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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第1章 第1話 夢と風の導き

元禄七年。

江戸の町は静かに夜を迎えようとしていた。


陰陽師・松雲の庵に、風も立てず忍びの影が一つ。

障子越しに暮れ残る光が差し込み、蒼馬は片膝をつく。

「松雲様、北の山並みに“兆し”がございました。天の光が裂け、ひとすじの光柱が地を照らしたと――」


松雲は答えず、水晶へ手をかざした。

空気がわずかに張りつめる。


淡い輝きがゆらぎ、水晶の奥で霞のような光が渦を巻く。

その中に一人の少女の輪郭がぼんやりと浮かび上がった。


「……来る」


松雲は印を結び、木札を一枚、護摩火へくべた。

火の粉が舞い上がり、部屋の中に金色の光がふわりと満ちる。


「葵に伝えよ。光の中より現れる者あり。急ぎ日本橋へ向かい、その者を助けよ」

「承知いたしました」

蒼馬は深く頭を下げ、姿を消した。


松雲は水晶に浮かぶ少女を見つめた。

「……この出会いが、葵の行く末を変えるやもしれぬ」


やがて、ゆっくりと目を閉じた。

その佇まいには、揺るぎない威厳があった。


――武家屋敷が立ち並ぶ一角。


蒼馬は、ひときわ大きな屋敷の庭へ音もなく降り立った。

その気配を察し、葵は筆を止めた。

「……蒼馬か」


「松雲様より、『光の中より現れる者あり。急ぎ日本橋へ向かい、その者を助けよ』との伝令がございました」

「……光の中か」


「急ぐぞ、蒼馬」

葵は身を翻すと、すぐさま駆け出した。


――その頃、現代。


まばゆい照明。

鳴りやまない拍手。

自分のデザインした衣装をまとったモデルたちが、堂々とランウェイを歩く。


やがて、大きな歓声が上がった。

「紗江――!」

誰かが、彼女の名を呼ぶ。


――紗江は、夢を見ていた。


瞼がゆっくりと開くと、そこは六畳一間の薄暗い部屋だった。

蛍光灯の白い光。広げたままのノートには、走り書きのデザイン画。袖のラインを何度も描き直した跡がある。机の上には飲みかけのコーヒーと、使い古しの針箱。


「……いつの間にか、寝ちゃったんだ」


紗江は、その針箱に目を留めた。

それを見つめていると、児童養護施設で過ごした幼い日々がよみがえる。


ベッドに腰掛け、一人で窓の外を見つめていたこと。

枕元にはいつも、小さな裁縫箱があった。


あの頃から、服を作ることだけが、紗江の救いだった。


頼れる家族のいない紗江は、奨学金とアルバイトで、学費も生活費も賄っていた。

授業を終えるとコンビニで働き、帰宅する頃には夜も更けている。

それでも、眠る時間を削り、デザインを描き続けた。


荒れた手も、むくんだ足も、夢を諦める理由にはならなかった。


足元から小さな鳴き声がした。

黒猫のクロが、まん丸な瞳でこちらを見上げている。


「クロ。私、いつかきっと、自分の作った服で、誰かを笑顔にしてみせるからね」


クロは小さく「ニャア」と鳴いた。

その金色の瞳が、一瞬だけ光ったように見えた。


時計の針が、午前零時を示した。

空腹を感じて、紗江は顔を上げた。

「そういえば、お昼から何も口にしていない。何か買って来ようかな」


「クロ……ノースフェイスのダウン取って来るね……んっ!?」


――その瞬間。


目を開けていられないほどの眩い光。


カタカタ……ガタガタガタッ!

