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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第3章 第53話 姿なき敵を捉えて


――冥対蓮、隼人


瞬く間に、幾人もの冥が二人を取り囲んだ。

それでも蓮には、黒い霧の向こうにいる隼人の存在が、はっきりと感じられた。

瑠璃天糸鏡が、二人をつないでいる。


「……来たな」

蓮が翠水扇を構えた。


「蓮、気をつけろ。どれが本物か分からないぞ」

隼人も碧風鎖を構える。


次の瞬間、無数の冥が一斉に襲いかかってきた。


「同じ顔……キモっ」

「そんなことを言ってる場合か!」


蓮が翠水扇を振るう。

青白い水が壁となり、正面から迫る刃を受け止めた。

隼人も碧風鎖を振るい、背後から迫る冥を薙ぎ払う。

だが、鎖が触れた瞬間、その姿は煙のように消えた。


「また幻影かよ!」

「右から来る!」


蓮の声に、隼人が振り返る。

風をまとった鎖が、右手から迫る冥を弾き飛ばした。

しかし、その姿も黒い霧となって崩れていく。


「くそっ! どれが本物なんだ!」

隼人が周囲へ目を走らせる。


その背後へ、一つの影が音もなく滑り込んだ。

振り上げられた刃が、鈍く光る。


「隼人、後ろだ!」

蓮が翠水扇を振るった。

水の奔流が、隼人の背後へ襲いかかる。


冥は地を蹴り、身をひねってかわした。

着地するや、その姿が黒い霧へ紛れる。


隼人は蓮のそばへ退き、背中を合わせた。

「……今のは、本物か」

「ああ」


無数の冥が、再び二人を取り囲む。

どの顔にも、同じ冷ややかな笑みが浮かんでいた。


幻影なのか。

それとも、本物なのか。

目で追うほどに、分からなくなる。


そのとき、蓮の脳裏に、霞ノ郷での修行が蘇った。


目に映るものだけに惑わされるな。

姿ではなく、気配を捉えるのだ。


「そうだ……」

蓮が静かに目を閉じた。


「蓮! 何してるんだ!」

「隼人、少しだけ時間をくれ!」

「こんなときに無茶言うなよ!」


そう言いながらも、隼人は蓮の前へ踏み出した。

「分かった! お前には近づけさせない!」


碧風鎖が風をまとい、大きな円を描く。

押し寄せる幻影が、次々と引き裂かれていった。


鎖の唸る音を聞きながら、蓮は呼吸を整えた。

目の前の敵を、隼人に預ける。

そう決めると、乱れていた息が少しずつ静まっていった。


衣擦れ。

土を蹴る音。

霧をかき分ける、わずかな空気の揺れ。


幾つもの姿が動いているはずなのに、それに伴う気配はあまりにも少ない。

蓮は、さらに意識を研ぎ澄ませた。


その奥に、一つ。

息を潜めながらも、抑えきれぬ鋭さを帯びた気配があった。


隼人の左後方。

鎖の軌道をすり抜け、一筋の殺気が迫る。


「……そこだ!」


蓮が目を開いた。

振り返りざまに、翠水扇を振るう。

青白い水の刃が、何もないように見えた空間を切り裂いた。


「なに……!」


霧の中に冥の姿が浮かぶ。

水の刃が肩を掠め、黒装束を裂いた。


「隼人、左後ろだ!」

「了解!」


隼人が碧風鎖を放つ。

風をまとった鎖が、冥の身体へ迫った。

その直前、冥が身を沈める。

重なるように現れた幻影を、鎖が貫いた。


「また消えた!」


蓮は答えず、霧の向こうを見つめた。

地面に、水滴が落ちている。


一つ。

二つ。


濡れた土の染みが、何もない空間の下に続いていた。


「……そこにいる」

「え?」

「さっきの水だ。本物の身体から落ちている」


隼人も、地面へ目を落とした。

水滴が、また一つ弾ける。


「そうか……! 姿は隠せても、ついた水までは消せない!」

