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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第3章 第45話 帰る場所を捜して

――葵のもとへ


松雲の庵を辞したあと、紗江は葵のもとを訪ねた。

取り次ぎに出た蒼馬は、紗江の顔を見ると、わずかに安堵したような表情を浮かべた。


「少々、お待ちください」


ほどなくして通された部屋で、葵は文机の前に座っていた。


「……紗江か」


こちらを向いた顔には、疲れがにじんでいた。


紗江もまた、遠い未来からこの時代へ来た。

もしかすると、自分も同じ時代に生まれ、同じ景色を見ていたのかもしれない。


そう思うと、目の前の紗江が、これまでよりも近しく感じられた。

覚えていない自分の故郷に、どこかでつながっている人のように。


葵の眼差しが、わずかに和らいだ。


紗江は一礼し、少し離れたところに腰を下ろした。


「少しだけ、おそばにいてもよろしいでしょうか」


葵は紗江を見つめたのち、静かに頷いた。


しばらく、二人とも口を開かなかった。

庭の木々が風に揺れる音だけが、部屋へ届いていた。


やがて、葵が尋ねた。


「松雲に……会ってきたのか」

「はい」


紗江は、偽らずに答えた。


「葵様がこちらの時代へいらした経緯も、伺いました」


葵の視線が、手元へ落ちた。


「そうか」


その声を聞き、紗江は膝の上でそっと手を重ねた。


「何かお話しになりたいことがあれば、聞かせてください。今は話したくないのでしたら、このままで構いません」


葵は何も答えなかった。

紗江も、それ以上は尋ねなかった。


どれほどそうしていただろう。


やがて、俯いたままの葵が、ぽつりと口を開いた。


「……何を信じればよいのか、分からぬ」


紗江は、葵へ顔を向けた。


「父のように思ってきた。今も、その思いが消えたわけではない。だが……」


言葉が途切れた。

紗江は、続きを待った。

けれど、葵は唇を引き結んだまま、何も言わなかった。


「今すぐに、お気持ちを決めなくてもよいと思います」


葵が、ゆっくりと顔を上げた。


「松雲様を大切に思うお気持ちも、許せないお気持ちも……どちらも、葵様のお気持ちですから」


葵はしばらく紗江を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。


そのあとも、二人は多くを語らなかった。

紗江はただ、葵のそばに座っていた。


帰り際、葵が低い声で言った。


「……また、来てくれるか」


紗江は振り返り、頷いた。


「はい。また伺います」


――翌日の夕刻


澄月庵で下絵を片づけていた紗江のもとへ、杏が訪ねてきた。


「紗江様。松雲様が、お話ししたいことがあるそうです」


紗江は手を止めた。


「葵様のこと?」

「はい。お支度が済むまで、こちらでお待ちいたします」


昨夕、別れ際に見た松雲の顔が思い浮かんだ。

何か、心に決めたことがあるのだろうか。


紗江はお蘭に行き先を告げ、杏とともに庵を出た。

クロも、その足元を離れずについてきた。


道すがら降り始めた雨は、松雲の庵へ着く頃には、軒先を濡らすほどになっていた。


――松雲の書斎


揺れる行灯の明かりと静かな雨音が、書斎を満たしていた。

松雲は文机の前に座り、傍らに置かれた古びた禁書を見つめていた。


「松雲様、紗江様をお連れしました」


障子の向こうから杏の声がすると、松雲は顔を上げた。


「……入ってくれ」


紗江が書斎へ入ると、松雲は自ら座る場所を示した。


「雨の中、すまなかった」

「いいえ。葵様のことで、お話があると伺いました」


紗江が腰を下ろすと、クロもその傍らに座った。

杏は障子を閉め、松雲のそばへ移った。


松雲は、すぐには話し始めなかった。

やがて、ためらいがちに尋ねた。


「昨日は……葵に会えたのか」

「はい。少しだけ、お話しできました」


松雲の肩から、わずかに力が抜けた。


「そうか……」


何を話したのか。

そう尋ねかけたように唇が動いたが、松雲は言葉をのみ込んだ。


紗江も、葵がこぼした言葉を、そのまま伝えることはしなかった。


「また伺うと、お約束してまいりました」

