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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第3章 第49話 三人の思惑

――柳沢邸


夜も更けた頃、松雲は人目を忍び、柳沢邸を訪れた。

通された書院では、柳沢吉保が一人、松雲を待っていた。


「松雲殿がこのような刻限に訪ねてくるとは珍しい。何かあったか」

「お話ししておかねばならぬことがございます」


松雲は深く頭を下げた。


「……葵のことです」


柳沢が、わずかに眉をひそめる。

「葵……あの者がどうした」


松雲は、すぐには答えなかった。


葵の身辺では、これまで幾度も不穏な出来事が起きている。

そのたびに蒼馬やお蘭が退けてきたが、この先も守り切れるとは限らない。


ならば――葵を消すよりも、守るほうが得策だと柳沢に思わせるしかない。


ただし、徳川の血を引く者であると断言はしない。

あくまで、その可能性を示すにとどめる。


葵を守りながら、将軍家との間に一線を残す。それが、松雲の選んだ道だった。


膝の上で、そっと拳を握る。

一度口にすれば、二度と秘密には戻せない。


やがて松雲は、静かに顔を上げた。


「葵は……徳川の血を引く者かもしれませぬ」


柳沢の目が、わずかに見開かれた。

「……何と申した」

「葵は、この時代に生まれた者ではございません。遥か未来より、時を越えてこの江戸へ参った者なのです」

「時を……越えてきたと?」


柳沢の声が低くなる。

「はい」

「そのような話を、信じろと申すのか」


松雲は懐から一枚の札を取り出し、柳沢の前へ置いた。

見慣れぬ材質で作られた、小さな札だった。


「これは、葵がこの時代へ現れたとき、身につけていたものでございます」


柳沢は札を手に取り、目を凝らした。

そこには、確かに文字が記されていた。


――徳川 葵。


「徳川……葵……」


柳沢の指が、その名の上で止まった。


「ただし、この名のみをもって、徳川の血筋であると断じることはできませぬ」


松雲は、慎重に言葉を重ねた。

「されど、未来において徳川の名を持つ者であったことは、間違いございません」


柳沢は札を見つめたまま、しばらく動かなかった。

やがて、ゆっくりと顔を上げる。


「それほどのことを……なぜ今まで黙っておった」


静かな声だった。

だが、その眼差しは先ほどよりも鋭さを増していた。


「葵を、政に巻き込みたくなかったからでございます」

「では、なぜ今になって明かした」


松雲は、柳沢の目を真っ直ぐに見た。


「近頃、葵の身辺に、いささか穏やかならぬことが続いております」

「穏やかならぬこと?」

「膳には毒が混じり、人目のない道では、よからぬ者どもにつけ狙われる。幸い、これまでは事なきを得てまいりましたが……」


松雲は、そこで言葉を切った。

「この先も、同じように退けられるとは限りませぬ」


柳沢は黙ったまま、松雲を見据えていた。

「それを、なぜ儂に話す」

「葵が何者とも知れぬ若者であるかぎり、その命を軽んじる者もおりましょう」


松雲の声は静かだった。

だが、柳沢から目をそらすことはなかった。


「されど、徳川の血を引く可能性があると知れば――手を下す前に、考えを改める者もいるはずにございます」


書院に、張り詰めた沈黙が落ちた。

柳沢は、松雲の真意を測るように目を細める。


「なるほど。葵を守るために、お主はこの秘密を儂へ差し出したというわけか」

「……御賢察、恐れ入ります」


柳沢は、頭を下げた松雲をしばらく見つめていた。

やがて、手の中の札へ再び目を落とす。


「時を越える術……にわかには信じがたい。だが――」


その脳裏に、かつて松風亭から目にした光景が甦った。


夜の路地に突如として現れた、眩い光。

そして、その光が消えたあとに立っていた、見慣れぬ装いの娘。


あのときは、何が起きたのか確かめようもなかった。

だが、松雲の話を聞いた今ならば――。


「……あの娘もか」


松雲の眼差しが、かすかに動いた。

柳沢は、その変化を見逃さなかった。


「お主ならば、そのような術を成し遂げたとしても、不思議ではない」


松雲は答えず、わずかに頭を下げた。


「ならば……」


柳沢の目に、これまでとは異なる光が宿る。


「葵殿……いや、葵様は、徳川の御血筋やもしれぬということか」

「柳沢様。まだ、そうと決まったわけでは――」

「無論、承知しておる」


柳沢は札を置いた。

その指先は、なおも葵の名に触れていた。


「徳川の名を持つ者が、時を越えてこの江戸へ現れた。これを、ただの偶然として捨て置けようか」

「ですが、葵には将軍家に関わる意思などございませぬ」

「本人の意思だけで決められることではない」


柳沢の声が、冷然と響いた。


「もし、まことに徳川の血を引く者であるならば、将軍家としても、その存在を知らぬままにはしておけぬ」

「柳沢様……」


柳沢は、松雲の懸念をよそに思案を巡らせていた。


(……見方を変えれば、これほど将軍にふさわしい御方はおらぬのではないか)


