第3章 第54話 あの日の私を越えて
――お蘭対鷲牙
お蘭は月影の簪――橙月華を構え、鷲牙を睨み据えた。
「おや、お蘭ちゃん」
鷲牙が懐かしそうに目を細める。
「元気にしてた?」
「私の名を呼ぶな」
低く押し殺した声が、わずかに震えていた。
鷲牙は肩をすくめ、ゆっくりと刀を抜いた。
「紗江ちゃんを、こっちへ連れてきてくれない? そうすれば、争わずに済むんだけどなぁ」
軽い口調とは裏腹に、その目には冷たい光が宿っている。
「ふざけるな!」
お蘭の瞳に怒りが燃え上がった。
「怖いなぁ。昔みたいに、もう少し優しくしてくれよ」
その言葉に、橙月華を握る手が震えた。
「あの時、お前は……」
忘れたくても忘れられない光景が、脳裏に蘇る。
――荒れ果てた小屋の中。
「大丈夫だよ、お蘭ちゃん。ここなら見つからないよ」
鷲牙はそう言って、優しく笑った。
あの里で初めて、自分を助けてくれる人に出会えたと思った。
だが、扉が開いた瞬間――そこに立っていたのは、里の頭だった。
「よくやった、鷲牙」
里の頭が醜く笑う。
「え……?」
お蘭は縋るように鷲牙を見た。
けれど鷲牙は何も言わなかった。
ただ目を逸らし、一人で小屋を出ていった。
「お前は、私を騙した」
目の前の鷲牙を見据え、お蘭は絞り出した。
「あの男と手を組んで、私を差し出した」
鷲牙の笑みが、わずかに歪む。
「……悪かった。でも、俺も命令に従うしかなかったんだ」
「言い訳をするな!」
お蘭が地を蹴った。
二人の刃が、月明かりの下で激しくぶつかる。
甲高い音が谷に響いた。
鷲牙が刃を滑らせ、お蘭の首筋を狙う。
お蘭は身を沈めてかわすと、そのまま懐へ踏み込んだ。
橙月華が、橙色の光を描く。
鷲牙が素早く身を引いた。
刃先が頬をかすめ、一筋の血が流れる。
鷲牙は指先で血を拭い、笑みを薄めた。
「……強くなったな、お蘭ちゃん」
「私の名を呼ぶなと言った!」
お蘭が再び斬りかかる。
鷲牙は刀で受けたが、その勢いに押され、後ろへ下がった。
「私は、お前を信じていた!」
受け流された刃を返し、お蘭は鷲牙の肩を切り裂く。
「お前だけは、私を助けてくれると思っていた!」
さらに一閃。
庇おうと上げた鷲牙の腕から、血が飛んだ。
「俺が逆らえば、二人とも殺されていた!」
鷲牙が怒声を上げ、刀を振り下ろす。
お蘭は橙月華で受け止めたが、重い一撃に押され、片膝をついた。
「俺だって生きたかったんだ! あの頃の俺に、頭に逆らう力なんてなかった!」
「そのために、私を犠牲にしたのか!」
お蘭は歯を食いしばって立ち上がり、刃を押し返した。
間合いが開いた瞬間、鷲牙の腹を蹴り飛ばす。
鷲牙が地面を転がった。
「お前は逃げたんだ!」
お蘭の叫びが、谷に響く。
「自分が助かるために私を差し出して、その後も何もなかったように笑って……!」
鷲牙が腹を押さえ、よろめきながら立ち上がる。
その顔から、軽薄な笑みは消えていた。
「……なら、どうすればよかった」
低い声が漏れた。
「お前を連れて逃げればよかったのか。二人で追われて、殺されればよかったのか!」
刀を握る手に、力がこもる。
「お前も忍びの里に生まれたんだから、分かるだろ!」
「それでも――」
お蘭は橙月華を強く握り締めた。
「それでも私は、お前に助けてほしかった!」
鷲牙の目が見開かれる。
「逃げようと、そう言ってほしかった……!」
最後の言葉が、かすれた。
怒りに押し込めてきた悲しみが、声になって溢れ出す。
