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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第3章 第51話 己の道を選ぶ

――翌朝


葵と紗江は、江戸の町を並んで歩いていた。

往来には商人の呼び声が飛び交い、人々の足音が賑やかに重なっている。


その二人の後ろを、黒い着物姿の男たちがついてきていた。

近すぎず、遠すぎず。こちらが立ち止まれば立ち止まり、歩き出せば何事もなかったかのようについてくる。

店先を覗けば、男たちも足を緩める。けれど、品物に目を向ける者は一人もいない。


まさしく、影のようだった。


「……すまない、紗江」

葵が前を向いたまま、小声で呟いた。

「これでは落ち着かぬだろう」


紗江も後ろを振り返らず、声を潜める。

「夜鴉に監視されていた頃に比べれば、何ということはありません」


「比べる相手が悪すぎる」

葵が思わず苦笑する。


「それに、今度の方々は命を狙っているわけではないのでしょう?」

「今のところはな」

「でしたら、少し安心です」

「私は少しも安心できぬ。昨日から、屋敷の中でも外でも、片時も目を離そうとせぬ」


葵がわずかに後ろへ目を向けると、男たちは即座に視線を逸らした。

一人は軒先を見上げ、もう一人は往来へ目をやる。その不自然さに、葵は小さく息を吐いた。


「……紗江」

「はい」

「次の角を曲がったら、走るぞ」


紗江が驚いて、葵の横顔を見る。

「護衛の方々を撒くのですか?」

「ああ」


葵の口元に、いたずらを思いついた少年のような笑みが浮かんだ。

紗江もつられるように微笑む。

「それは……楽しそうですね」


二人は何食わぬ顔で歩き続けた。

そして、次の角を曲がった瞬間――顔を見合わせ、一斉に駆け出した。


「葵様!」

「お待ちくだされ!」


背後から、慌てた声が飛んでくる。

だが、二人は止まらない。


荷車の脇をすり抜け、細い路地へ飛び込む。葵が振り返り、遅れかけた紗江へ手を差し伸べた。

紗江はその手を取り、笑いをこらえながら足を速めた。


幾つもの角を曲がり、表通りの喧騒が遠のいたところで、ようやく足を止める。

紗江は壁に手をつき、弾む息を整えた。

「……撒けましたね」


「ああ」

葵も息を整えながら、来た道を覗き込む。

黒い着物の男たちの姿は、どこにも見えなかった。


二人は顔を見合わせ――同時に笑い出した。


「まったく……何をしているのでしょう、私たち」

「たまにはよいだろう」

葵は晴れやかに笑った。

「久しぶりに、自由になれた気がする」


その言葉に、紗江はそっと葵を見つめた。

今の葵は、誰かにその行く末を案じられる若者でも、素性を探られる者でもなかった。ただ、気の合う相手と町へ出て、他愛もないことで笑っている。


こんな時間を、もっと過ごせたらいい。


紗江は弾んでいた息をひとつ整え、微笑んだ。

「では、見つかるまで町歩きを楽しみましょう」

「ああ。そうしよう」


路地の先には、朝の光に満ちた通りが見えた。

今度はどちらへ行こうかと、二人は顔を見合わせた。



――同じ頃、江戸城。


柳沢吉保は、静かな廊下を歩いていた。

先日、松雲から聞かされた話を、いつまでも己の胸の内だけに収めておくわけにはいかなかった。


葵は、本当に徳川の血を引いているのか。

その証しとなるものはあるのか。

そして――綱吉にもしものことがあったとき、その存在が何をもたらすのか。


確かめねばならぬことは、あまりにも多い。


「柳沢殿」


背後から声をかけられ、柳沢は足を止めた。

振り返ると、廊下の向こうに阿部正武が立っていた。


「阿部殿。いかがなされた」

「それはこちらの台詞よ」

阿部はゆっくりと歩み寄り、柳沢を見据えた。

「お主こそ、何用だ。上様へのお目通りか?」


柳沢は静かに頷いた。

「ええ。少々、重要な案件がございまして」


「……重要な案件、か」

阿部の目が細くなる。


このところ、柳沢配下の者たちが慌ただしく動いていた。桂昌院が庇護する若者の屋敷には、腕の立つ者まで送り込まれたという。

以前から城内では、その若者の素性について、さまざまな憶測が飛び交っていた。

柳沢が何の思惑もなく、護衛をつけるはずがない。


阿部は周囲に人影がないことを確かめ、声を潜めた。

「あの若者の素性について、何か分かったのではあるまいな」


柳沢は、わずかに首を傾けた。

「さて、何のことでございましょう」


「とぼけるな。お主が人を動かしていることを、知らぬとでも思うたか」


柳沢は答えなかった。

阿部は、その沈黙を探るように見つめた。

「桂昌院様があれほど目をかけておられる若者だ。ただの者ではあるまい。お主も、そう踏んでいたのであろう」


廊下の奥で、かすかに衣擦れの音がした。

二人は口を閉ざし、音が遠ざかるのを待った。


やがて、阿部がさらに声を落とした。

「柳沢殿。あの若者は――何者なのだ」


柳沢はしばらく阿部を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。

「今はまだ、何も申し上げることはできませぬ」


「上様には申し上げられても、儂には明かせぬと?」

「確かならぬことを、軽々しく口にはできぬということでございます」


阿部の表情が険しくなる。

柳沢は、その視線を受け止めたまま続けた。

「ただ――あの御方のお命は、何としてもお守りせねばなりませぬ」


阿部の眉が、わずかに動いた。

「あの御方、か」


柳沢は口を閉ざした。

呼び方ひとつで、すでに多くを伝えてしまった。それを承知の上で、阿部から目を逸らさなかった。


「……それほどの御方だというのだな」

「それ以上は、申し上げられませぬ」


二人の間に、張り詰めた沈黙が落ちた。

やがて柳沢は静かに一礼し、奥へ向かって歩き出した。


阿部は、遠ざかる背中をじっと見つめていた。

柳沢は、何かを掴んでいる。

しかも、己に先んじて上様へ伝えようとしている。


(柳沢……お主、あの若者をどうするつもりだ)


