第3章 第47話 今も、あの家に
いつしか雨は上がり、雲の切れ間から月がのぞいていた。
葵は縁側に座り、刀を磨いていた。
鞘から抜かれた刃が、冴え冴えとした光を映している。
廊下を近づいてくる足音に気づき、葵は手を止めた。
やがて襖の向こうから、控えめな声がかかった。
「葵様、よろしいでしょうか」
古参の女中、お絹の声だった。
「どうした」
「紗江様がお見えになっております。大切なお話があるとのことで……」
葵は顔を上げた。
「……分かった。通してくれ」
お絹の足音が遠ざかっていく。
葵は刀を静かに鞘へ収め、傍らに置いた。
濡れた庭へ目を向けていると、再び廊下から足音が聞こえた。
「失礼いたします」
紗江が部屋へ入ってきた。
その足元を、クロがついてくる。
葵は紗江を見て、それから、腕に抱えられた紙包みへ目を留めた。
「大切な話と聞いたが」
紗江は腰を下ろし、紙包みを傍らへ置いた。
静かに一礼する。
「葵様のご両親について、分かったことがございます」
葵の表情が変わった。
「……私の、実の父と母のことか」
「はい」
紗江は膝の上で手を重ねた。
「松雲様に、葵様がこちらへ来られたときに身につけていたものを、見せていただきました。その中に、葵様のお名前が記された、小さな札があったのです」
「札……」
「私の時代で、本を借りるために使うものです。図書館の名前も残っていました」
葵は記憶をたどるように、わずかに眉を寄せた。
「幼い頃、松雲様に見せられたことがある。だが……何に使うものなのかは、分からなかった」
紗江は頷き、傍らの紙包みへ手を添えた。
「それを手がかりに、もとの時代で調べてまいりました」
葵は顔を上げた。
「……戻ったのか」
「はい。クロとともに」
傍らに座るクロへ、葵の視線が動いた。
それから、再び紗江を見る。
「いつ、戻った」
「……先ほど、戻りました。こちらでは、出発したときへ戻ってこられましたので……」
葵はしばらく何も言わなかった。
「無事に帰れると、分かっていたのか」
紗江は、すぐには答えられなかった。
その沈黙を見て、葵の顔が険しくなった。
「紗江!」
「……確かでは、ありませんでした」
葵の手が、膝の上で固く握られた。
「なぜ、何も言わずに行った」
「お話しすれば、お止めになると思いました」
「当然だ」
低い声だった。
紗江は顔を伏せず、その言葉を受け止めた。
「私のために、お前が戻らぬことになったら……」
葵はそこで言葉を切った。
先日、また来てくれるかと尋ねたばかりだった。
あのとき頷いてくれた紗江が、もう二度と、自分の前に現れなかったかもしれない。
膝の上の拳に、いっそう力がこもった。
「私が、行くと決めたのです」
紗江が、静かに言った。
「葵様を待っている方が、今もいらっしゃるかもしれないと思ったのです。葵様にも、ご自分の生まれを、どうしてもお伝えしたくて……」
葵は紗江を見つめた。
その眼差しを受け、紗江は膝の上で指を重ね直した。
「ですが、何もお話しせずに行ったことは、お詫びいたします」
葵は目を伏せた。
しばらくして、握っていた手を緩める。
「……次は、先に話してくれ」
「はい」
短い返事を聞いて、葵はようやく、紗江の傍らにある紙包みへ目を向けた。
「それが、調べてきたものか」
「はい」
紗江は包みを開き、新聞の写しを取り出した。
葵の前へ、読める向きに置く。
葵は紙面へ目を落とした。
「何が、分かったのだ」
「三歳の男の子が、行方不明になった記事です。お名前も、当時のお召し物も、松雲様から伺ったことと一致していました」
葵は、紙面の小さな写真を見つめた。
「背中に、蝶の羽のような痣があることも」
葵の手が、わずかに動いた。
「この子が……私なのか」
「はい」
紗江は頷き、記事の一箇所を示した。
「徳川家の末裔であることも、記されていました」
葵は、黙ったまま文字を追った。
やがて、張り詰めていた息をゆっくりと吐く。
「……そうか」
俯いた拍子に、一滴の涙が膝へ落ちた。
徳川の者として学び、己を律してきた日々。
その拠り所まで、失ったわけではなかった。
葵は、紙面に記された自分の名を、もう一度見つめた。
「私のために……ここまで、調べてくれたのだな」
「はい」
葵は顔を上げた。
「ありがとう、紗江」
紗江は小さく首を振り、次の言葉を選ぶように息を整えた。
「もう一つ、お伝えしたいことがあります」
葵は、紗江の顔を見た。
「記事にあった地域から調べ、葵様が幼い頃に暮らしておられたお家を訪ねました」
「私の……家を?」
「はい。ご両親には、まだお会いしていません。葵様のお気持ちを伺わずに、私からお話ししてよいのか、分からなくて……」
葵は何も言わず、続きを待った。
「ご近所の方に、お話を伺いました。ご両親は、今もお二人で、同じお家に暮らしておられるそうです」
葵の唇が、わずかに開いた。
「……父と母が」
「はい。長いあいだ、葵様を捜し続けていらしたと」
葵は固く目を閉じた。
顔も、声も思い出せない。
けれど、確かに自分を育ててくれた父と母がいる。
ある日突然いなくなった子を、何が起きたのかも分からぬまま、捜し続けていたのだ。
その間、自分はこの時代で育ち、何も知らずに生きてきた。
「最近になって、ようやく、お二人で出かけたり、笑ったりなさるようになったそうです」
