第3章 第50話 誰の駒にもならぬ
――澄月庵、道場
翌朝、葵は道場で日課の素振りをしていた。
鋭く振り下ろされる木刀が、朝の冷えた空気を切る。
幾度となく繰り返すうち、額には汗が滲み、呼吸も次第に深くなっていった。
「葵様」
背後から声をかけられ、葵は木刀を止めた。
肩越しに振り返ると、入り口に蒼馬が立っていた。いつになく、その表情が硬い。
「蒼馬か。どうした」
蒼馬は道場へ入り、葵の前で片膝をついた。
「昨夜、松雲様が夜更けにお一人で澄月庵を出られました」
「松雲様が?」
「はい。ただならぬことかと存じ、あとを追いました」
葵は黙って、先を促した。
「松雲様が向かわれたのは、柳沢様のお屋敷にございます」
葵の眉が、わずかに動いた。
「柳沢の屋敷へ……?」
「はい。お入りになったのを確かめ、書院の近くへ潜みました。そして……お二人のお話を聞きました」
そこで、蒼馬の言葉が途切れた。
葵は木刀を握ったまま、静かに問うた。
「何を聞いた」
蒼馬は一度視線を落とし、答えた。
「……葵様が、この時代の御方ではないこと。そして、徳川の血を引く御方やもしれぬと」
木刀の先が、わずかに下がった。
葵はしばらく動かなかった。やがて、短く息を吐く。
「そうか」
「松雲様が、柳沢様へお話しされた理由ですが……」
葵は木刀を壁際へ立てかけた。
「私の命を守るため……だろう」
「はい。柳沢様が、これ以上葵様のお命を狙うことのないようにと」
葵は、木刀から手を離した。
「柳沢様は、すでに命を下しておられます。夜鴉には葵様への手出しを禁じ、夜が明け次第、別の者を護衛として澄月庵へ向かわせると」
「私には、お前たちがいる。余計な護衛など必要ない」
そう言いながらも、葵には分かっていた。
松雲が、何を守ろうとしたのか。
「しかし……松雲様らしいな」
「はい」
蒼馬は静かに頷いた。
しばらくして、葵は蒼馬へ目を向けた。
「……驚かせたな」
「いえ」
「黙っていて、すまなかった」
「葵様がお詫びになることではございません」
その返事を聞いても、葵はすぐには言葉を継げなかった。
「昨夜聞いたことは、お前の胸だけに収めておいてほしい」
「……」
「私は、皆と今までどおりでいたい」
蓮や隼人、お蘭の顔が浮かんだ。
くだらぬことで笑い、時には言い合い、同じ膳を囲む。
これまで当たり前にあった日々を、失いたくなかった。
「このことを知れば、皆は私を見る目を変えるかもしれない」
「そのようなことは――」
「分かっている。皆を信じていないわけではない」
葵は穏やかに首を振った。
「だが、今はまだ、何も変えたくないのだ」
「……承知いたしました」
蒼馬は深く頭を下げた。
葵はその姿を見つめ、ためらうように口を開いた。
「蒼馬」
「はい」
「お前も、今までどおりでいてくれるか」
蒼馬が顔を上げた。
葵は、その返事を待っていた。木刀を握っていた手が、知らず、衣の膝を掴んでいる。
蒼馬は真っ直ぐに葵を見つめた。
「無論でございます」
「……」
「葵様がどなたの血を引いておられようと、私にとっては昨日までと何一つ変わりませぬ」
蒼馬は、改めて頭を下げた。
「私がお仕えしているのは、徳川の御血筋ではなく、目の前におられる葵様です」
衣を掴んでいた指が、ゆっくりとほどけた。
「……そうか」
「はい」
「ありがとう、蒼馬」
葵の口元に、ようやく小さな笑みが戻った。
そのとき、障子の向こうからお絹の声がした。
「葵様。お客様がお見えでございます」
「客?」
葵と蒼馬が顔を見合わせる。
「……もう来たか」
葵は小さく息を吐いた。
「行くぞ、蒼馬」
「はい」
二人は連れ立って道場を出た。
――座敷
座敷には、見知らぬ男が二人、姿勢を正して座っていた。
ともに黒い着物を身につけ、傍らには刀を置いている。
葵たちが入っても、その姿勢は少しも崩れなかった。
葵が上座へ腰を下ろすと、蒼馬はその傍らに控えた。
「……どちら様だ」
男の一人が、深く頭を下げた。
「突然の訪い、失礼仕ります。我らは柳沢様の命により、参上いたしました」
「柳沢の……」
葵の眉間に皺が寄る。
「葵様のお身をお守りするよう、仰せつかっております」
「私を守る?」
「はい」
「その必要はありません。葵様にはすでに、私たちがおります」
蒼馬がきっぱりと告げた。
男はそこで初めて、蒼馬へ顔を向けた。
「……忍びか」
その声音に、葵の目が細くなる。
「いかに腕が立とうと、忍びにお任せできる御身ではない」
「これまで葵様のお命をお守りしてきたのは、その忍びにございます」
蒼馬の声は静かだった。
男も視線を逸らさず、言葉を返した。
「されど、柳沢様のご命令にございます」
男は声を落とした。
「葵様は、将軍家の血を引く御方やもしれませぬ。万一のことがあってはならぬゆえ、必ずお守りせよとの仰せでございます」
葵は、膝の上で指を曲げた。
今朝、蒼馬に胸の内へ収めてほしいと頼んだことが、もう他人の口から語られている。
「……その話を、ここで軽々しく口にするな」
男の表情が、わずかに強張った。
「失礼いたしました」
「蒼馬、よい」
「……しかし」
「よい」
葵は蒼馬を制し、男たちへ向き直った。
「柳沢様の命であることは分かった。だが、私にはすでに腕の立つ護衛がいる。それでも、そなたたちはここに留まるというのか」