その背中が廊下の角へ消えても、阿部はしばらく動かなかった。



――三日後、澄月庵。


夜も更けたころ。

葵、蒼馬、蓮、隼人、無刃、お蘭、そして紗江は、松雲の呼びかけで広間へ集まっていた。


中央に置かれた大きな水晶に、夜の山道が映っている。

木々の間を、黒い影が次々と通り過ぎていく。

松雲が指先を動かすと、別の山道へ景色が移った。そこにもまた、同じ姿の者たちがいた。


北から、南から。

街道を避け、山々を縫うように江戸へ近づいている。


誰も口を開かなかった。


松雲が手をかざし、水晶の景色を消した。

「各地の夜鴉が、江戸近郊へ集まりつつある。玄斎が招集をかけたようだ」


蒼馬の目が鋭くなる。

「……狙いは、葵様ですか」

「ああ。柳沢が葵の出自を探り、身辺に人を置き始めた。玄斎も、その動きを察したのであろう」


松雲は葵へ目を向けた。

「柳沢に囲い込まれる前に、お主を鴉主に据えるつもりじゃ」


「どちらにも渡さない」

蓮が低く告げた。

隼人も力強く頷く。

「葵様は、これからも俺たちと一緒だ」


葵は皆の顔を見渡した。

誰も、その目を逸らさなかった。

「……ああ。私も、皆と一緒にいたい」


松雲は頷き、一枚の地図を広げた。

「ゆえに、先に迎え撃つ場所を定める。町や屋敷へ押し寄せてからでは、守りきれぬものが多すぎる」


描かれているのは、三方を険しい崖に囲まれた滝見の谷だった。

松雲の指が、谷へ続く細い道を辿る。

「ここならば、数を頼みに一度に攻め込むことはできぬ。夜鴉を谷へ引き入れ、動きを封じる」


「どうやって誘い出す?」

隼人が地図を覗き込んだ。


「葵が明日の暮れ六つ、柳沢の目を逃れるため、わずかな供だけを連れて谷へ入る。そのような偽の知らせを、すでに流してある」


蒼馬が地図を見据える。

「護衛を嫌っているのは、向こうも知っているはずです。葵様を奪う好機と見れば、玄斎も動くでしょう」


「だが、何人来るかは分からぬ」

無刃が口を開いた。

「集まっている夜鴉は、およそ二百。全てを差し向けてくるつもりで備えた方がよい」


広間の空気が、いっそう重くなった。

無刃は地図から顔を上げる。

「中でも警戒すべきは、玄斎直属の黒羽――鷲牙、朧火、冥だ」


「鷲牙は、私が止めます」

お蘭が迷いなく告げた。


蒼馬が彼女を見る。

「……お前のいた里の者だったな」

「はい。軽口を叩きながら懐へ入り、気づかぬうちに相手の心を乱す男です」


お蘭の声には、かすかな硬さがあった。

「こちらの迷いを見つければ、必ずそこを突いてきます。あの男の言葉に、耳を貸さないでください」


蒼馬は短く頷いた。

「分かった。鷲牙は任せる。だが、一人で追いすぎるな」

「承知しました」


無刃が続ける。

「朧火は、私が止める。毒が谷へ広がったときは、蓮と隼人で抑えてくれ」


「分かった」

蓮が答え、隼人も頷く。


「冥の幻には、皆が備えねばならぬ。姿が見えているからといって、味方とは限らない」

無刃は一同を見渡した。

「一人で深追いするな。互いの位置を確かめ、誰かが崩れたら、次の者が支える」


「誰かが隙を作れば、次の者が繋ぐ」

蓮が静かに言った。

「いつも通りだな」

隼人の言葉に、皆が頷いた。


そのとき、紗江が遠慮がちに手を挙げた。

「あの……私は、どこにいればよろしいでしょうか?」


一同の視線が集まった。

「紗江、お前も行くつもりなのか?」

隼人が目を丸くする。

