第3章 第46話 変わらぬ部屋、待ち続ける人
閉じた瞼の向こうで、眩い光が薄れていった。
紗江はクロを胸に抱いたまま、ゆっくりと目を開いた。
蛍光灯の白い光。
六畳一間の、小さな部屋。
机の上には、飲みかけのコーヒーと、使い古しの針箱があった。
「……帰ってきたのね」
腕の中で、クロが小さく鳴いた。
床へ下ろすと、クロは机のそばへ歩いていった。その足元に、一枚のデザイン画が落ちている。
紗江はしゃがみ、紙を拾い上げた。
江戸へ渡る直前、風に巻き上げられたものだった。
机の上のノートにも、描きかけの服が残っていた。
袖のラインを何度も描き直した跡に、そっと指を添える。
思うような形にならず、夜更けまで描き続けていた。
そのもどかしさまで、指先から戻ってくるようだった。
スマートフォンを手に取ると、画面に、あの夜の日付が浮かんだ。
時刻も、一時間と進んでいない。
松雲が話していたとおりだった。
「本当に、少ししか経っていないのね」
スマートフォンを机へ戻した。
この机に向かいながら、自分の作った服で、いつか誰かを笑顔にしたいと願っていた。
今は、その笑顔をいくつも思い浮かべることができた。
足元で、クロが脚へ身体を擦り寄せる。
「……いろんなことがあったね、クロ」
抱き上げると、馴染んだ重みが腕に収まった。
カーテンの隙間から外をのぞく。
アパートの前の敷地には人影もなく、路地は静まり返っていた。
遠くで車の走る音がして、やがて途切れた。
紗江はカーテンを閉じ、クロを下ろした。
懐から、古い図書館の利用カードを取り出す。
徳川葵。
その名を見つめると、懐かしさに緩んでいた気持ちが引き締まった。
確かめなければならないことがある。
紗江は散らばったデザイン画を拾い集め、机の上に重ねた。
コーヒーを片付け、カップを洗う。ノートを閉じ、針箱の隣へ置いた。
一つずつ手を動かすうちに、ようやく、この部屋へ帰ってきた実感が湧いてきた。
けれど、その夜はなかなか寝つけなかった。
枕元に置いた利用カードへ、ときおり目を向ける。
これほど古くなるまで、この小さなカードは、葵のいた世界のことを留めていたのだ。
紗江は浅い眠りと目覚めを繰り返しながら、朝を待った。
翌朝。
紗江は部屋に残していた服へ着替え、利用カードを鞄に入れた。
鏡の前で裾を整え、クロへ振り返る。
「行こうか」
部屋の戸を閉め、階段を下りる。
建物の前の敷地へ出ると、朝の空気が頬に触れた。
見慣れた路地を歩き、大通りへ近づくにつれて、街の音が増えていった。
行き交う車。
店先の明るい看板。
足早に通り過ぎていく人々。
懐かしい街を見渡しながら、紗江も人の流れに交じった。
足元のクロを確かめ、図書館へ向かった。
着いたのは、開館して間もない頃だった。
入口のそばでしゃがみ、クロと目を合わせる。
「ごめんね。ここには一緒に入れないの。待っていてくれる?」
クロは不満そうに尻尾を揺らした。
「調べ終わったら戻るから。お願い」
頭を撫でると、クロは渋々といった様子で腰を下ろした。
自動扉をくぐると、外の音が遠のいた。
本棚の向こうから、ページをめくる音が聞こえてくる。
紗江は受付へ向かった。
「すみません。平成二十一年頃の新聞記事を調べたいのですが……」
案内されたのは、過去の新聞記事を検索できる端末だった。
椅子へ座り、検索欄に名前を打ち込む。
徳川 葵
入力を終えても、すぐには検索できなかった。
この名前が見つかれば、葵のいた世界が、今よりはっきりと形を持つ。
そこには、自分たちの知らない葵の暮らしがあったはずだった。
紗江は小さく息を吸い、検索ボタンに触れた。
表示された結果を、一つずつ確かめる。
やがて、ある見出しの前で指が止まった。
平成二十一年七月十五日付 朝刊
【徳川家の末裔、三歳男児が行方不明】
紗江は身を乗り出した。
十四日午後、東京都内で徳川葵ちゃん(三歳)の行方が分からなくなった。
葵ちゃんは一人息子で、自宅付近で目撃されたのを最後に消息を絶っている。
当時の服装は、白い半袖のシャツに紺色の半ズボン。
背中には、蝶の羽にも見える特徴的な痣がある――。
「……葵様……」
思わず声が漏れた。
写真の中では、幼い男の子が笑っていた。
