第3章 第44話 独りにしないために
第3章 第44話
――翌朝
葵は、いつもと変わらぬ時刻に部屋を出た。
身なりを整え、届いていた文に目を通し、蒼馬からの報告にも静かに耳を傾けた。
傍目には、いつもと何ら変わらないように見えた。
けれど、長く葵に仕えてきた蒼馬は、小さな違和感を覚えていた。
「葵様」
報告を終えても、葵の目は手元の文に落とされたままだった。
「……何だ」
「いえ」
蒼馬は、それ以上尋ねられなかった。
いつもならわずかに笑みを見せる蓮の冗談にも、葵は静かに頷いただけだった。
葵が立ち去ったあと、蓮はその背中を見送りながら、声をひそめた。
「なあ、蒼馬。葵様に、何かあったのかな」
「……分からぬ」
「でも……いつもと違うよな」
「ああ」
蒼馬も、葵が去った先を見つめていた。
だが、葵自身が何も語らない以上、二人には見守ることしかできなかった。
それから数日が過ぎた。
葵は変わらず人前に姿を見せ、務めも怠らなかった。
けれど、笑みを見せることはほとんどなくなった。
誰かに案じられても、「少し疲れているだけだ」と答えるばかりだった。
それ以上、誰にも踏み込ませようとはしなかった。
その日の夕刻。
澄月庵の一室で、衣の下絵を広げていた紗江のもとへ、お蘭がやって来た。
「紗江様、少しよろしいでしょうか」
いつになく硬い声に、紗江は顔を上げた。
「どうしたの、お蘭」
お蘭は周囲に人がいないことを確かめてから、声を落とした。
「葵様のことでございます」
紗江の手が止まった。
「葵様が?」
「本邸の台所方の者から聞いたのですが、ここ数日、葵様はほとんどお食事を召し上がっていないそうです」
「えっ……」
「膳には箸をつけておられるようですが、お口にされるのはほんのわずかだとか」
紗江は、広げていた下絵へ目を落とした。
近頃は忙しさに追われ、葵とゆっくり顔を合わせることもなかった。
「どうしてなのか、何か聞いてる?」
「詳しいことまでは分かりません。ですが、蒼馬も蓮も、葵様のご様子がいつもと違うと案じております」
お蘭は一度言葉を切った。
「ただ……ご様子が変わられたのは、松雲様が夜更けに本邸を訪ねられた翌朝からだそうです」
「松雲様が……?」
「はい」
「お二人の間に、何かあったということ?」
「それは分かりません。ですが、松雲様はそれから毎日、葵様を訪ねておられます」
「毎日……?」
「けれど葵様は、一度もお会いになっていないそうです」
紗江は息を呑んだ。
父子のように深く信頼し合っていた二人だ。
葵が松雲との面会を拒むなど、これまで一度もなかった。
「葵様は、松雲様について何かおっしゃっているの?」
お蘭は静かに首を振った。
「詳しいことは何も……ただ、お会いにはならぬと」
会おうとしない葵と、それでも毎日訪ね続ける松雲。
何があったのかは分からない。
けれど、食事も喉を通らぬほど葵が苦しんでいるのなら、このままにはしておけなかった。
「ありがとう、お蘭」
紗江は、下絵を静かに閉じた。
「私、松雲様のところへ行ってくる」
葵が何も語らないのなら、無理に聞き出すことはできない。
まずは、松雲に会ってみよう。
葵が独りで何を抱えているのか、少しでも知りたかった。
――松雲の庵
「松雲様」
紗江が庵を訪ねると、松雲は一人、薄暗い部屋に座っていた。
わずか数日のうちに、ひどくやつれたように見えた。
「……紗江か」
松雲が、疲れきった顔を上げた。
「突然、申し訳ありません」
紗江は松雲の前に座った。
「葵様のことで、お伺いしたいことがございます」
その名を聞いた途端、松雲の表情が強張った。
「先ほど、お蘭からここ数日のご様子を聞きました。お役目は変わらず果たしておられるそうですが、ほとんどお笑いにならず、お食事もほんのわずかしか召し上がっていないと……」
松雲は苦しげに目を伏せた。
膝に置かれた手が、かすかに動いた。
「葵様にお声をかける前に、まず松雲様から事情を伺いたくて参りました」
紗江は、松雲をまっすぐに見つめた。
「お二人の間に、何があったのですか」
松雲は、すぐには答えなかった。
紗江も急かさず、その言葉を待った。
やがて、松雲が重い口を開いた。
「……紗江には、話しておこう」
一度言葉を切り、静かに続けた。
「葵の……本当の生い立ちを」
松雲は、お楽の方の願いによって禁呪を行い、幼い葵を遠い未来からこの時代へ呼び寄せたことを、紗江に打ち明けた。