「はい」


「駄目だ。お前は行かぬ」

葵が即座に言った。

「二百もの夜鴉を相手にするのだ。お前を連れてはいけぬ」


「そうです、紗江様。夜鴉は、私たちが必ず食い止めますから」

お蘭も穏やかに言い添えた。

「俺たちに任せておけば大丈夫だって」

隼人が明るく笑う。


紗江は膝の上で、そっと手を握った。

「皆さんが心配してくださっていることは、分かっています」

一人ひとりの顔を見つめ、言葉を続ける。

「戦う力がないことも、分かっています。それでも、私にできることがあるのなら、させてください」


「紗江」

「守っていただくだけで終わりたくないのです。私も、皆さんが帰ってくるための力になりたい」


葵は何かを言いかけ、口を閉ざした。

その沈黙を、松雲が破った。

「紗江にも、来てもらう」


「松雲様!」

葵が声を上げた。


松雲は片手を上げ、一同を静める。その視線が、紗江の傍らにある瑠璃天糸鏡へ向けられた。

「瑠璃天糸鏡は、隔てられたものをつなぐ鏡じゃ」


紗江も鏡へ目を落とした。

「大勢を相手にすれば、戦いの中で引き離される者も出よう。まして冥が幻を使えば、互いの姿も、声のする方角さえも見失いかねぬ」


松雲は、先ほどの無刃の言葉を受けるように、一同を見渡した。

「支え合おうにも、仲間を見つけられねば手は届かぬ。その時、お主たちをつなぎ止める力が必要になる」


「それが……私と、この鏡なのですね」

紗江の問いに、松雲は頷いた。

「そうじゃ。ただし、前へ出て戦ってもらうのではない。儂の陣に留まり、必要な時に鏡の力を貸してもらう」


「それでも、役目を知られれば、真っ先に狙われます」

蒼馬が険しい顔をする。

「承知しておる。紗江は儂の傍らから離さぬ。鏡を使う時も、儂が見極める」


葵は黙ったまま、紗江を見つめた。

紗江も、その目を真っ直ぐに見返す。


やがて葵は、深く息を吐いた。

「……必ず、松雲様のお傍にいろ。何があっても、一人で陣を出るな」

「はい。お約束します」


紗江が頷くと、葵は松雲へ向き直った。

「松雲様。紗江のこと、お願いいたします」

「任せよ」


松雲は静かに答え、再び地図へ目を落とした。

「儂は崖の上に陣を敷く。夜鴉を谷へ引き入れたのち、結界を張り、戦いが外へ広がるのを防ぐ」


その指が、地図に描かれた谷を囲んだ。

「ただし、結界を保つ間、儂は容易には動けぬ。谷の中は、お主たちに任せることになる」


葵が頷き、蒼馬たちもそれに続いた。

松雲は一同の顔をゆっくりと見渡した。

「決戦は、明日の暮れ六つ。それまでに各々、支度を整えておけ」


誰からともなく、深く頷いた。


障子を透かす月明かりの中、葵は地図に描かれた滝見の谷を見据えた。

三方を崖に囲まれた、狭い谷。

明日は、そこへ自ら赴く。


ふと、紗江と駆け抜けた路地が胸をよぎった。息を切らし、顔を見合わせて笑った、あのひととき。


ああして笑うために、誰かの目を盗まねばならない。

そんな日々を、この先も続けるつもりはなかった。


玄斎が求める鴉主も、柳沢が重んじる徳川の血も、自分の全てではない。


葵は地図から顔を上げた。

傍らには、共に生きたいと願う者たちがいる。

滝見の谷へ向かうのは、その者たちと帰ってくるためだ。


己の道は、己で選ぶ。

そのための明日を、今度こそ、この手で掴む。

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