「あの里で、お前だけは私の味方だと思っていた。たとえ逃げ切れなくても……お前だけは、私を見捨てないと思っていた!」
鷲牙は何も答えなかった。
遠くで刃のぶつかる音が響く。
それでも二人は、互いから目を逸らさなかった。
やがて鷲牙が、自嘲するように口元を歪めた。
「……そうだな」
刀を握る手が、わずかに震える。
「俺は、お前を裏切った」
長い間、聞きたかった言葉だった。
けれど、それだけで消える痛みではなかった。
「今さら認めても遅い!」
お蘭が地を蹴る。
橙月華が光をまとい、闇を切り裂いた。
鷲牙も刀を構え、正面から迎え撃つ。
二つの刃が激しくぶつかり、火花が散った。
「だからって、ここで殺されてやるつもりはない!」
鷲牙が力任せに刀を押し込む。
お蘭は足を踏ん張り、その刃を受け止めた。
刃越しに、二人の視線がぶつかる。
その時、周囲で戦う者たちの声が響いた。
鷲牙の目が、一瞬だけお蘭の背後へ動く。
そこには、互いを庇い、声を掛け合いながら戦う仲間たちがいた。
鷲牙の口元が、ふっと緩んだ。
いつもの、人を食った笑みではなかった。
だが、お蘭は動きを止めなかった。
刃を押し込む鷲牙の力が緩んだ、その一瞬。
身をひねり、鷲牙の刀を外へ流す。
鷲牙の刃が空を切った。
お蘭はその懐へ踏み込み、刃が深く入りすぎぬよう、橙月華を振り抜いた。
鮮血が、月夜に舞う。
鷲牙の手から刀が落ちた。
胸元を切り裂かれ、よろめきながら後ろへ下がる。
踏みとどまろうとした足が崩れ、片膝が地面についた。
「……見事だ」
鷲牙が、浅い息を吐く。
「本当に、強くなったな……」
お蘭は橙月華を向けたまま、鷲牙を見据えた。
「私はもう、あの頃の私ではない」
静かな声だった。
「私を信じ、守ってくれた者たちがいたから」
鷲牙はしばらくお蘭を見つめていた。
「そうか……」
血に濡れた手が、ゆっくりと懐へ入る。
「でも俺は、最後まで俺のやり方で生きるよ」
その指の間に、黒い小刃が現れた。
鷲牙が腕を振る。
お蘭は身を翻し、飛んできた小刃をかわした。
その隙に、鷲牙が地面へ落ちた刀に手を伸ばす。
だが――その指が柄へ届くよりも早く、橙月華の切っ先が喉元を捉えていた。
「これで、お前の負けだ」
鷲牙の動きが止まる。
切っ先を押し出せば、それで終わる。
あの日、自分を見捨てた男の命が、今はこの手の先にあった。
けれど、お蘭は動かなかった。
「……なぜ、殺さない」
鷲牙が苦しげに尋ねる。
「お前と同じ生き方を、私は選ばない」
お蘭は静かに答えた。
「私には、守るべき人がいる」
鷲牙は目を伏せた。
やがて、その口元にかすかな笑みが浮かぶ。
「……昔と変わらないな、お蘭ちゃん」
今度ばかりは、お蘭も名を呼ぶなとは言わなかった。
落ちた刀を足で遠ざけ、橙月華を下ろす。
許したわけではない。
失われた年月も、受けた傷も、消えることはない。
それでも、あの日と同じではなかった。
目を逸らした男を、ただ見送るしかなかった自分は、もういない。
その男を前にして、今度は自分で選べた。
胸の奥に刺さり続けていた何かが、ほんの少しだけほどけた。
「……悪かったな、お蘭」
鷲牙が小さく呟いた。
お蘭は答えなかった。
けれど、背を向けることもしなかった。
鷲牙は何かを言いかけ、唇を動かした。
声になる前に体が傾き、そのまま地面へ倒れ込む。
お蘭は膝をつき、その様子を確かめた。
胸元から血は流れていた。
だが、呼吸は途切れていなかった。




