第1章 第7話 お守りに秘めた約束
――十年前、江戸城の庭園。
「そんなところで何をしているの?」
千代姫は、池の周りの草をかき分けている少年に声をかけた。
「大事なものを探しています」
「私も一緒に探してあげる」
千代姫は少年の隣にしゃがみ、草の間を覗き込んだ。しばらく探してから、ふと顔を上げる。
「ところで、何を探しているの?」
「……お守り。父上と母上の形見なんだ。失くさないように首にかけていたのに、さっきここを通ってから見当たらなくて」
「ご両親とも、いないの?」
少年は小さく頷いた。
千代姫は手を止め、少し考えてから言った。
「では、私があなたの家族になってあげてもいいわよ」
少年は驚いたように千代姫を見た。
「……松雲様が葵様のところへ連れてきてくれたから、もう一人じゃないんだ。でも、ありがとう」
「あら。葵兄様の家族なら、私も家族よ」
「そうなの? 僕は蒼馬。君の名前は?」
遠くから声が聞こえた。
「千代姫様ー」
「千代姫様、どちらにいらっしゃいますかー」
声が近づいてくる。千代姫は唇に指を当てた。
「しっ。私はもう行かなくては」
「え……?」
「また会いましょう。私は千代よ」
蒼馬は目を見開いた。
「では、あなたはお姫様……?」
千代姫はくすくすと笑った。
「またね、蒼馬」
部屋へ戻る途中、千代姫は道端に濃紺のお守り袋が落ちているのを見つけた。首にかける麻の紐がほどけている。
「これだわ」
振り返っても、蒼馬の姿はもうなかった。
千代姫はお守りを大切に持ち帰り、乳母に組紐の作り方を教わった。黄色と白の絹糸を選び、何度も編み直しながら、細い紐を仕上げる。
「姫様がご自分でお作りになるなんて、珍しいこと」
乳母に言われても、千代姫は理由を話さなかった。
新しい組紐をお守りに通すと、千代姫は小さな紙に言葉を書き、袋の中へそっと忍ばせた。
わたしがお嫁さんになってあげる
お守りを返すとき、千代姫が伝えたのは、紐を作り直したことだけだった。
蒼馬は何も知らずに礼を言い、その日からお守りを身につけた。それをきっかけに、二人は顔を合わせるたびに言葉を交わすようになった。
――十年後。
葵は蒼馬を呼び寄せていた。
「千代姫の大山詣の供をしてくれるか。お前が行ってくれると安心だ」
「はっ」
蒼馬は静かに頭を下げた。
やがて数日が経ち、大山詣の一行が江戸を発った。
槍持ちの侍、御用人、女中衆、そして豪華な蒔絵の施された千代姫の駕籠。旗がひるがえり、総勢五十余名の行列は、道端の人々の目を奪った。
人々が頭を下げる中、蒼馬は千代姫の駕籠の脇に控え、鋭い視線を周囲に巡らせていた。
江戸を離れた頃、千代姫が御簾を少し上げた。
「蒼馬、あちらをご覧なさい。川に子どもたちが……」
小さな子どもたちが、紙の船を流して遊んでいた。沈まず遠くまで行けば願いが叶うのだという。
「私もやってみたいわ」
千代姫に言われ、蒼馬は周囲を確かめてから駕籠に手を差し出した。
陽の光を浴びて、紗江が仕立てた旅装束がきらきらと輝いた。
「……千代姫さま、今日はおきれいです」
「まあ、蒼馬に褒められるなんて嬉しい。ありがとう」
「紗江様が仕立てた衣装は、本当にきれいですから」
「まあ、蒼馬ったら意地悪ね。喜んでしまったじゃない」
千代姫が笑うと、蒼馬もつられて微笑んだ。
川辺では、子どもたちがまだ紙の船を流していた。千代姫はその手元を眺める。
「私にも作れるかしら」
「やってみますか」
蒼馬は紙を一枚もらい、千代姫に折り方を見せながら船を作った。
「願いを心に秘めて、川へ流されるとよろしいかと」
千代姫は目を閉じ、そっと船を水面に置いた。小舟は流れに乗り、やがて遠くへ消えていった。
「……叶うかしら」
「あれほど遠くまで流れました。きっと」
千代姫が横を見ると、蒼馬も目を細めて川の流れを見送っていた。
「何をお願いしたかは、蒼馬にだけ……」
千代姫がそっと耳打ちすると、蒼馬の表情がわずかに揺らいだ。
「返事はいりません。願うことくらいいいでしょう」
千代姫はそう言って、駕籠へ戻った。
蒼馬はしばらく、その場を動けなかった。
