第3章 第52話 信じて預ける背中
――翌日、滝見の谷。
暮れ六つ。
西の空に、燃えるような夕陽が沈みかけていた。
三方を切り立った崖に囲まれた谷は、不気味なほど静まり返っている。
鳥の声も、虫の音もない。
ただ、谷の奥から届く滝の響きだけが、低く辺りを満たしていた。
谷の中央には、葵、蒼馬、蓮、隼人、無刃、そしてお蘭が立っていた。
葵を狙う夜鴉を誘い込むため、あえて身を隠さずにいる。
その様子を、崖の上から松雲が見下ろしていた。
目の前には護摩壇が据えられ、その周囲には幾重にも札が配されている。
紗江は、護摩壇の後ろに敷かれた陣の中で、瑠璃天糸鏡を胸元に抱えていた。
眼下に立つ仲間たちの姿を、一人ずつ確かめる。
鏡を抱く腕に、知らず力がこもった。
やがて、谷の入口に黒い影が現れた。
一人、また一人。
崖沿いの細道からも、黒装束に身を包んだ者たちが姿を見せる。
その数は瞬く間に増え、二百人ほどの夜鴉が谷へ押し寄せてきた。
先頭の一人が、葵の姿を認める。
「いたぞ!」
その声を合図に、黒い影が次々と谷へ流れ込んだ。
葵たちは動かない。
一人、十人、百人――。
葵は紫皇刀の柄に手を添え、迫る敵を見据えていた。
傍らでは、蒼馬が谷の入口へ鋭い視線を走らせている。
夜鴉たちが十分に入り込んだ、そのとき。
「今じゃ!」
松雲が護摩壇の前で印を結んだ。
「天地玄妙の気をもって、この谷を封ず――」
無数の札が、一斉に光を放つ。
淡い光が崖から崖へと駆け巡り、谷の入口を塞いだ。
さらに頭上へ広がった光が、巨大な結界となって滝見の谷を包み込む。
後方の夜鴉が振り返った。
退路を塞ぐ光を前に、一瞬、足が止まる。
「……来るぞ」
無刃が焔哭の双刃を抜いた。
次の瞬間、夜鴉の群れが四方へ散り、葵たちへ襲いかかってきた。
「気を抜くな!」
蒼馬の声が谷に響く。
葵が紫皇刀を抜いた。
漆黒の刀身に浮かぶ紫色の光が、沈みゆく夕陽の中で鮮やかに揺れる。
一人の夜鴉が低く身を沈め、葵へ斬りかかった。
「葵様!」
崖の上から紗江の声が飛ぶ。
「させるか!」
蓮が翠水扇を開いた。
扇から溢れ出した青白い水が、瞬く間に葵の前で立ち上がる。
振り下ろされた刃は、水の壁に阻まれた。
「助かった、蓮!」
「礼を言うのは、まだ早いですよ」
蓮が翠水扇を振り抜く。
水の壁が大きくうねり、押し寄せてきた夜鴉たちをまとめて弾き飛ばした。
「こんなところで、やられないでくださいね」
「やられるはずがなかろう!」
葵が一歩踏み込み、紫皇刀を一閃させる。
紫色の衝撃が地を走り、目前に迫っていた夜鴉たちを吹き飛ばした。
その横で、蒼馬が黄雷槍を繰り出す。
谷に雷鳴が轟いた。
穂先から迸った青白い稲妻が、敵の足を止める。
「隼人!」
「任せろ!」
隼人が地を蹴り、碧風鎖を放った。
風をまとった鎖が敵の間をすり抜け、幾人もの腕や胴へ絡みつく。
「隙だらけだぜ!」
隼人が腰を落とし、一息に鎖を引いた。
体勢を崩した夜鴉たちが折り重なるように地面へ倒れる。
だが、その背後から新たな刃が迫っていた。
「隼人、後ろ!」
お蘭が月影の簪・橙月華を抜き放つ。
細い月光のような軌跡が、隼人の肩越しを走った。
澄んだ音とともに、夜鴉の手から刀が弾け飛ぶ。
「助かった!」
隼人の声に、お蘭が口元を緩めた。
夜鴉がひるんだ隙に橙月華を拾い上げ、すぐに次の敵へ向き直る。
「礼は後。また来ますよ!」