紗江の声を聞きながら、葵はしばらく俯いていた。
やがて、詰めていた息を細く吐いた。
「……よかった」
その声は、かすかに震えていた。
やがて葵は、紙面の写真へ視線を戻した。
「父と母は……今の私を見て、分かるだろうか」
紗江は、すぐには答えられなかった。
ご両親が覚えているのは、三歳の葵だ。
目の前にいる青年が我が子だと、ひと目で分かるかどうかは、紗江にも分からない。
「……お会いになりたいですか」
葵の目が揺れた。
答えかけて、口を閉じる。
やがて、傍らの刀へ目を落とした。
「私は、江戸で生きると決めている」
紗江は黙って頷いた。
「父と母に会えば……」
その先を、葵は言わなかった。
会ってしまえば、離れがたくなるかもしれない。
帰りを待ち続けた二人に、再び別れを告げることになるかもしれない。
「会いたいというだけで、訪ねてよいのだろうか」
紗江は、膝の上の手へ目を落とした。
「私には、どちらがよいのか、決められません。ご両親がどう思われるかも……」
葵は、静かにその言葉を聞いていた。
「でも、会えると分かった今、お会いにならないままで、葵様が後悔なさらないか……それが心配なのです」
紗江は顔を上げた。
「私には、両親がいません。顔も、どんな人だったのかも分からなくて……」
声が、かすかに震えた。
「会いたいと思っても、もう会えないのです」
「紗江……」
紗江は、葵をまっすぐに見つめた。
「江戸で生きるというお気持ちを、変えていただきたいのではありません。ただ……お二人がお元気なうちに、そのお姿だけでも、ご覧になってはいかがでしょうか」
葵は、しばらく紗江を見つめていた。
顔も声も思い出せぬ父と母。
それでも、二人は今も、紗江が訪ねたあの家で生きている。
葵は傍らの刀へ目を落とし、やがて、紗江へ視線を戻した。
「……そうだな」
小さく息を吐く。
「まずは、お二人のお姿を、この目で確かめたい」
紗江は頷いた。
それから、ためらうように一度唇を結び、控えめに尋ねた。
「葵様……松雲様を、こちらへお呼びしてもよろしいでしょうか」
葵の表情が、わずかに強張った。
「松雲様を……」
「はい。令和へ渡る方法については、私には分からないことがございます。松雲様のお力を、お借りできればと……」
葵はすぐには答えなかった。
膝の前に置かれた新聞の写しへ、目を落とす。
父のように慕う思いも、奪われた生まれへの痛みも、どちらも消えてはいなかった。
それでも、今は確かめたいことがある。
「……分かった。呼んでくれ」
紗江は一礼した。
廊下へ出てお絹に取り次ぎを頼むと、葵のもとへ戻った。
松雲を待つあいだ、葵は新聞の写しを手に取っていた。
幼い自分の写真を見つめ、ゆっくりと文字を追っている。
紗江はその傍らで、黙って待った。
やがて、廊下から足音が聞こえた。
「……失礼する」
松雲が部屋へ入ってきた。
手には、小さな桐箱を携えていた。
葵の前へ腰を下ろすと、松雲は箱を置き、蓋を開けた。
傷のついたカードが、行灯の明かりに照らされた。
葵はそれをしばらく見つめ、それから顔を上げた。
「松雲様。私も、紗江とともに令和へ渡ることはできますか」
松雲は、葵をまっすぐに見つめた。
「お前も、一度時を越えてきた身だ。もとの時代へ戻る道は、あるはずだ」
松雲はそこで言葉を切った。
「だが、お前自身の道をたどれば、幼いお前がこちらへ来たときに戻ることになる」
葵は、紗江へ目を向けた。
「紗江と、同じところへ行くには」
「紗江がたどった道を、ともに渡れるか、確かめねばならぬ。禁書の記述を、杏ともう一度調べよう」
松雲は、膝の上に両手を置いた。
「今ここで、できるとは言い切れぬ。無事に戻れるかどうかも含め、分かったことを、すべてお前に話す」
葵は、その答えを黙って受け止めた。
やがて、静かに頷く。
「お願いします」
そして、紗江へ目を向けた。
「行けると分かったら……一緒に来てくれるか」
「はい」
迷わず返ってきた声に、葵の口元がわずかに緩んだ。
「何も覚えておらぬのだ。父と母のことも、生まれた家のことも……」
葵は一度言葉を切った。
「お前がそばにいてくれれば、心強い」
「ご一緒します。お家まで、ご案内いたします」
「ああ。頼む」
葵は、もう一度、松雲を見た。
松雲の手は、膝の上で固く重なっていた。
「母上のことも、あの夜に伺ったことも……まだ、どう受け止めればよいのか、分かりません」
松雲は目をそらさずに聞いていた。
「ですが、この札を残しておいてくださらなければ、父と母が生きていることも、分からぬままでした」
「……それを、私への礼とせずともよい」
松雲の声が、かすかに震えた。
「お前から奪ったものを、まだ何一つ、返せてはおらぬ」
葵はしばらく黙っていた。
それから、二人のあいだに置かれたカードへ目を落とした。
奪われたものへの痛みは、残っている。
それでも、この人を父と慕ってきた日々まで、偽りだったわけではない。
葵は、ゆっくりと顔を上げた。
「松雲様も、お力を貸してください」
今度は、自分の意志で、この人を頼りたいと思った。
松雲は息を詰めた。
すぐには声が出ず、それでも葵から目をそらさずに頷いた。
「……ああ」
それだけ答えると、膝の上で固く握っていた手を、ゆっくりとほどいた。




