↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
元禄美装録  作者: 月島 桃


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

48/64

第3章 第47話 今も、あの家に

いつしか雨は上がり、雲の切れ間から月がのぞいていた。

葵は縁側に座り、刀を磨いていた。

鞘から抜かれた刃が、冴え冴えとした光を映している。


廊下を近づいてくる足音に気づき、葵は手を止めた。

やがて襖の向こうから、控えめな声がかかった。

「葵様、よろしいでしょうか」

古参の女中、お絹の声だった。


「どうした」

「紗江様がお見えになっております。大切なお話があるとのことで……」

葵は顔を上げた。

「……分かった。通してくれ」


お絹の足音が遠ざかっていく。

葵は刀を静かに鞘へ収め、傍らに置いた。

濡れた庭へ目を向けていると、再び廊下から足音が聞こえた。


「失礼いたします」

紗江が部屋へ入ってきた。

その足元を、クロがついてくる。

葵は紗江を見て、それから、腕に抱えられた紙包みへ目を留めた。


「大切な話と聞いたが」

紗江は腰を下ろし、紙包みを傍らへ置いた。

静かに一礼する。

「葵様のご両親について、分かったことがございます」


葵の表情が変わった。

「……私の、実の父と母のことか」

「はい」

紗江は膝の上で手を重ねた。


「松雲様に、葵様がこちらへ来られたときに身につけていたものを、見せていただきました。その中に、葵様のお名前が記された、小さな札があったのです」

「札……」

「私の時代で、本を借りるために使うものです。図書館の名前も残っていました」

葵は記憶をたどるように、わずかに眉を寄せた。

「幼い頃、松雲様に見せられたことがある。だが……何に使うものなのかは、分からなかった」


紗江は頷き、傍らの紙包みへ手を添えた。

「それを手がかりに、もとの時代で調べてまいりました」


葵は顔を上げた。

「……戻ったのか」

「はい。クロとともに」

傍らに座るクロへ、葵の視線が動いた。

それから、再び紗江を見る。


「いつ、戻った」

「……先ほど、戻りました。こちらでは、出発したときへ戻ってこられましたので……」

葵はしばらく何も言わなかった。

「無事に帰れると、分かっていたのか」


紗江は、すぐには答えられなかった。

その沈黙を見て、葵の顔が険しくなった。

「紗江!」

「……確かでは、ありませんでした」

葵の手が、膝の上で固く握られた。


「なぜ、何も言わずに行った」

「お話しすれば、お止めになると思いました」

「当然だ」

低い声だった。

紗江は顔を伏せず、その言葉を受け止めた。


「私のために、お前が戻らぬことになったら……」

葵はそこで言葉を切った。

先日、また来てくれるかと尋ねたばかりだった。

あのとき頷いてくれた紗江が、もう二度と、自分の前に現れなかったかもしれない。

膝の上の拳に、いっそう力がこもった。


「私が、行くと決めたのです」

紗江が、静かに言った。

「葵様を待っている方が、今もいらっしゃるかもしれないと思ったのです。葵様にも、ご自分の生まれを、どうしてもお伝えしたくて……」


葵は紗江を見つめた。

その眼差しを受け、紗江は膝の上で指を重ね直した。

「ですが、何もお話しせずに行ったことは、お詫びいたします」


葵は目を伏せた。

しばらくして、握っていた手を緩める。

「……次は、先に話してくれ」

「はい」


短い返事を聞いて、葵はようやく、紗江の傍らにある紙包みへ目を向けた。

「それが、調べてきたものか」

「はい」

紗江は包みを開き、新聞の写しを取り出した。

葵の前へ、読める向きに置く。


葵は紙面へ目を落とした。

「何が、分かったのだ」

「三歳の男の子が、行方不明になった記事です。お名前も、当時のお召し物も、松雲様から伺ったことと一致していました」

葵は、紙面の小さな写真を見つめた。

「背中に、蝶の羽のような痣があることも」


葵の手が、わずかに動いた。

「この子が……私なのか」

「はい」

紗江は頷き、記事の一箇所を示した。

「徳川家の末裔であることも、記されていました」


葵は、黙ったまま文字を追った。

やがて、張り詰めていた息をゆっくりと吐く。

「……そうか」

俯いた拍子に、一滴の涙が膝へ落ちた。


徳川の者として学び、己を律してきた日々。

その拠り所まで、失ったわけではなかった。

葵は、紙面に記された自分の名を、もう一度見つめた。


「私のために……ここまで、調べてくれたのだな」

「はい」

葵は顔を上げた。

「ありがとう、紗江」


紗江は小さく首を振り、次の言葉を選ぶように息を整えた。

「もう一つ、お伝えしたいことがあります」

葵は、紗江の顔を見た。


「記事にあった地域から調べ、葵様が幼い頃に暮らしておられたお家を訪ねました」

「私の……家を?」

「はい。ご両親には、まだお会いしていません。葵様のお気持ちを伺わずに、私からお話ししてよいのか、分からなくて……」

葵は何も言わず、続きを待った。

「ご近所の方に、お話を伺いました。ご両親は、今もお二人で、同じお家に暮らしておられるそうです」


葵の唇が、わずかに開いた。

「……父と母が」

「はい。長いあいだ、葵様を捜し続けていらしたと」

葵は固く目を閉じた。


顔も、声も思い出せない。

けれど、確かに自分を育ててくれた父と母がいる。

ある日突然いなくなった子を、何が起きたのかも分からぬまま、捜し続けていたのだ。