その言葉に重なるように、別の方角から炎が噴き上がった。
夜鴉の放った火遁が、葵たちへ迫る。
無刃が前へ出た。
焔哭の双刃を交差させると、刃から紅蓮の炎が立ち上る。
その中心に、炎さえ喰らう漆黒の渦が開いた。
押し寄せた火遁が渦へ引き込まれ、消えていく。
「今だ、蓮!」
「分かった!」
蓮の扇から放たれた水の奔流が、敵陣を押し崩した。
開いた隙間へ、隼人の碧風鎖が走る。
逃れようとした夜鴉の足を鎖が絡め取り、その間を蒼馬が駆け抜けた。
黄雷槍が一閃するたび、青白い稲妻が薄闇を裂く。
蒼馬の背後へ回り込もうとした敵は、葵の一撃に退けられた。
誰かが作った隙を、別の誰かが繋いでいく。
仲間の背後へ刃が迫れば、すぐに別の者がそれを防ぐ。
無刃は双刃を振るいながら、その動きを目にしていた。
夜鴉にいたころは、背後を他人に預けたことなどなかった。
敵を斬り伏せても、次の刃がどこから来るか分からない。
生き残るために、いつも一人で周囲を見張っていた。
「無刃、右は任せろ!」
隼人の声が飛ぶ。
無刃は振り返りかけ、そのまま前の敵へ踏み込んだ。
背後で鎖の鳴る音がした。
それだけで、十分だった。
そのとき――谷を満たす気配が変わった。
襲いかかっていた夜鴉たちが足を止めた。
谷へ入り込んだ夜鴉たちが左右へ退くと、その後方に、三つの黒い影が現れた。
黒羽――鷲牙、朧火、冥。
「来たか……」
蒼馬が黄雷槍を構え直す。
中央に立つ妖艶な女、朧火が、ゆっくりと仲間たちを見渡した。
「久しぶりね……みんな」
艶を含んだ声が、暮れゆく谷に響く。
その隣で、鷲牙が軽く首を傾けた。
「派手にやってくれたねえ」
口元には笑みが浮かんでいる。
だが、その目はまったく笑っていなかった。
反対側では、冥が無言のまま刀を構えていた。
冷たい視線が、葵たちの間を静かに巡る。
そして、三人の後ろから、もう一人の男が進み出た。
玄斎だった。
「葵……」
低い声が谷を這う。
その目には、もはや隠そうともしない執着が宿っていた。
倒れた夜鴉にも、立ちはだかる者たちにも目をくれず、ただ葵だけを見つめている。
無刃が焔哭の双刃を握り直した。
「朧火……鷲牙……冥……」
朧火の視線が、無刃の手元へ落ちる。
次いで、その顔を見据えた。
「裏切り者」
鷲牙が軽やかに一歩前へ出た。
「元気にしてた、無刃?」
無刃は答えない。
「そろそろ、夜鴉に戻りたくなったんじゃないの?」
隣に立つ仲間の気配を感じながら、無刃は静かに口を開いた。
「戻らない」
迷いのない声だった。
「そう」
朧火の笑みが消えた。
「なら、殺すしかないわね」
鷲牙が肩をすくめる。
「無刃は朧火に任せるよ。俺は、別の相手に用があるから」
その視線が、崖の上へ向けられた。
松雲の陣に守られている紗江を捉え、薄く笑う。
お蘭は、その目の動きを見逃さなかった。
「……紗江様を」
橙月華を握る手に、力がこもる。
一方、玄斎はゆっくりと葵へ近づいていた。
蒼馬がその前へ出て、黄雷槍を構える。
「葵様、私たちより前へ出ないでください」
「蒼馬……」
「必ず、あなたを守ります」
蒼馬の隣に、蓮と隼人が並んだ。
葵は三人の背を見つめ、紫皇刀を握り直す。
「分かった。だが、無茶はするな」
玄斎が愉快そうに笑った。
「面白い……」
腰の刀を抜き、その切っ先を葵へ向ける。
「だが、葵はいただく」
玄斎が地を蹴った。
同時に、冥が片手で印を結ぶ。
