第3章 第42話 母の誓い、父の願い
翌朝――江戸城。
お楽の方付きの女房が、朝の支度を整えるため、御手水を携えて寝所を訪れた。
「お楽の方さま、お目覚めでございましょうか」
静かに声をかけ、襖を開ける。
中へ入ろうとした女房は、驚きのあまり足を止めた。
お楽の方の傍らに、見知らぬ幼子が眠っていた。
柔らかな寝息を立てながら、小さな手でお楽の方の小袖をしっかりと握っている。
「お楽の方さま……そちらのお子は……?」
お楽の方は、幼子を起こさぬよう、その髪をそっと撫でた。
「静かになさい。この子が目を覚ましてしまいます」
「も、申し訳ございません。ですが、そちらのお子は、いったいどちらから……」
「この子の素性を詮索することは許しません」
お楽の方の声から、穏やかさが消えた。
女房は、はっとして頭を下げる。
「この子は、今日より徳川の子です。以後、そのように心得なさい」
「……承知いたしました」
お楽の方は小さく頷いた。
昨夜の外出を知る老女房には、すでに口止めをしてある。
だが、その老女房さえ、この子がどこから来たのか、誰の子なのかは知らなかった。
「この子の名は、葵です」
お楽の方は、眠る幼子へ目を向けた。
「葵様……」
女房が、戸惑いながらその名を口にする。
「ええ。今日より、葵様と呼びなさい」
幼子がゆっくりと目を開けた。
お楽の方は、その小さな身体をそっと抱き上げた。
「葵」
幼子はお楽の方を見上げ、にこりと笑った。
「これからは、私がそなたの母ですよ」
その言葉は、葵に言い聞かせると同時に、お楽の方が自らに課した誓いでもあった。
――別れ
それから、幾年かの月日が流れた。
だが、葵の姿は、呼び寄せられた夜から少しも変わらなかった。
三つほどに見える幼子のまま、時だけが過ぎていった。
禁呪の影響なのか、それとも葵自身に何か理由があるのか――松雲にも分からなかった。
葵と過ごすうちに、お楽の方の思いは少しずつ変わっていった。
徳川を救うために迎えた幼子は、いつしか何ものにも代えがたい我が子となっていた。
どこから来たのかも、正確な齢も分からない。
それでも、食事のときも、学びのときも、眠りにつくときも、お楽の方はできる限り葵の傍らにいた。
葵もまた、お楽の方を実の母と信じ、その後を慕ってついて歩いた。
穏やかな日々が、このままいつまでも続くように思われた。
しかし、その願いが叶うことはなかった。
ある日、お楽の方は重い病に倒れた。
日を追うごとに身体は衰え、ついには床から起き上がることさえできなくなった。
「葵……」
細い声で呼ばれ、葵は枕元へ駆け寄った。
「母上」
お楽の方の手を、両手で懸命に握りしめる。
「母上……どこか、お痛いのですか」
お楽の方は、泣き出しそうな葵の顔を見つめた。
痩せ細った手を持ち上げ、愛おしそうにその頬を撫でる。
「葵……泣いてはなりません」
「でも……」
「そなたは、徳川の血を引く者なのですから」
弱々しくとも、その声には確かな力が宿っていた。
「どのようなことがあっても……生きるのですよ」
「母上……」
「そして、いつの日か……この徳川の世を、未来へ繋いでおくれ」
葵には、その言葉の意味をすべて理解することはできなかった。
ただ、母が自分を残して遠くへ行こうとしている。
それだけは、幼いながらに分かっていた。
「嫌です……」
葵は、お楽の方の手に頬を寄せた。
「母上も一緒でなければ、嫌です」
お楽の方の瞳が、涙で潤んだ。
「葵……すまぬ……」
「母上……?」
「そなたを独りにしてしまう母を、許しておくれ」
「いや……母上、行かないで……」
お楽の方は最後の力を振り絞るように、葵の頭を撫でた。
「案ずることはありません……松雲様が、きっとそなたを導いてくださいます」
その唇に、かすかな微笑みが浮かんだ。
「葵……そなたに出会えて、私は幸せでした」
「母上……」
「どうか……生きて……」
葵の頭を撫でていた手が、力なく落ちた。
「母上?」
返事はない。
「母上……」
葵はその手を取り、握りしめた。
「母上! 母上!」
幼い叫び声が、寝所に響き渡った。
だが、お楽の方が再び目を開けることはなかった。
その日、お玉の方は、病に伏したお楽の方を見舞うため、寝所を訪れていた。
しかし、母と子の最後のひとときを妨げまいと、襖を隔てた次の間に控えていた。
「母上! 目を開けてください! 母上!」
襖の向こうから響く葵の泣き声に、お玉の方は静かに目を伏せた。
やがて、そっと襖を開いた。
亡き母の手を握り、泣き続ける葵を前に、お玉の方は立ち止まった。
この子を、どうすべきか。
葵がいつ、どこで生まれたのか。
なぜ、お楽の方が突然我が子として迎えたのか。
お玉の方にも、その真実は知らされていなかった。
ただ、お楽の方が葵を心から慈しみ、徳川の子として守り育ててきたことだけは分かっていた。
胸には、なおも疑念と戸惑いがあった。