旅の道中、杉並木に朝霧がかかり、参拝者たちが一行の脇を行き交った。千代姫は珍しそうに辺りを見回し、時折子どものように声を上げた。
「蒼馬、あのお団子が食べてみたいわ」
「千代姫様。先ほど休んだばかりです」
「休むのと、お団子を食べるのは別でしょう?」
蒼馬は返す言葉を失い、結局、団子を買ってきた。
「あなたも」
「私は結構です」
「昔は何でも半分こにしたじゃない」
蒼馬は差し出された団子を見つめた。
「……昔のことです」
「私は、つい昨日のように覚えているわ」
千代姫が嬉しそうに笑う。蒼馬は差し出された団子を受け取り、珍しくその場で口に運んだ。
山道に入ったところで、行列の前方が騒がしくなった。
木立の陰から現れた野盗たちが、荷を積んだ馬へ駆け寄る。蒼馬はすぐに千代姫の駕籠の前に立った。
「御簾を下ろしていてください」
「蒼馬……」
「すぐに済みます」
男の一人が刀を振り上げた。蒼馬はその刃をかわし、相手の手から刀を落とした。もう一人が背後から迫ったが、蒼馬は振り向きざまにその腕を取り、地面へ押さえつける。
護衛たちが二人を捕らえると、残る野盗は木立の奥へ逃げていった。
蒼馬は刀を収め、駕籠を振り返った。
「大丈夫ですか」
「ええ。蒼馬が居るのですから」
千代姫は穏やかに答えたが、すぐに蒼馬の襟元へ目を留めた。立ち回りの拍子に衣がずれ、濃紺のお守りと、黄色と白の組紐がのぞいていた。
「まだその紐を……」
蒼馬は襟元に手をやった。
「……気に入っているので」
そう言って、お守りを衣の内へしまった。
「蒼馬……それは私が初めて編んだものです」
千代姫は、蒼馬に聞こえるか聞こえないかほどの小さな声で呟いた。
旅は数日に及んだ。
ある夜、宿坊の庭で、千代姫が月を見上げていた。昼の暑さとは打って変わり、山の夜風が心地よく衣を揺らす。
「眠れないのですか」
蒼馬が声をかけると、千代姫は小さく首を振った。
「とても幸せで……寝てしまうのがもったいないのです。何を見ても輝いていて、いつもと違って見えるのですもの」
蒼馬は隣に立ち、同じ夜空を見上げた。
「このまま、ずっと旅が続けばいいのに」
千代姫の声に、蒼馬は振り向いた。彼女はまだ微笑んでいたが、その目は月を見つめたままだった。
しばらくして、千代姫が静かに口を開いた。
「……私の、嫁ぎ先が決まりました」
最後の言葉だけが、かすかに震えた。
蒼馬は千代姫を見た。川辺で聞いた願いが、耳の奥に蘇る。
「……それは……おめでとうございます」
千代姫は泣きそうになるのをこらえた。
「ありがとう、蒼馬」
蒼馬は間を置いて、続けた。
「千代姫様ならば……どこにいらしても、ご自身の力で幸せを掴まれます」
「そうかしら」
「もし何かあれば、私は必ず駆けつけます……」
千代姫は蒼馬の名を呼びかけたが、唇を噛んで押しとどめた。
蒼馬はそっと顔を上げ、夜空を眺めるふりをした。
蒼馬は部屋に戻っても落ち着かなかった。衣の下からお守りを取り出す。濃紺の袋に結ばれた、黄色と白の細い組紐。十年前、千代姫が作ってくれたものだ。
蒼馬はお守りを強く握りしめた。
カサッと小さな音がした。
袋の口に指をかけると、中には折り畳まれた紙が入っていた。見覚えのない、幼い筆跡。
わたしがお嫁さんになってあげる
蒼馬は何度も読み返した。
あの日、千代姫はお守りを返しながら恥ずかしそうにしていた。蒼馬は新しい組紐ばかり見て、何も気づかなかった。
「……千代」
誰もいない部屋で、初めてその名を呼んだ。
蒼馬は手紙とお守りを胸に抱き、声を殺して泣いた。
旅は無事に終わり、一行は江戸へ戻った。
千代姫が道中で団子を召し上がったこと、川辺の子どもたちと紙の船を流したことが、人々の間に広まった。
中でも、千代姫が身にまとっていた可憐な旅装束は評判を呼び、加賀屋には再び長い行列ができた。
蒼馬は人々の噂を聞きながら、衣の下のお守りに触れた。
蒼馬は、お守りの中に手紙を見つけたことを、千代姫に告げずにいた。
大山詣は二人にとって、胸に秘めた想いを抱えたまま過ごした、忘れられない旅となった。