窓ガラスが激しく震え、部屋全体が風に呑まれた。カーテンが大きく揺れ、デザイン画が宙を舞う。


「何……? 何が起きたの――」


クロの瞳が、金色に光った。

紗江は思わずクロを抱きしめた。

「クロ――」


眩い閃光が炸裂した。世界が真っ白に塗りつぶされる。

体が浮き、目を閉じた――ほんの一瞬の出来事だった。


足の裏に、ひやりと湿った土が触れた。


「……え?」


紗江は恐る恐る目を開けた。

目の前には土の道が伸び、その両側に瓦屋根の家々が軒を連ねている。

行き交う人々は、誰もが着物姿だった。


魚を売る威勢のよい声。遠くからは、太鼓の音が聞こえてくる。

どこを見ても、まるで知らない町だった。


「……ここは……どこ」


紗江は自分の姿を見下ろした。

裸足のまま、着ているのはジャージだった。


すぐに周囲の視線が集まる。

通り過ぎた者が振り返り、一人、また一人と足を止めた。


「なんだ、あの妙ななりは」

「見たこともない着物だ」


囁きが次々と重なり、ざわめきが広がっていく。

紗江はクロを抱いたまま、怯えるように辺りを見回した。


前にも、左右にも、人がいる。


紗江は逃げるように後ずさった。

「……なんだ、あの娘」


ざわめきが膨らみ、人垣がじりじりと迫ってくる。

やがて、紗江の背中が壁にぶつかった。


もう、逃げ場はなかった。


恐怖が喉を締めつけ、足が震えた。

「違います! 私は――」


声は震えていた。人垣が迫る。


「化け物が、喋ったぞ!」

群衆の一人が道端に立てかけてあった竹の棒をつかみ、別の男も石を拾い上げた。


(どうしよう……もう逃げ場がない……)


クロが前に出て「シャー!」と低く唸った。

その瞳が、再び金色に光る。


「クロ! だめ!」


――その時。


「控えよ!」


空気を裂くような声が響いた。ざわめきが止む。群衆の間を割って、一人の青年が現れた。


緋色の羽織が、風に揺れた。

整った顔立ちに涼やかな瞳、どこか現実離れした美しさを帯びている。


「この娘に手を出すな。私があずかる」


青年は、まっすぐ紗江を見た。その眼差しは、不思議なほど優しく見えた。


青年の後ろから、もう一人の男が静かに歩み出た。

鋭い眼差しで周囲を見渡しながら、青年の隣に並ぶ。


「葵様、この者が例の者でございますか」

「ああ、蒼馬。この娘を連れて帰る」

蒼馬は無言で頷き、紗江を一瞥した。


町人たちは顔を見合わせ、ざわめき始めた。

「あのお方が……?」

「どうして、あの娘と……」


戸惑いと好奇の入り交じった囁きが、辺りに広がっていく。

紗江は息をのんだ。


青年は紗江の前に歩み寄ると、そっと視線を落とした。

「歩けるか」

そう言って、自分の草履を脱いで差し出した。


「私の名は葵。おぬしの名は」

「私は……織原紗江です」


葵がわずかに微笑んだ。

そのまま、黒猫へ目を向けた。

「おまえがクロか。よく主人を守ったな」


クロは小さく鳴いた。まるで返事をするように。


「クロのことを……知っているんですか?」

「先ほど、おぬしが名を呼んでおったからな」


葵は振り向き、町人たちに言い放つ。

「この娘は、我が屋敷の客人だ。異を唱える者はおらぬな」


町人たちは押し黙り、道を開けた。


紗江は手を引かれるまま、葵と共に暗い通りを抜けていく。

蒼馬が無言で後を追う。


草の香りと、どこか懐かしい風。


紗江はふと、葵の横顔を見た。

月明かりに照らされたその顔は、月の精のような美しさだった。


葵は紗江に穏やかな笑みを向けた。

「さぞ怖かったであろう。だが、もう大丈夫だ」


その穏やかな瞳に、張り詰めていた気持ちが少し解けた。


――柳沢の暗躍


少し前、路地に面した松風亭の二階。

格子窓の奥から、その光景を見つめる影があった。


柳沢吉保は、酒を傾けながら夜の町を眺めていた。


その時、路地の奥で、眩い光が炸裂した。

柳沢は思わず手を止めた。


光が消えた後、一人の娘が立っていた。

奇妙な格好。裸足。そして――黒い猫を抱いている。


柳沢の目が細められる。

かつて江戸城で耳にした、大奥の女中たちの噂が、ふと脳裏によみがえった。


「葵様は……光の中から現れたと」


「……あれは?」

柳沢の声は低く、冷たい。


娘の周りに人が集まり始める。ざわめきが大きくなる。

やがて、緋色の羽織を纏った青年が現れた。


「葵――」

柳沢の顔が強ばる。


葵が娘の手を取り、連れ去っていく。

柳沢は立ち上がり、格子窓の外を見据えた。


「夜鴉、いるか」

柳沢が呼ぶと、背後の闇から、黒装束の男が音もなく現れた。

「ここに」

「あの娘を調べろ。どこの誰か」

「御意」


夜鴉が消える。


柳沢は再び窓の外へ目を向けた。月明かりの路地には、すでに二人の姿はなかった。


「光の中から現れる者……」

盃を置く音が、静かな部屋に響いた。


「葵だけでも厄介なのに……仲間が増えたのか」

柳沢の目に、暗い光が宿る。


「いや……待て」

彼は冷静に思考を巡らせる。


「あの娘、利用できるかもしれぬな」


口元に、冷たい笑みが浮かんだ。

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