のまま、わずかに頭を下げた。
だが、その指先がほんの一瞬、かすかに揺れたことを、玄斎は見逃さなかった。
「葵……殺すには惜しい器よ」
玄斎は独り言のように呟く。
「徳川があやつを不要とするならば、ワシが手に入れる」
無刄は静かに立ち上がると、再び闇の中へ姿を消した。
その背を見送りながら、玄斎は冷たい笑みを浮かべる。
「さて……」
月が雲に覆われ、室内からわずかな光さえ消えていく。
「無刄。お前は、どう動く――」
――松雲の憂い
同じ頃、江戸の外れにある松雲の庵。
茶屋から澄月庵へ戻ったあと、蒼馬はひとり松雲を訪ねていた。
薄暗い一室。
松雲は灯明の下で、一通の文を広げている。
その文には、葵の名が記されていた。
「葵は、何も覚えておらぬ……か」
松雲が低く呟く。
「はい。あの頃のことは、何ひとつ」
蒼馬の答えを聞き、松雲は静かに目を伏せた。
揺れる灯明の光が、その険しい横顔を照らしている。
「蒼馬よ」
「はっ」
「葵と紗江、二人の守りを怠るな」
「承知いたしました」
蒼馬は深く一礼すると、障子を閉め、部屋をあとにした。
――庵の外
冷たい夜風が吹いていた。
蒼馬が石段へ足を向けた、その時。
背後に、鋭い気配が落ちる。
「……来たか」
蒼馬は足を止めた。
振り向いた先に、無刄が立っている。
月明かりの下、面に隠された表情をうかがうことはできない。
「久しいな、無刄」
無刄は答えず、静かに刀を抜いた。
鞘走りの音が、夜の静寂を切り裂く。
蒼馬も刀を抜き、まっすぐに無刄を見据えた。
「やはり、玄斎の命か」
答えはない。
次の瞬間、無刄の姿が消えた。
甲高い金属音とともに、二人の刃が激しくぶつかる。
月明かりの下で火花が散り、闇の中へ消えていった。
蒼馬が刃を受け止めた瞬間、脳裏に遠い日の光景がよみがえる。
同じ里で木刀を振った日々。
川で遊び、並んで星を見上げた夜。
無刄は、幼い頃から共に育った、かけがえのない友だった。
「何度来ても、結果は同じだ」
蒼馬は無刄の刀を押し返し、声を張る。
「無刄! お前も、こちら側へ来ないか!」
無刄の刀先が、ほんのわずかに揺れた。
面の奥の瞳に、一瞬だけ迷いが浮かぶ。
しかし次の瞬間、その迷いを振り払うように、無刄は再び刀を振るった。
蒼馬は一歩踏み込み、刃を受け流す。
二人の刀が幾度も交わり、澄んだ金属音が庵の庭に響き渡った。
やがて、月が雲に隠れる。
辺りが闇に包まれた、その一瞬――。
激しい一撃のあと、二人は互いに距離を取った。
無刄の切っ先は、蒼馬の喉元を捉えている。
蒼馬の刃もまた、無刄の胸元へ届いていた。
どちらかがわずかに動けば、どちらかが傷つく。
長い沈黙が流れた。
やがて無刄は、ゆっくりと刀を下ろした。
「……また会おう、蒼馬」
「ああ」
蒼馬の声は静かだった。
無刄は刀を鞘へ納めると、闇に溶けるように姿を消した。
雲間から再び月が現れ、蒼馬の影を長く地面へ落とす。
その光景を、松雲は庵の縁側から見つめていた。
「葵を守る者たちよ――」
低い呟きが、夜風に溶けていく。
「試されるは、絆の強さぞ」
――澄月庵
その頃、紗江はようやく針仕事を終えたところだった。
仕立て上げた着物を丁寧に畳み、満足そうに微笑む。
月は変わらず、江戸の町を照らしていた。
けれど、その光の届かぬ場所で、歯車が静かに動き始めていた。