それでも、目の前で泣き続ける幼子を捨て置くことはできなかった。
「お楽の方さまが、我が子として慈しんでこられた子……」
お玉の方は葵の傍らに膝をつき、その小さな肩へそっと手を置いた。
――ならば、私が見届けましょう。
――葵の別邸
お楽の方が亡くなったのち、その遺志を継いだお玉の方――のちの桂昌院――が、葵を引き取った。
葵には新たな住まいとして、一つの別邸が与えられた。
松雲も指南役としてともに移り、引き続き葵の傍らにいることになった。
母を失ったことを、幼い葵がどこまで理解していたのかは分からない。
あの日、母に縋って泣き続けた葵は、それ以来、涙を見せなくなった。
四十九日の法要を終えたある日、葵は縁側に座り、庭の向こうをじっと見つめていた。
誰かを待っているようにも見えた。
松雲は少し離れたところから、その小さな背中を黙って見守っていた。
やがて日が傾き始めた頃、葵がぽつりと尋ねた。
「……母上は、もうお戻りにならないのですか」
松雲は、すぐには答えられなかった。
この幼子に、母が二度と戻らぬことを、どう伝えればよいのか。
それでも、偽りを告げることだけはできなかった。
「……ああ」
松雲は葵の隣へ腰を下ろした。
「もう、戻らぬ」
葵は黙ったまま、庭を見つめていた。
その横顔はひどく静かで、かえって松雲の胸を締めつけた。
しばらくして、小さな声が聞こえた。
「では……私は、独りになるのですか」
松雲は、葵の小さな手をそっと包んだ。
「お前には、私がいるではないか」
葵は、縋るような目で松雲を見上げた。
「松雲様は……いなくなりませんか」
「ああ」
松雲は、迷うことなく頷いた。
「私がお前のそばにいる」
その言葉を聞いた途端、葵の目に涙が浮かんだ。
泣くまいとしているのか、小さな唇を懸命に引き結んでいる。
松雲は、葵をそっと抱き寄せた。
初めは強張っていた身体から、少しずつ力が抜けていく。
やがて葵は松雲の衣を小さな手で掴み、その胸元に顔を埋めた。
「……母上に、会いたい」
こらえていた嗚咽が、こぼれた。
「そう……だな」
松雲はそれ以上何も言わず、震える背を何度も撫でた。
会いたいのは、松雲も同じだった。
若き日に心を奪われてから、ただ一人、胸の奥で想い続けてきた人。
その人はもう、手の届かぬところへ逝ってしまった。
けれど、誰にも明かせぬ想いゆえに、松雲は表立って悲しむことさえできなかった。
葵の涙は、松雲が流すことのできない涙でもあった。
(葵は、私の子だ)
血のつながりなどなくとも、腕の中の温もりは、何ものにも代えがたかった。
(この子がいつか、自らの道を歩めるようになるまで――私が、そばで見守ろう)
お玉の方も、葵を温かく見守り、第二の母として惜しみない愛情を注いだ。
松雲は葵に学問を教え、剣を持たせ、人として守るべき道を説いた。
葵もまた、松雲を師と仰ぎ、父のように慕った。
長いあいだ止まっていた葵の成長も、いつしか、ごく緩やかに進み始めた。
何がきっかけだったのか。禁呪との関わりがあるのかどうかも、松雲には分からなかった。
やがて徳川綱吉が将軍宣下を受け、江戸城へ入った。
それに伴い、葵にも徳川の若君にふさわしい大きな屋敷が与えられた。
葵は松雲とともに、長年暮らした別邸を離れ、新たな屋敷へ移った。
そこには、お絹をはじめとする女中や、屋敷を守る者たちも迎えられた。
その後、葵のもとには、蒼馬、蓮、お蘭、隼人が一人、また一人と集まってきた。
生まれも境遇も異なる者たちだったが、皆、松雲のもとで学び、鍛錬を重ねながら、葵とともに強くなっていった。
それから、さらに歳月が流れた。
葵が十六を迎える頃には、少年の面影をわずかに残しながらも、一人の主として屋敷を治めるまでになっていた。
蒼馬たちもまた、苦楽をともにする仲間として、主である葵を支えるようになっていた。
その姿を見届けた松雲は、自らの庵へ戻ることを決めた。
指南役としての務めが終わるわけではない。
何かあれば、いつでも駆けつけるつもりでいた。
それでも、毎日のように顔を合わせてきた日々が終わると思えば、胸にぽっかりと穴が開いたような寂しさを、どうすることもできなかった。
屋敷を離れる日、門前には一挺の駕籠が用意されていた。
松雲が駕籠へ乗り込むのを、葵と蒼馬たちは静かに見送った。
やがて駕籠が動き出す。
簾の隙間から振り返ると、屋敷の門前に立つ葵の姿が見えた。
我が手を離れていくことは寂しい。
けれど、それこそが、ずっと願い続けてきた葵の成長なのだ。
(これが、親の気持ちなのか……)
寂しさの奥に、静かな喜びがあった。
あの日、独りにはしないと誓った幼子は、今、かけがえのない仲間たちとともに、自らの道を歩み始めている。
松雲は、遠ざかっていく葵の姿を追うように目を細めた。
「どうか、己の道を生きよ」
その願いは、屋敷が見えなくなったあとも、松雲の胸に残り続けた。