話を聞き終えても、紗江はしばらく言葉を発することができなかった。
「そんな……」
ようやくこぼれた声は、掠れていた。
「そのことを、葵様にお伝えになったのですか」
「ああ。すべて話した」
帰る場所を持たず、自分が何者なのかも分からない。
そのことが、どれほど葵を傷つけてきたか。
紗江は知っていた。
「……葵様は、何とおっしゃっていましたか」
「なぜ、もっと早く教えてくれなかったのかと」
松雲の両手が、膝の上で固く握られた。
「私は……答えることができなかった」
紗江は、俯いた松雲を見つめた。
「葵様との絆を失うことが、怖かったのですか」
長い間があった。
「……あの子は、私を父のように慕ってくれていた」
松雲の指に、さらに力がこもった。
「真実を知れば、二度とそうは思ってもらえぬかもしれぬ。それが……怖かった」
声が、途切れた。
紗江は黙って待っていた。
「葵が苦しんでいると知りながら、私は、自分があの子を失うことを恐れていたのだ」
紗江も、すぐには言葉を返せなかった。
葵にとって松雲は、帰る場所のないこの時代で、父と慕ってきた人だった。
その人が、自分をこの時代へ連れてきた。しかも、すべてを知りながら、長い間黙っていたのだ。
松雲を慕ってきた年月までが、葵の中で揺らいでいるのかもしれなかった。
長い沈黙のあと、松雲が掠れた声で尋ねた。
「葵は……私を憎んでいるであろうか」
紗江は、すぐには答えられなかった。
「……今、葵様が何を思っていらっしゃるのか、私にも分かりません」
松雲は、膝の上へ目を落とした。
「ですが、松雲様を父のように慕ってこられたお気持ちまで、すぐに消えてしまうとは思えません」
紗江は、言葉を選びながら続けた。
「傷ついて、腹を立てて……それでも、大切に思うお気持ちは残っている。葵様は今、その間で苦しんでいらっしゃるのかもしれません」
「葵……」
松雲の声が震えた。
紗江はそのそばへ寄り、肩にそっと手を置いた。
「今はまだ、松雲様のお顔を見るのも、おつらいのだと思います」
松雲は俯いたまま、しばらく動かなかった。
「私は……どうすればよい」
「葵様がお会いになれるまで、お待ちするしかないのかもしれません」
紗江は、松雲が顔を上げるのを待って続けた。
「それでも、どうか葵様から離れないでください」
その声は静かだった。
「許していただくためではなく……葵様を、独りにしないために」
「紗江……」
松雲の目から、涙がこぼれ落ちた。
紗江は、そっと手を離した。
「私は、葵様のところへ行ってまいります」
そう言って立ち上がると、松雲が案じるように顔を上げた。
「だが、今の葵は……」
「私も、未来から来ました」
紗江は、松雲を見つめた。
「知らない時代で、帰れるかどうかも分からずに生きる心細さは、私にも覚えがあります」
けれど、葵は幼い頃にこの時代へ連れてこられた。
紗江のように、元の暮らしをはっきり覚えているわけではない。
自分が何者なのかも分からずに過ごしてきた年月を思うと、同じ苦しみだとは言えなかった。
「葵様のお気持ちが、すべて分かるとは言えません。ですが……お話を聞くことはできます」
紗江は一度言葉を切り、静かに続けた。
「何もお話しになりたくないのなら、それでも構いません。今はただ、おそばにいたいんです」
松雲はしばらく紗江を見つめていたが、やがて深く頭を下げた。
「……どうか、あの子を」
声を詰まらせ、もう一度頼んだ。
「葵を……頼む」
「はい」
紗江はしっかりと頷き、松雲に一礼して部屋を出ていった。
松雲は、その背中をじっと見送っていた。
やがて紗江の姿が見えなくなると、部屋には再び静寂が戻った。
――許していただくためではなく……葵様を、独りにしないために。
紗江の言葉が、胸の奥に残っていた。
毎日、葵のもとへ通いながら、何を求めていたのだろう。
もう一度、以前のように迎えてほしい。
父と慕ってくれたあの声で、名を呼んでほしい。
葵に会えぬ苦しさの中で、そんな願いばかりを募らせてはいなかったか。
松雲は、膝の上の手を固く握りしめた。
葵が会わぬと言うのなら、その思いを受け止めよう。
それでも、あの子が自分を必要としたときには、いつでも応えられるところにいよう。
「……もう、逃げはせぬ」
返事を求めず、許しを急がず、待ち続けよう。
長い間、葵に告げずにいた自分が、今度はあの子の答えを待つのだ。