「……ありがとう」


松雲は深く頭を下げた。

しばらくして顔を上げると、膝の上に両手を置いた。


「昨日、紗江に言われたことを、あれから考えていた。葵を独りにしないために、私に何ができるのかと」


紗江は黙って耳を傾けた。


「葵が会わぬと言うのなら、待とう。だが、待つあいだにも、あの子のために確かめられることがあるのではないかと思ったのだ」

「確かめられること……?」

「あの子が、どこから来たのか。そして、もとの時代に、あの子を捜している者がいるのか」


紗江は、松雲を見つめた。


「葵様の、ご家族を……?」

「ああ」


松雲は傍らの桐箱を引き寄せた。


「その手がかりになるかもしれぬものが、ひとつだけある」


蓋を開け、中に収められていたものを取り出す。


一枚の、小さなカードだった。


「葵がこちらへ現れたとき、身につけていたものだ」


差し出されたそれを見て、紗江は息を止めた。


紙ではない、薄く硬い手触り。

角を丸く整えられた形。

表面に印刷された、見慣れた文字。


この時代に来てから、一度も目にすることのなかったものだった。


「これは……図書館の利用カードだわ」


思わずこぼれた言葉に、松雲が顔を上げた。


「紗江には、それが何か分かるのか」

「はい。私の時代で、本を借りるために使うものです」


紗江は両手でカードを持ち直した。

細かな傷が、表面を幾筋も走っている。

それでも、記された文字は読み取ることができた。


徳川 葵


「徳川……葵」


声に出してから、紗江は松雲を見た。


「これが、葵様のもとのお名前なのですね」

「ああ。幼いあの子は、自分の名さえ、はっきりとは答えられなかった。葵という名が分かったのも、それがあったからだ」


松雲は、カードを持つ紗江の手元へ目を落とした。


「私はその姓を見て、お楽の方様が求めておられた者を呼び寄せられたのだと信じた」


声が、わずかに低くなった。


「だが、同じ姓だというだけでは、徳川家の血を引く証しにはならぬ」


紗江は黙って頷いた。


「術が成った以上、間違いはない。長いあいだ、そう思おうとしてきた。あの子が何も思い出せぬことも、幼いゆえだと……」


松雲の指が、膝の上で固く重なった。


「分からぬことを、分からぬままにしておいたのだ。私にとって都合のよい答えを信じて」


雨音が、二人のあいだに落ちた。


紗江は、もう一度カードへ目を向けた。

氏名の下に、小さく発行日が印刷されている。


平成二十一年。


その数字を見た瞬間、胸が大きく鳴った。


自分の知っている時代のものだ。


葵もまた、紗江が暮らしていた世界で生きていた。

道を歩き、誰かに名を呼ばれ、本を借りに行く暮らしがあったのだ。


小さな葵の手を引いて、この図書館へ連れていってくれた家族がいたのかもしれない。

その人は、ある日突然いなくなった子を、どれほど捜したのだろう。


「松雲様。このカードは、ずっとこちらに?」

「ああ。いつか、あの子が何かを思い出す手がかりになるやもしれぬと思い、取っておいた」

「葵様も、ご覧になったことはあるのですか」

「ある。まだ幼い頃に、一度だけ」


松雲は目を伏せた。


「だが、何に使うものか、私には説明してやれなかった。あの子も、それを見て何かを思い出すことはなかった」


紗江の指が、カードの縁で止まった。


自分の名前が書かれている。

けれど、それをどこで手にしたのか、誰と使っていたのか、教えてくれる人はいない。


幼い葵は、どんな思いでこれを眺めたのだろう。


「紗江」


松雲の声に、紗江は顔を上げた。


「誠に頼み難いことなのだが……もとの時代へ戻り、葵のことを調べてはくれぬか」


紗江は、すぐには言葉を返せなかった。


「戻る……?」


聞き返した声が、かすれた。


「私の時代へ、戻れるのですか」


松雲は傍らの禁書へ目を向けた。


「あの禁術を行ったあとも、杏の力を借りながら、読み解くことを続けてきた。近頃になってようやく、時を渡った者に関わる記述の意味が分かったのだ」


杏が、静かに松雲のそばへ降りた。


「禁術を行った当時、私が読み解くことのできたのは、漆黒の式神に触れ、『クロノス』と唱えれば時が揺らぐという一節だけであった」


松雲の指が、禁書の黒い表紙に触れた。