「はい。それが柳沢様の仰せにございます」
葵は二人を見据えた。
守るため。
確かに、それも嘘ではないのだろう。
だが、命を狙うのをやめた途端、今度は護衛を送り込んできた。
どこへ行き、誰と会い、何を話すのか。
この者たちの目を通して、柳沢はそれを知ることになる。
「今後、我らは常に葵様のおそばに控えさせていただきます」
「常に、か」
「はい。影のごとく、葵様をお守りいたします」
葵は答えなかった。
ここで追い返せば、柳沢は別の手を打つだろう。
松雲が自分の命を守ろうとした、その手立てまで損なうことになるかもしれない。
長い沈黙の末、葵は口を開いた。
「……分かった」
傍らで、蒼馬がわずかに身じろぎした。
男たちは、そろって頭を下げる。
「ただし、私の暮らしを妨げることは許さぬ」
葵は二人を静かに見据えた。
「私はこれまでどおりに過ごす。どこへ出向こうと、誰と会おうと、口を挟むな。それから、私の素性に関わる話を、ほかの者へ漏らすことも許さぬ」
「御意」
男たちは再び、深く頭を下げた。
その恭しい姿を見ても、葵の胸は晴れなかった。
自分の暮らす場所で、これまで必要のなかった条件を、一つずつ言い渡さねばならなかった。
――その夜
葵は縁側に一人で座り、庭を眺めながら酒を飲んでいた。
夜風が頬を撫で、草木の葉をかすかに揺らしている。
いつもと変わらぬ澄月庵の夜だった。
それなのに、ふと人の気配を探してしまう。
庭の向こうか、廊下の奥か。柳沢の差し向けた者たちは、今もどこかに控えているのだろう。
葵は口元へ運びかけた盃を下ろした。
「葵」
振り返ると、松雲が立っていた。
「松雲様」
松雲は葵の隣へ腰を下ろした。
二人の間を、夜風が通り過ぎる。
やがて松雲は、庭へ目を向けたまま口を開いた。
「葵……すまぬ」
葵は、手元の盃へ視線を戻した。
「蒼馬から聞きました。昨夜、松雲様のあとを追い、柳沢邸でのお話を聞いたそうです」
「やはり、あの気配は蒼馬であったか」
「気づいておられたのですね」
「あれほど近くまで来られてはな」
松雲は短く息をついた。
「お主には、儂から話すべきであった」
「私の命を守るためだったのですね」
「ああ」
松雲の声が低く沈んだ。
「お主の膳に毒が混ぜられたこともある。人けのない場所で襲われたこともあった。いずれも蒼馬たちが防いでくれた。だが、この先も必ず防げるとは限らぬ」
「だから、私の素性を……」
「徳川の血を引く可能性があると知れば、柳沢も軽々しくお主の命を奪うことはできぬ」
松雲は、膝の上の手を握った。
「秘密を守り通したところで、お主を失っては……何の意味もない」
葵は松雲の横顔を見つめた。
いつもなら迷いなく言葉を紡ぐ人が、今は、庭の闇を見据えたまま黙っていた。
「ですが、柳沢は守るだけでは済ませぬでしょう」
「ああ。お主を囲い、その動きを己の掌中に置こうとしている」
「それも、承知の上で?」
「……ああ」
松雲が、葵へ顔を向けた。
「命さえあれば抗うことができる。生きてさえいれば、お主自身の手で道を選ぶこともできる」
葵は、盃の中で揺れる月を見つめた。
今日一日、胸にわだかまっていたものが、すべて消えたわけではなかった。
それでも、松雲がどのような思いで柳沢のもとへ向かったのかは、痛いほど伝わってきた。
「……分かりました。松雲様のご判断を、私は受け入れます」
「葵」
「私に生きていてほしいと、そう思ってくださったのでしょう」
松雲の唇が、わずかに動いた。
だが、言葉にはならなかった。
葵は盃を縁側へ置いた。
「ただ、これからは、私にもお話しください。私自身のことですから」
松雲はしばらく葵を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな。約束しよう」
その返事に、葵は小さく頷き返した。
そして、庭の闇へ目を向ける。
「どれほど厳重に囲われようと、私の心まで縛ることはできません」
徳川の血を引く者。
将軍家に連なる者。
次代の政に利用できる者――。
今日訪ねてきた男たちには、葵がどのように生きてきたかなど、関わりのないことだった。
その血筋だけで、そばにいる蒼馬よりも、自分たちこそが守るにふさわしいと言った。
葵は、膝の上で握っていた拳を開いた。
「私がどう生きるかは、私自身が決めます」
松雲は何も言わず、葵の横顔を見つめていた。
「柳沢が、俺を己の思うままに動かせると思っているのなら――」
葵の声から、敬語が抜け落ちた。
「それは思い違いだ。俺は、誰の駒にもなるつもりはない」
静かな声だった。
松雲はその言葉を聞き終えると、初めて口元を緩めた。
「よくぞ申した。ならば儂も、己のすべきことをしよう」
「松雲様?」
「柳沢が政の力でお主を囲うというなら、儂は儂のやり方でお主を守る」
その眼差しには、もう迷いはなかった。
「お主は、お主の道を進め。背後は儂に任せておけばよい」
葵はしばらく松雲を見つめ、やがて穏やかに笑った。
「……頼もしいお言葉です」
「今さら気づいたか」
「いいえ。昔から存じております」
松雲が小さく笑った。
葵も盃を取り上げ、静かに月を仰ぐ。
隣に松雲が座っている。
その気配を、今夜はもう少しだけ感じていたかった。