「冥幻」
黒い霧が地面から湧き上がった。
足元を覆い、膝を越え、瞬く間に仲間たちの姿を呑み込んでいく。
「散るな!」
蒼馬の声がした。
葵は声のした方へ手を伸ばす。
だが、すぐ目の前にいたはずの背中は、すでに見えなかった。
「蒼馬!」
返事はない。
霧の向こうで、刃の打ち合う音だけが響いた。
崖の上で、紗江が息を呑む。
仲間たちのいた場所が、黒く塗り潰されていく。
葵の姿も、もう見えない。
瑠璃天糸鏡を、両手で強く握りしめた。
「お願い……みんなを、つないで」
鏡の表面に、淡い光が灯った。
そこから伸びた細い光の糸が、黒い霧の中へ降りていく。
葵へ。
蒼馬へ。
蓮へ、隼人へ、無刃へ、お蘭へ。
紗江の目に、離れた仲間たちを結ぶ光が映った。
霧に隠されても、その糸だけは途切れない。
「……見える」
紗江は鏡を胸元へ引き寄せた。
「みんな、そこにいる……」
谷底では、隼人が碧風鎖を構え、周囲を見回していた。
「何だ、この霧は……!」
黒い影が、霧の中から現れる。
十人、二十人。
その背後にも、さらに幾重もの影が揺れていた。
「数が増えた!」
蓮の声が響く。
「惑わされるな!」
無刃が叫んだ。
「大半は冥が生み出した幻影だ!」
隼人が目前の影へ鎖を放つ。
手応えはなく、黒装束の姿が霧のように崩れた。
その奥から、本物の刃が突き出される。
「っ!」
身をひねってかわす。
頬をかすめた冷たさに、隼人は歯を食いしばった。
幻影の中に、本物の夜鴉が紛れ込んでいる。
一瞬の見誤りが、命取りになりかねなかった。
鷲牙が崖の上を仰いだ。
鏡を握りしめ、霧の中を目で追う紗江の姿に、目を細める。
「へえ……あの鏡か」
「やっぱり、紗江ちゃんを捕まえないとね」
黒い影が、崖へ向かって駆け出した。
鷲牙だった。
岩壁を蹴り、わずかな足場を渡りながら、紗江のいる陣へ迫っていく。
「紗江様!」
お蘭が霧を抜け、橙月華を放った。
月光のような軌跡が鷲牙を追い越し、次に足をかけようとした岩を砕く。
鷲牙は宙で身をひねった。
崖を蹴って飛び退き、谷底へ降り立つ。
お蘭は砕けた岩のそばへ駆け寄り、橙月華を拾い上げた。
そのまま崖を背に、鷲牙の前へ立ちはだかる。
「紗江様には、指一本触れさせない」
鷲牙が目を細める。
「やっぱり君が来るんだね、お蘭ちゃん」
「その呼び方をするな」
お蘭の声が低くなった。
鷲牙は口元に笑みを浮かべたまま、ゆっくりと刀を抜く。
その刃先を見据え、お蘭も橙月華を構え直した。
「紗江!」
無刃も崖へ向かおうとした。
だが、踏み出した足元に、紫色の粉が散る。
「くっ……!」
毒煙が噴き上がった。
無刃は息を止め、焔哭の双刃を振るう。
紅蓮の炎が紫の煙を巻き込み、焼き払った。
晴れた視界の先に、朧火が立っていた。
「戦いの最中に、よそ見なんて」
妖艶な笑みを浮かべ、首を傾ける。
「随分な余裕ね、無刃」
「退け、朧火」
「嫌よ」
朧火が両手に短刀を抜いた。
その刃が、残り火を受けて鈍く光る。
「よそ見したことを、後悔させてあげる」
無刃は崖の方へ一瞬だけ目を向けた。
お蘭が、鷲牙の前に立っている。
追おうとしていた足を止めた。
双刃を構え、朧火へ向き直る。
「……なら、押し通る」
黒い霧の向こうで、雷鳴が轟いた。
お蘭の簪が、鷲牙の刀を弾く。
朧火の笑みが深まった。
次の瞬間、二振りの短刀が無刃へ襲いかかった。