「あの頃の私は、それだけで術のすべてを理解したつもりになっていた。だが、実際には、ほんの入り口にすぎなかったのだ」


紗江は、足元に座るクロを見た。

金色の瞳が、まっすぐにこちらを見上げていた。


「クロの力で、もとの時代へ戻れるのですか」

「誰もが自由に時を越えられるわけではない。一度時を越えてきた者だけが、自らの残した時の痕跡をたどれるという」

「時の痕跡……」

「ああ。そして、戻る先は、その者がもとの時代を離れたときだ」


紗江は、松雲を見つめた。


「では……私がこちらへ来た、あの夜へ?」

「そうだ」


あの夜。


見慣れた部屋。

窓の向こうにあった街の明かり。

手を伸ばせば届くところにあった、いつもの暮らし。


紗江には遠くなってしまったあの夜が、向こうでは、まだ終わっていないのだ。


「向こうへ戻ったあと、再びこちらへ来ることもできるのでしょうか」

「一度つながった二つの時のあいだには、道が残るという。クロがともにいれば、再びその道をたどり、こちらを離れたときへ帰り着く」


紗江は、言葉の意味を確かめるように尋ねた。


「私が向こうで何日過ごしても……こちらでは、出発したそのときに戻ってこられるのですね」

「無事に道をたどれれば、そうなる」


松雲はそこで言葉を切り、紗江をまっすぐに見た。


「だが、私はそれを確かめたことがない。必ず戻れると、軽々しく約束することはできぬ」


紗江は、静かに息を吸った。


「……そうですか」


クロが身を寄せ、膝に置いた紗江の手へ額を押しつけた。

温かな毛並みを撫でながら、紗江はカードへ目を落とした。


「松雲様。葵様がこちらへ来られたのは、何年前のことなのですか」


松雲は、すぐには答えなかった。


「それが……あの子は、こちらへ来てから長いあいだ、三つの姿のままであった」

「三歳のまま……?」

「ああ。背丈も、顔立ちも変わらぬ。年を重ね始めたのは、十七年ほど前からだ」


紗江の手が止まった。


なぜ、そのときから成長し始めたのだろう。

時を越えたことで止まっていた葵の時間が、再び動き出したのだとしたら――。


「もしかすると、私の時代で葵様がいなくなったのも、十七年ほど前なのかもしれません」


松雲が顔を上げた。


「あの子が年を取り始めたことと、関わりがあると?」

「分かりません。でも……まずは、その頃に三歳で行方が分からなくなったお子さんがいなかったか、調べてみます」


紗江は、カードに印刷された館名を指で示した。


「この図書館がどこにあるのか分かれば、葵様が暮らしていた場所も、絞れるかもしれません」

「そこまで分かるのか」

「手がかりにはなると思います。ただ、調べても、ご家族にたどり着けないかもしれません」


松雲は黙って聞いていた。


「それでも……私なら、ここに書かれていることを手がかりに、捜すことができます」

「紗江……」


紗江は、傷のついた文字を指先でそっとなぞった。


徳川葵。


葵自身が忘れてしまっても、この小さな一枚には残っていた名前だった。


「葵様には、このことを?」

「まだ、話しておらぬ」


昨夕の葵の声が、胸によみがえった。


――また、来てくれるか。


また伺いますと、約束した。

その自分が、帰ってこられるかも分からない場所へ行こうとしている。


「……お話しすれば、きっとお止めになります」


松雲は答えなかった。


「葵様は、ご自分のことを調べるために、私が危うい目に遭うことなど、お許しにならないと思います」


行くな、と言われたら。

その声を聞いてなお、自分は出発できるだろうか。


紗江は、しばらくカードを見つめていた。


「無事に帰ってこられれば、葵様をお待たせすることはないのですね」

「ああ」

「それなら、行きます」


松雲が、息を呑んだ。


「ですが、その前に……お手紙を書かせてください」

「葵にか」

「はい。私が戻らなかったら、渡してください」


松雲の表情が曇った。


「紗江。無理に引き受けることはない」


紗江は、静かに首を振った。


「葵様を待っている方が、今もいらっしゃるかもしれません。その方に、葵様は生きていらっしゃると、お伝えしたいんです」


声にすると、胸の奥にあった思いが、ようやく定まった。


「そして葵様にも、ご自分がどこからいらしたのか、お伝えしたいです」