まだ丸みの残る頬。無邪気に細められた目。
その面差しに、紗江の知る葵がいた。
姿を消した日。
三歳という年齢。
徳川家の末裔であること。
そして、背中の痣。
一つずつ確かめ、紗江は膝の上で手を握った。
(見つけた……)
松雲の禁呪は、確かに徳川の血を引く子を呼び寄せていた。
それを、ようやく確かめることができた。
だが、写真から目を離せずにいるうち、胸の奥に別の痛みが生まれた。
幼い葵は、写真を撮る誰かへ笑いかけている。
その向こうには、この子を慈しむ人がいたはずだった。
画面を下へ送ると、両親が情報提供を呼びかけていたことも記されていた。
紗江は記事の日付と地域をスマートフォンへ書き留めた。
それから受付で尋ね、必要な手続きを済ませて、記事のコピーを取った。
手元に渡された紙には、幼い葵の笑顔が写っていた。
これを見せれば、自分の言葉だけで伝えるより、葵にも確かめてもらえる。
紗江は紙を折らずに鞄へ収めた。
けれど、それだけでは帰れなかった。
葵を捜していた両親は、今、どうしているのだろう。
まだ、この街のどこかにいるのだろうか。
図書館を出ると、クロが立ち上がった。
「待たせて、ごめんね」
しゃがみ込み、その身体を抱き寄せる。
「見つかったよ。葵様のことが載っていた」
クロが低く喉を鳴らした。
「でも……もう一つ、確かめてから帰りたいの」
紗江はスマートフォンに記した地域の名へ目を落とした。
「ご両親が、今もお元気でいらっしゃるかどうか」
クロを下ろし、立ち上がる。
「一緒に行こう」
新聞記事に記されていた地域へ向かい、徳川家について調べた。
古くから、その土地に居を構えている家だった。
地図を頼りに歩くうち、長い塀が見えてきた。
周囲の家々よりも敷地が広く、道から屋敷の様子をうかがうことはできない。
門柱には、「徳川」の表札が掲げられていた。
「ここが……」
紗江は門の前で足を止めた。
幼い葵は、この門をくぐっていたのだろうか。
父や母に手を引かれ、家へ帰ってきたこともあったのだろうか。
(どうしよう。ここまで来たけれど……葵様のことを話さずに、ご両親のことを伺う方法はないかしら)
門の前に立ち止まっていると、背後から声がした。
「何か、ご用ですか?」
振り返ると、品のよい初老の女性が立っていた。
紗江と門を、少し気にかけるように見比べている。
「すみません。少し、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「あの……私、記者で……徳川葵君のことを調べているのですが……」
言いながら、紗江は鞄の持ち手を握り締めた。
「こちらは、葵君のお宅でしょうか」
女性は紗江を見つめ、それから門へ目を向けた。
「ええ、そうよ。あの子は、まだ三つのときに、突然いなくなったの。もう二十年近くになるかしら」
「ご両親は……今も、こちらに?」
「ええ。お二人とも、こちらにお住まいよ」
葵の父と母は、生きている。
紗江は、胸に込み上げたものを抑えるように、小さく息をついた。
「ずいぶん長いこと、捜していらしたのよ。何か手掛かりがあると聞けば、お二人で出向いてね」
女性の声が低くなった。
「最近になって、ようやく少しずつ、笑顔を見せてくださるようになったところなの」
「……そう、ですか」
紗江は門へ目を向けた。
葵は生きている。
その一言を、どれほど待ち望んでいるだろう。
けれど、伝えれば、必ず問われるはずだった。
どこにいるのか。
会えるのか。
なぜ帰ってこないのか。
今の紗江には、そのどれにも、十分な答えを渡せなかった。
「ご両親に、お話を伺うつもりなの?」
女性の声に、紗江は向き直った。
「いえ、今日は……」
「そう。あの方たちは、これまで何度も期待しては、つらい思いをなさっているから。どうか、お気持ちを大切になさってね」
「はい」
その言葉を、紗江は胸に留めた。
「差し支えなければ、ご両親のお名前を教えていただけますか」
「あら、そんなこともご存じないの? 本当に記者さん?」
紗江は慌てて頭を下げた。
「はい。申し訳ありません。まだ新人で……」
「ああ、そうでしたか。お父様が宗一郎さん。お母様は美和子さんよ」
紗江はスマートフォンへ、その名を書き留めた。
