第3章 第43話 告白の夜
――松雲の葛藤
紗江が未来から来たと知ったあの日から、松雲の心は揺れ続けていた。
葵と同じく、遠い未来からこの時代へ来た者が現れた。
その出会いは、隠し続けてきた葵の生い立ちと向き合うよう、松雲に迫っているようだった。
葵が何かのきっかけで真実を知る前に、自らの口ですべてを話さなければならない。
そう思いながらも決心がつかぬまま、日ばかりが過ぎていった。
松雲は目を閉じた。
禁呪を用い、幼い葵を未来から呼び寄せたのは、自分なのだと。
それを、葵に告げなければならない。
だが、知れば、葵は――。
松雲の手が、かすかに震えた。
まぶたの裏に、遠い日の記憶が蘇る。
初めて葵を腕に抱いた日。
母を失った葵が、胸の中で泣いた日。
小さな手で木刀を握り、何度転んでも立ち上がった姿。
そのすべてが、松雲にとってかけがえのない記憶だった。
葵を傷つけたくないという思いに、偽りはない。
だが、胸の奥から、己を嘲る声が聞こえた。
私は、ずるいな。
ずっと、目をつぶってきた。
忘れたふりをしていたのか。
いや……本当に、なかったことにしようとしていたのだ。
葵を抱き、教え、成長を喜ぶ日々の中で、あの夜の罪から目をそらし続けた。
この子の父であるかのように振る舞いながら、自分こそが、この子を実の父母から引き離したのだということを。
葵のためだと、自分に言い聞かせてきた。
真実を告げずにいるのも、この子を傷つけぬためなのだと。
笑わせるな。
私はただ、葵に憎まれるのが怖いだけではないか。
松雲の目から、一筋の涙がこぼれた。
お前にとって私は、許しがたい相手なのだ。
私は……お前の人生を奪った。
たとえ、お楽の方の願いをかなえるためだったとしても。
その後、葵を我が子のように慈しんできたとしても。
犯した罪が消えるわけではない。
松雲は固く拳を握りしめた。
夜になれば、葵の顔が浮かんだ。
朝になれば、今日こそ話そうと思う。
それでも葵を前にすると、どうしても言葉が出なかった。
ある日、松雲が一人で庭を眺めていると、小さな羽音が聞こえた。
白い翼を羽ばたかせ、杏が松雲の肩へ降り立つ。
杏は何も言わず、心配そうに松雲の横顔を見つめていた。
「……杏」
松雲が、掠れた声で呼んだ。
「私は……どうすればよい」
杏はしばらく松雲を見つめていたが、やがて小さな手を、その頬へそっと添えた。
「松雲様は、ずっとご自分のことより、葵様を大切になさってきました」
澄んだ声が、静かな庭に響く。
「たとえ始まりが過ちであったとしても……葵様を慈しんでこられた日々まで、偽りになるわけではございません」
「だが、葵は……」
「きっと、お苦しみになります」
杏は、悲しげに目を伏せた。
「松雲様を、お許しになれないかもしれません」
その言葉に、松雲の顔が歪んだ。
それでも杏は、目をそらさずに続けた。
「お許しになるかどうかは、葵様がお決めになることです」
「……ああ」
「けれど、松雲様は真実から逃げてはなりません」
松雲は、黙ってその言葉を受け止めた。
「葵様がどのようなお答えを出されても、そのお気持ちから目をそらさずにいてください」
「……私に、その資格があるだろうか」
「資格があるからではございません」
杏は、静かに首を振った。
「葵様を独りにしないと、あの日、お約束なさったのでしょう」
松雲の胸に、幼い葵の声が蘇った。
――松雲様は……いなくなりませんか。
あの日、自分は迷うことなく答えた。
――私がお前のそばにいる。
「……そうであったな」
松雲は目を閉じた。
杏の小さな手の温もりが、張りつめていた心へ静かに染み込んでいった。
――告白の夜
満月の昇る夜だった。
松雲は、ついに葵のもとへ向かう決意をした。
これ以上、逃げるわけにはいかない。
葵には、真実を知る権利がある。
たとえ拒まれ、二度と顔を見たくないと言われたとしても、自らの口で伝えなければならない。
松雲は一人、葵の本邸へと向かった。
一歩踏み出すたびに、足が重くなる。
それでも歩みを止めず、屋敷の門前まで来ると、深く息を吸った。
胸の震えは、少しも鎮まらなかった。
門番に来意を告げると、ほどなくして屋敷の者が迎えに現れた。
奥の間へ通された松雲を見て、葵がわずかに目を見開く。
「松雲様? どうなされたのです。こんな夜更けに」
「……夜分にすまぬ」
松雲は、葵の顔をまともに見ることができなかった。
「聞いてもらいたいことがある。よいか」
そのただならぬ様子に、葵の表情も引き締まった。
「……分かりました」
葵は人払いを命じ、松雲を奥庭に面した縁側へ案内した。
二人は並んで腰を下ろした。
庭には、青白い月明かりが降り注いでいる。
「……葵」
松雲が、重い口を開いた。
「お前に、話しておかねばならないことがある」
「はい」
「それは……お前の生い立ちについてだ」
葵の表情が変わった。
「私の……生い立ち」
「ああ」
松雲は膝の上で、両手を固く握りしめた。
「お前は……本来、この時代に生まれた人間ではない」
葵が、わずかに眉を寄せる。
「どういう……意味ですか」
「お前は、遠い未来から来たのだ」
「未来……」
葵の目に、戸惑いが浮かんだ。