松雲は唇を引き結び、深く頭を下げた。


「……すまぬ」


紗江は、机の上へ目を向けた。


「紙と筆を、お借りしてもよろしいでしょうか」


松雲は頷き、硯と筆を紗江の前へ置いた。

杏がそばへ寄り、白い紙を一枚広げる。


紗江は筆を取った。

けれど、最初の一文字が、なかなか書けなかった。


何から伝えればよいのだろう。

何を書いても、葵を悲しませてしまう気がした。


膝のそばで、クロが小さく鳴いた。

紗江はその背を一度撫で、紙へ向き直った。


行灯の明かりの下で、ゆっくりと筆を動かす。

松雲も杏も、何も言わずに待っていた。


やがて書き終えた手紙を折り、紗江は両手で差し出した。


「お願いします」


松雲は、それを受け取った。

紗江は離しかけた指を止め、顔を上げた。


「戻ってこられたら、その手紙は私に返してください」

「……ああ」

「葵様には、私からお話しします」


叱られるかもしれない。

ひどく怒らせてしまうかもしれない。


それでも、その顔を見て、自分の言葉で伝えたかった。


松雲は手紙を懐へ収めると、傍らの禁書を開いた。


――時を越える儀式


夜が深まるにつれ、雨音は強くなっていた。


松雲は何度も禁書の記述を確かめ、杏と短く言葉を交わした。

紗江はそのあいだに、利用カードを桐箱へ戻し、落とさぬよう懐へ収めた。


やがて、松雲が顔を上げた。


「紗江。支度はよいか」

「はい」


紗江は、部屋の中央に座るクロの前へ膝をついた。

少し離れたところで、松雲が見守っている。

その傍らには、白い羽を小さく震わせながら、杏が浮かんでいた。


「何があろうと、クロから手を離してはならぬ」

「……はい」


紗江は深く息を吸い、クロの背中にそっと手を置いた。

柔らかな毛並みに触れた瞬間、クロの身体が淡い青白い光に包まれた。

金色の瞳が、暗がりの中で強く輝く。


クロは紗江を見上げると、低く、小さく鳴いた。

紗江は一度だけ、懐の桐箱を確かめた。


葵につながるものを、見つけてこよう。


そして、ここへ帰ってこよう。


その思いを胸に、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「……クロノス」


その瞬間、書斎の空気がかすかに震えた。


雨音が消えた。

行灯の炎も、壁に映る影も、すべてが動きを止める。


まるで、この部屋だけが時の流れから切り離されたかのようだった。


やがて、クロを包んでいた青白い光が、細い帯となって紗江の周囲を巡り始めた。

一筋、また一筋と重なりながら、その光は次第に大きな渦となっていく。


行灯の明かりが遠ざかり、床も壁も、白い光の向こうへ薄れていった。

紗江はとっさにクロを抱き上げ、その身体を胸に強く抱き締めた。


光の向こうに、松雲の姿が見えた。

松雲の姿も、その傍らに浮かぶ杏の白い羽も、揺れる光にかすんでいく。


直後、足元の感覚が消えた。


風もない。

音もない。


それでも身体だけが宙へ浮かび、目には見えない大きな流れに呑み込まれていく。


(この感覚……)


紗江の脳裏に、江戸へ来た夜の記憶が鮮やかによみがえった。


部屋を満たした眩い光。

激しく震えた窓ガラス。


そして、光の中へ呑み込まれる直前、自分が口にした言葉――。


(あのとき、私は……)


クロを抱き寄せながら、そばにあったノースフェイスの上着へ手を伸ばした。


(クロ、ノースフェイス……)


二つの言葉が、頭の中で重なる。


クロ。

ノース――。


(クロノス……?)


紗江は、胸に抱いたクロを見つめた。


(まさか……あのとき私、知らないうちに……)


クロの金色の瞳が、紗江を見返していた。


偶然口にした言葉が、時を揺るがす呼び声になっていたのかもしれない。


確かめる間もなく、光がいっそう強くなった。

紗江はクロを抱く腕に力を込め、固く目を閉じた。


ほんの一瞬だったのか。

長い時が過ぎたのか。


ただ、腕の中の温もりだけは変わらなかった。


やがて、閉じた瞼の向こうで、強烈な光が弾けた。

足の裏に、硬い床の感触が戻った。


紗江は、恐る恐る目を開いた。


目の前には――見覚えのある景色が広がっていた。

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