「徳川宗一郎さんと、美和子さん……」
「お名前で調べれば、出てくると思うわ。有名な方々だから」
「ありがとうございます」
紗江は深く頭を下げた。
親切に教えてくれた女性の顔を、まっすぐには見られなかった。
(……嘘をついて、ごめんなさい)
女性は小さく会釈して去っていった。
門の前に、紗江とクロだけが残された。
ご両親が健在であることは、確かめられた。
けれど、ここで葵のことを伝えるわけにはいかなかった。
まず、葵に知らせなければならない。
父と母が、今も生きていることを。
帰りを待っていた人たちがいることを。
それを知った葵が、何を望むのか。
紗江が先に決めてよいことではなかった。
足元でクロが鳴いた。
「……うん」
紗江は門へ一礼し、その場を離れた。
少し歩いてから足を止め、教えられた名前を検索した。
ほどなく、二人の名とともに、写真が表示された。
並んで写る、落ち着いた佇まいの男女。
紗江は画面を大きくし、その顔を見つめた。
目元だろうか。それとも、口元だろうか。
どちらの面影も、葵の中にあるように思えた。
三歳で離れてしまった両親の顔を、葵はどれほど覚えているだろう。
紗江は写真を保存した。
これも、一緒に見てもらいたかった。
帰り道、コンビニへ立ち寄り、その写真を印刷した。
出てきた一枚を手に取ると、画面で見ていたときよりも、二人の存在が近く感じられた。
新聞記事のコピーと重ね、折れないように鞄へ収める。
クロを待たせている店の外へ出ると、紗江はまっすぐアパートへ向かった。
部屋へ戻り、江戸から着てきた着物に袖を通した。
襟元を合わせ、帯を締める。
その馴染んだ感触に、紗江は肩の力を抜いた。
(やっぱり、こちらの方がしっくりくる)
鏡に映る自分を見つめる。
この部屋では、ほんのわずかな時間しか経っていない。
それでも、身体は江戸での日々を覚えていた。
(あの時間は、ちゃんとあったのね)
紗江は嬉しそうに笑った。
脱いだ服を畳み、鞄とスマートフォンを机の上へ置く。
利用カードは懐へしまい、記事のコピーと写真は、一緒に布で包んだ。
片付いた机に、デザイン画の束と針箱が並んでいる。
紗江はその前で足を止め、針箱の蓋へそっと触れた。
そして、手を離した。
今は、早く帰ろう。
持ち帰る紙包みを確かめ、蛍光灯を消す。
クロを抱き上げると、金色の瞳が紗江を見上げた。
「クロ、江戸へ帰ろう」
背に手を添え、静かに目を閉じる。
「……クロノス」
青白い光が、腕の中から広がった。
細い光の帯が紗江を包み、見慣れた部屋の輪郭が遠のいていく。
紗江はクロを抱く腕に、力を込めた。
やがて、足元に畳の感触が戻った。
松雲の書斎だった。
光が薄れる向こうに、松雲の姿が見えた。
傍らでは、杏が白い羽を揺らしている。
「……紗江」
「松雲様」
松雲は紗江の顔を確かめた。
「大事ないか」
「はい」
クロを下ろし、紗江は息を整えた。
松雲はそれを待ってから、静かに尋ねた。
「確かめられたか」
「はい。葵様は、間違いなく徳川家の末裔でした」
紗江は懐から利用カードを取り出した。
「新聞……あっ、かわら版に、幼い葵様が行方不明になったと記されていました。お名前も、年齢も、背中の痣も一致しています」
「……そうか」
松雲は深く息をついた。
紗江はカードを懐へ戻し、言葉を続けた。
「それから……ご両親も、ご健在です」
松雲の指が、膝の上でわずかに動いた。
「葵の実の父と母が……」
「はい」
松雲はしばらく黙っていた。
やがて、紗江の手元の包みへ目を向ける。
「それは」
「葵様に、お見せしたいものです」
紗江は包みに手を添えた。
「詳しいことは、葵様にも聞いていただきたいのですが……まずは、私からお話ししてまいります」
松雲は紗江を見つめた。
「そのうえで、松雲様をお呼びしてよいか、お尋ねしても?」
松雲はわずかに目を伏せた。
「……ああ。頼む」
「はい」
紗江は紙包みを大切に抱え直した。
足元のクロへ目を向け、それから書斎の戸に手をかける。
葵にとって、嬉しい知らせになるのか。
それとも、戸惑わせ、苦しめることになるのか。
まだ、分からなかった。
だからこそ、まずは葵の気持ちを確かめたかった。
紗江は一礼し、一人で葵のもとへ向かった。