「何より、今はその御身を守らねばならぬ」


柳沢は静かに立ち上がり、襖へ向かって声を張った。

「誰かある」


すぐに、襖の向こうから低い声が応じる。

「はっ」

「夜鴉へ命を伝えよ」


松雲は、膝の上の拳を固くした。


「今後、葵様への手出しは一切許さぬ。監視も襲撃も、直ちにやめさせよ」


(やはり、貴様が……。しかし、この変わり身の早さは、さすがだな)


松雲は、表情を崩さぬまま柳沢を見据えた。


「御意」

「それから、腕の立つ者を二人選べ。夜が明け次第、澄月庵へ向かわせるのだ」

「護衛にございますか」

「そうだ。昼夜を問わず、葵様のおそばを守らせよ。何者にも、傷一つ負わせてはならぬ」

「はっ」


襖の向こうの気配が、静かに遠ざかっていく。


「柳沢様。葵を、将軍家の政に巻き込むことだけは……」

「何を申す」


柳沢が振り返る。

「これは葵様お一人の問題ではない。徳川の御代を守るための備えぞ」


その顔には、すでに政を動かす者の色が浮かんでいた。


「松雲殿。今後は葵様に万一のことが起こらぬよう、これまで以上に心を配られよ。何かあれば、直ちに儂へ知らせるのだ」


松雲には、もはや返す言葉がなかった。


柳沢に葵を狙わせぬため、秘密を明かした。

その目的だけは、果たされた。


だが、将軍家との間に残そうとした一線を、柳沢はためらいもなく越えてきた。

明朝には、その意向を帯びた護衛が葵のもとへやってくる。


守るために差し出した秘密が、今度は葵の行く手を狭めるかもしれない。


それでも、命さえあれば抗うことができる。

生きてさえいれば、葵自身の手で道を選ぶこともできる。


その道まで奪わせてはならぬ。


松雲は胸の奥に残る迷いを押し込み、深く頭を下げた。



――夜鴉の本拠地


「玄斎殿」


その夜、柳沢家の使者が夜鴉の本拠地を訪れた。


「柳沢様よりの命である」


差し出された書状を、玄斎は無言で受け取った。

封を解き、広げる。


そこには、簡潔に記されていた。


――葵様への手出しを、一切禁ずる。

――これまでの監視を解き、今後は許しなく近づくべからず。


玄斎の目が、冒頭の文字で止まった。


「……葵様?」


低く呟き、もう一度その文字を確かめる。

見間違いではない。


これまで柳沢は、葵を呼び捨てにしていた。

それが突然、敬称をつけている。


「どういうことだ」


使者は黙っている。

「なぜ柳沢様が、葵を『葵様』と呼ぶのだ」


玄斎の指に力がこもり、書状の端が歪んだ。


「手出しを禁じるとは、どういう意味だ!」


使者はその剣幕にも動じず、淡々と答えた。

「葵様が、徳川の御血筋である可能性が浮かび上がった」

「何……?」

「まだ確かと決まったわけではない。だが柳沢様は、万一にもその御身を損なうことがあってはならぬと判断なされた」


玄斎は、言葉を失った。

使者は構わず続ける。


「夜が明け次第、柳沢家より護衛の者が澄月庵へ向かう。夜鴉は今後、葵様に一切関わってはならぬ」

「待て」


踵を返しかけた使者を、玄斎が呼び止めた。

「徳川の血筋とは、どういうことだ。葵が何者だというのだ」

「我らが伝えることは、以上だ」


使者はそれだけを告げると、部屋を出ていった。


玄斎は、その背を睨みつけたまま動かなかった。

足音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなる。


「……徳川の血を引く、だと?」


手の中で、書状がくしゃりと音を立てた。


玄斎の脳裏に、葵の姿が浮かぶ。


どれほど追い詰められても屈することなく、鋭い眼差しを失わぬ男。

力も、胆力もある。

何より、己を曲げて相手に媚びることがない。


だからこそ、欲しかった。

夜鴉へ引き入れ、その力を手にしたかった。


「柳沢め……」


玄斎は拳を強く握りしめた。

「今さら葵の価値に気づいたか」


壁へ拳を叩きつける。

鈍い音が響き、漆喰の表面に細い亀裂が走った。


「あれほどの男を、将軍家などに渡せるものか」


低い声が、怒りに震える。

「葵は、誰かの命に従い、座敷で政を動かすような男ではない」


玄斎は、歪んだ書状を睨み下ろした。

「葵の力は……夜鴉にこそ相応しい」


だが、柳沢の命に背けば、夜鴉そのものが潰されかねない。

明朝からは、柳沢家の護衛までつく。

これまでのように近づくことさえ、容易ではなくなる。


玄斎は書状を握り潰しかけ、寸前で手を止めた。


従わねばならない。

少なくとも、今は。


「……これで終わったと思うな」


葵が夜鴉を望んだことなど、一度もなかった。

それでも玄斎には、手に入るはずのものを横から奪われたとしか思えなかった。


窓の外では、秋の虫が鳴いていた。


玄斎は書状を机へ伏せた。

その手は、いつまでも紙の上から離れなかった。

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