その間、自分はこの時代で育ち、何も知らずに生きてきた。


「最近になって、ようやく、お二人で出かけたり、笑ったりなさるようになったそうです」

紗江の声を聞きながら、葵はしばらく俯いていた。

やがて、詰めていた息を細く吐いた。

「……よかった」

その声は、かすかに震えていた。


やがて葵は、紙面の写真へ視線を戻した。

「父と母は……今の私を見て、分かるだろうか」


紗江は、すぐには答えられなかった。

ご両親が覚えているのは、三歳の葵だ。

目の前にいる青年が我が子だと、ひと目で分かるかどうかは、紗江にも分からない。


「……お会いになりたいですか」

葵の目が揺れた。

答えかけて、口を閉じる。

やがて、傍らの刀へ目を落とした。

「私は、江戸で生きると決めている」

紗江は黙って頷いた。


「父と母に会えば……」

その先を、葵は言わなかった。

会ってしまえば、離れがたくなるかもしれない。

帰りを待ち続けた二人に、再び別れを告げることになるかもしれない。


「会いたいというだけで、訪ねてよいのだろうか」

紗江は、膝の上の手へ目を落とした。

「私には、どちらがよいのか、決められません。ご両親がどう思われるかも……」

葵は、静かにその言葉を聞いていた。

「でも、会えると分かった今、お会いにならないままで、葵様が後悔なさらないか……それが心配なのです」


紗江は顔を上げた。

「私には、両親がいません。顔も、どんな人だったのかも分からなくて……」

声が、かすかに震えた。

「会いたいと思っても、もう会えないのです」

「紗江……」


紗江は、葵をまっすぐに見つめた。

「江戸で生きるというお気持ちを、変えていただきたいのではありません。ただ……お二人がお元気なうちに、そのお姿だけでも、ご覧になってはいかがでしょうか」


葵は、しばらく紗江を見つめていた。

顔も声も思い出せぬ父と母。

それでも、二人は今も、紗江が訪ねたあの家で生きている。


葵は傍らの刀へ目を落とし、やがて、紗江へ視線を戻した。

「……そうだな」

小さく息を吐く。

「まずは、お二人のお姿を、この目で確かめたい」


紗江は頷いた。

それから、ためらうように一度唇を結び、控えめに尋ねた。

「葵様……松雲様を、こちらへお呼びしてもよろしいでしょうか」


葵の表情が、わずかに強張った。

「松雲様を……」

「はい。令和へ渡る方法については、私には分からないことがございます。松雲様のお力を、お借りできればと……」


葵はすぐには答えなかった。

膝の前に置かれた新聞の写しへ、目を落とす。

父のように慕う思いも、奪われた生まれへの痛みも、どちらも消えてはいなかった。

それでも、今は確かめたいことがある。


「……分かった。呼んでくれ」

紗江は一礼した。

廊下へ出てお絹に取り次ぎを頼むと、葵のもとへ戻った。


松雲を待つあいだ、葵は新聞の写しを手に取っていた。

幼い自分の写真を見つめ、ゆっくりと文字を追っている。

紗江はその傍らで、黙って待った。


やがて、廊下から足音が聞こえた。

「……失礼する」

松雲が部屋へ入ってきた。

手には、小さな桐箱を携えていた。


葵の前へ腰を下ろすと、松雲は箱を置き、蓋を開けた。

傷のついたカードが、行灯の明かりに照らされた。

葵はそれをしばらく見つめ、それから顔を上げた。


「松雲様。私も、紗江とともに令和へ渡ることはできますか」

松雲は、葵をまっすぐに見つめた。

「お前も、一度時を越えてきた身だ。もとの時代へ戻る道は、あるはずだ」

松雲はそこで言葉を切った。

「だが、お前自身の道をたどれば、幼いお前がこちらへ来たときに戻ることになる」


葵は、紗江へ目を向けた。

「紗江と、同じところへ行くには」

「紗江がたどった道を、ともに渡れるか、確かめねばならぬ。禁書の記述を、杏ともう一度調べよう」


松雲は、膝の上に両手を置いた。

「今ここで、できるとは言い切れぬ。無事に戻れるかどうかも含め、分かったことを、すべてお前に話す」

葵は、その答えを黙って受け止めた。

やがて、静かに頷く。

「お願いします」


そして、紗江へ目を向けた。

「行けると分かったら……一緒に来てくれるか」

「はい」

迷わず返ってきた声に、葵の口元がわずかに緩んだ。


「何も覚えておらぬのだ。父と母のことも、生まれた家のことも……」

葵は一度言葉を切った。

「お前がそばにいてくれれば、心強い」

「ご一緒します。お家まで、ご案内いたします」

「ああ。頼む」


葵は、もう一度、松雲を見た。

松雲の手は、膝の上で固く重なっていた。

「母上のことも、あの夜に伺ったことも……まだ、どう受け止めればよいのか、分かりません」

松雲は目をそらさずに聞いていた。


「ですが、この札を残しておいてくださらなければ、父と母が生きていることも、分からぬままでした」

「……それを、私への礼とせずともよい」

松雲の声が、かすかに震えた。

「お前から奪ったものを、まだ何一つ、返せてはおらぬ」


葵はしばらく黙っていた。

それから、二人のあいだに置かれたカードへ目を落とした。


奪われたものへの痛みは、残っている。

それでも、この人を父と慕ってきた日々まで、偽りだったわけではない。


葵は、ゆっくりと顔を上げた。

「松雲様も、お力を貸してください」


今度は、自分の意志で、この人を頼りたいと思った。


松雲は息を詰めた。

すぐには声が出ず、それでも葵から目をそらさずに頷いた。

「……ああ」

それだけ答えると、膝の上で固く握っていた手を、ゆっくりとほどいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。