蓮が頷いた。


「隼人、もう少し広く鎖を回せるか」

「任せろ!」


碧風鎖が唸り、二人を囲む幻影を押し返す。

その内側で、蓮は翠水扇を開いた。


「なら――全部、濡らせばいい!」


扇の縁から、青白い光が溢れ出す。

大きく振り払うと、無数の水滴が霧雨となって広がった。


黒い霧の中を、細かな水が降り注ぐ。

幻影をすり抜けた水滴は、そのまま地面へ落ちた。


だが、一か所だけ。

何もないはずの空間で、水が弾けた。


頭。

肩。

刀を握る腕。


水滴がまとわりつき、人の輪郭を浮かび上がらせる。


「見えた! 右だ!」

「任せろ!」


隼人が碧風鎖を放った。

冥は舌打ちし、刀で鎖を弾く。

火花が散った。


だが、その足元へ、もう一本の鎖が伸びていた。

地面すれすれを這った鎖が、冥の足首へ絡みつく。


「捕まえた!」

隼人が腰を落とし、力いっぱい鎖を引いた。

冥の体勢が崩れる。


その隙を、蓮は見逃さなかった。

「これで終わりだ!」


翠水扇から放たれた水の奔流が、冥を直撃する。

「ぐっ……!」

冥の身体が地面へ叩きつけられた。


周囲にひしめいていた無数の幻影が、一斉に消える。

だが、谷全体を覆う黒い霧は、いまだ晴れていなかった。


隼人は鎖を緩めず、冥を見据えた。

蓮も翠水扇を構えたまま、その隣へ並ぶ。


冥は片膝をつき、肩を押さえていた。

指の間から血が滲み、濡れた黒装束へ広がっていく。


「……お前たち、やるな」

「もう、お前の幻影には惑わされないぜ」


隼人の言葉に、冥は二人を見上げた。

やがて、ほんのわずかに口元を緩める。


「だが……まだ甘い」


空いた手から、煙玉が落ちた。

足元で弾け、黒煙が噴き上がる。


「くっ……!」

煙をまともに浴びた隼人が、顔を背けた。

鎖がわずかに緩む。

その一瞬を、冥は逃さなかった。


「逃がすか!」

隼人は鎖を強く引いた。

だが、手応えがふっと軽くなる。

引き戻された鎖の先には、裂けた脚絆だけが絡んでいた。


「くそっ!」

隼人がもう一本の鎖を黒煙へ放つ。

鎖は空を切り、地面を叩いた。


黒煙が薄れたとき、そこに冥の姿はなかった。


「どこだ!」


蓮は、再び意識を研ぎ澄ませた。

頭上で、枝がかすかに軋む。


「上だ!」


崖際に張り出した木の枝に、黒い影が立っていた。

片手で肩を押さえた冥が、二人を見下ろしている。


「今回は、俺の負けだ」

その言葉に、隼人が鎖を握り直した。


「だったら、おとなしく降りてこいよ」

「次も同じように見破れると思うな」


冥は身を翻し、枝の向こうへ跳んだ。

黒い霧が揺れ、その姿を覆い隠す。


「逃げるのかよ!」

隼人の声に、霧の奥から返事があった。

「生きて帰るのも、忍びの務めだ」


声はそれきり、聞こえなくなった。


蓮はしばらく気配を探っていたが、やがて翠水扇を下ろした。

谷を覆っていた黒い霧も、少しずつ薄れ始めている。


「……行ったか」

隼人が大きく息を吐き、碧風鎖を手元へ戻した。

蓮もようやく、肩の力を抜く。


「……あいつ、負けを認めたよな」

「ああ」

「最後まで格好つけてたけどな」

蓮の口元が緩んだ。


「お前も、よくあんなときに目を閉じられたな」

「守ってくれるんだろう?」


隼人が一瞬、言葉に詰まる。

それから、照れ隠しのように笑った。

「……当たり前だろ」

蓮も笑った。


だが、二人とも得物を収めはしなかった。

薄れていく霧の向こうへ、並んで目を向ける。


仲間たちの戦いは、まだ続いていた。

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