「……お前が、三歳ほどであった頃のことだ」
松雲は、あの夜の出来事を語り始めた。
徳川の血を引く幼い男子を求め、お楽の方が禁じられた術にすがったこと。
自分がその願いを退けきれず、禁呪を行ったこと。
そして、眩い光の中から、幼い葵が現れたこと。
声にするたび、あの日の光景が鮮やかに蘇った。
葵は、口を挟まなかった。
ただ、身じろぎもせずに聞いていた。
けれど、話が進むにつれて、その表情は少しずつ硬くなっていった。
やがて、松雲はすべてを語り終えた。
長い沈黙が落ちた。
風が庭木の葉を揺らしている。
その音だけが、妙に大きく聞こえた。
「つまり……」
葵が、ようやく口を開いた。
声が、かすかに震えている。
「私が未来から来たということを……松雲様は、初めからご存じだったのですか」
「……ああ」
「では、私をこの時代へ連れてきたのも――」
葵が松雲を見つめた。
「松雲様なのですか」
松雲は目を伏せた。
逃げることだけは、してはならない。
「……そうだ」
その答えを聞いた瞬間、葵の顔から、すべての表情が消えた。
「すまない」
松雲は、深く頭を下げた。
「何を言っても償いにはならぬ。だが……本当に、すまなかった」
握りしめた手に、一滴の涙が落ちた。
葵は、呆然とその姿を見つめていた。
優しく頭を撫でてくれた手。
学問を教え、剣を教え、人として歩むべき道を示してくれた日々。
この時代へ来る以前の記憶を持たない葵にとって、松雲は師であり、父にも等しい存在だった。
その人が、自分をこの時代へ連れてきたのだという。
「私は……」
掠れた声が、葵の唇から漏れた。
「松雲様だけは、私の苦しみを分かってくださっていると……そう信じておりました」
「葵……」
「いいえ。分かっておられたのでしょう」
松雲の肩が、かすかに震えた。
葵は、成長するにつれ、自らの生い立ちに疑問を抱くようになった。
実の父母が誰なのか、なぜお楽の方の子として育てられたのか。
答えを得られずに苦しむ姿を、松雲は誰より近くで見ていた。
「なぜ……」
葵の声が震えた。
「なぜ、もっと早く教えてくださらなかったのですか」
松雲には、答えられなかった。
葵を失うことが怖かった。
真実を知れば、葵は自分を拒むかもしれない。
父のように慕ってくれる、その眼差しを失いたくなかった。
それを口にすることは、あまりにも身勝手だった。
葵は目を伏せた。
「……父上と思って、お慕いしていたのです」
その一言とともに、涙がこぼれ落ちた。
「……すまない」
松雲には、それしか言えなかった。
何度詫びたところで、葵から奪った歳月は戻らない。
葵はしばらく俯いていたが、やがて静かに尋ねた。
「私は、徳川の血を引いているのですか」
松雲は、すぐには答えられなかった。
「それは……確かめるすべがない」
葵が顔を上げた。
「……分からないというのですか」
「術は、お楽の方様の願いに応じ、お前を呼び寄せた。それゆえ、徳川の血を引いているはずだと……信じるほかなかった」
葵は、何も言わなかった。
ただ、松雲を見つめていた。
「では……私は徳川の者なのか、それさえ分からぬのですね」
「……すまない」
葵は縁側へ片手をついた。
己を支えていたものが、根元から崩れ去っていくようだった。
母と慕ったお楽の方が、自分を未来から求めた。
父のように慕った松雲が、その願いをかなえた。
なぜ自分がここにいるのか。
その答えを求めて苦しむ自分の傍らで、松雲は真実を隠し続けていた。
それでも、二人を恨みきることができない。
お楽の方から注がれた慈しみも、松雲と過ごした歳月も、偽りではなかった。
今の自分を育んだのは、二人から注がれた愛情だった。
だが、二人を今も大切に思うことは、未来にいたはずの父と母を裏切ることになるのではないか。
幼い自分を突然奪われ、捜し続けたかもしれない人たち。
顔も名前も思い出せない、実の両親。
その存在を思うと、胸が締めつけられた。
(私は……誰を恨めばよい)
お楽の方は、もうこの世にいない。
松雲は目の前で、声を殺して泣いている。
二人への思いを、どう受け止めればよいのか分からなかった。
「私は……何者なのだ……」
こぼれた声は、松雲に向けたものではなかった。
答えのない問いが、葵自身の胸へ深く沈んでいった。
二人の間に、長い沈黙が流れた。
やがて葵は、ゆっくりと顔を上げた。
目は赤く、頬には涙の跡が残っていた。
「……今宵は、お帰りください」
「葵、私は――」
「今は……何も考えられません」
あまりにも静かな声だった。
責める言葉よりも、そのよそよそしさが松雲の胸を抉った。
「どうか、独りにしてください」
葵は、それ以上何も言わなかった。
松雲は伸ばしかけた手を下ろし、深く頭を垂れた。
「……分かった」
松雲は立ち上がり、葵の屋敷をあとにした。
葵は、その足音が聞こえなくなるまで、身じろぎもせずに座っていた。
一人になっても、声を上げて泣くことはなかった。
ただ、月明かりに照らされた庭を見つめながら、夜が明けるまで自らに問い続けた。
自分は何者なのか。
誰を恨み、誰を許せばよいのか。
その答えは、どこにもなかった。




