第3章 第41話「時の彼方から」
――禁呪の書
「しばし、こちらでお待ちください」
松雲はそう告げると、静かに立ち上がった。
お楽の方は、ただ小さく頷いた。
松雲ならば、必ず道を見つけてくれる。
その眼差しには、すがるような信頼があった。
松雲は行灯を手に部屋を出ると、屋敷の裏手へ向かった。
庭のさらに奥、生い茂る木々に隠れるように、一棟の古い蔵が建っていた。
漆喰は長い歳月を経て薄汚れ、重い扉には太い注連縄が掛けられている。
そこには、松雲が長年にわたり集めてきた呪具や古文書のうち、決して人目に触れさせてはならぬものが封じられていた。
松雲でさえ、足を踏み入れることはほとんどない。
注連縄を解き、懐から取り出した鍵を錠前に差し込む。
重い音を立てて、錠が外れた。
扉を押し開けると、冷たく澱んだ空気が流れ出した。
松雲が足を踏み入れようとした、そのときだった。
「松雲様」
小さな声が、背後から呼び止めた。
振り向くと、杏が松雲の肩の高さに浮かんでいた。
「お楽様のお願いとはいえ、あまりにも危険でございます」
杏の大きな瞳が、不安に曇っている。
「時の理に触れるなど、人の身に許されたことではありませぬ」
松雲はしばらく黙って杏を見つめていた。
「分かっておる」
「いいえ。松雲様は、分かっておられませぬ」
杏は小さな両手を胸元で握り締めた。
「もし、何か取り返しのつかぬことが起きたら……」
その先を言葉にできず、杏は唇を噛んだ。
松雲は、そんな杏から静かに目を逸らした。
「それでも、あの方の苦しみを見過ごすことはできぬ」
「松雲様……」
「ここで待っていなさい」
それだけ告げ、蔵の暗がりへ足を踏み入れる。
「お待ちください」
杏も慌てて、そのあとを追った。
蔵の中には、古びた巻物や異様な形をした仮面、見慣れぬ獣の骨などが所狭しと並んでいた。
行灯の明かりが揺れるたび、それらの影が生き物のように壁を這う。
松雲は最も奥の棚から、幾枚もの護符が貼られた細長い箱を取り出した。
一枚ずつ剥がしていくその手を、杏は見つめていた。
最後の護符に指が掛かる。
(もう、私には松雲様をお止めできない)
ならば、せめて――。
(御身に何かあれば、私がお守りする。それが、松雲様の式たる私の務め)
杏は胸元の手をほどき、松雲の傍らへ寄った。
「……すまない」
松雲は、杏に聞こえぬほどの声で呟いた。
最後の護符を剥がし、箱の蓋を開ける。
中に収められていたのは、一冊の書物だった。
擦れた黒革の表紙。その中央には、円と星を幾重にも重ねた紋様が、金色で刻まれている。
いつ、誰がこの国へ持ち込んだのかさえ、定かではなかった。
松雲が表紙に手を掛けた瞬間、掌の下で何かが脈打った。
まるで書そのものが、長い眠りから目覚めたかのようだった。
指先に霊力を込め、ゆっくりと表紙を開く。
次の瞬間――。
頁の隙間から、まばゆい光が溢れ出した。
行灯の明かりが掻き消され、蔵の中が青白く染め上げられる。
黄ばんだ頁には、異国の文字と複雑な図形がびっしりと記されていた。
読めるはずのない文字だった。
ところが、その光が松雲の瞳へ入り込んだ途端、文字の意味が奔流となって意識の内へ押し寄せてきた。
術そのものが、魂へ直接語りかけてくる。
松雲の指が、一つの頁で止まった。
「……クロノス」
聞き覚えのない名が、その口からこぼれた。
やがて頁の光が消えると、蔵には再び行灯の明かりだけが残った。
松雲は禁書を閉じ、杏を伴って蔵を出た。
部屋へ戻ると、お楽の方は先ほどと変わらぬ姿で待っていた。
松雲の腕に抱えられた黒い書へ目を留め、その表情がわずかに強張る。
「庭へ参りましょう」
促され、お楽の方は立ち上がった。
その傍らを通り過ぎようとした松雲の袖を、そっと掴む。
「松雲様」
松雲が足を止める。
「お願いします」
その声は、かすかに震えていた。
松雲は目を伏せた。
袖を掴む指に、すべてを託されている。
正しいか、正しくないか。
そう問い直すべきところを、松雲はすでに通り過ぎていた。
この方の望みを叶えたい。
「必ず」
それだけを告げ、庭へ向かった。
背後で、杏が小さく息を呑んだ。
庭には、白い月明かりが降り注いでいた。
松雲は庭の中央へ進むと、東西南北に札を置き、地面に大きな円を描いた。
その内側へ、禁書によって意識に刻み込まれた異国の紋様を写し、陰陽道の五芒星と重ねていく。
本来、交わるはずのない二つの術が、一つの円の中に収まっていった。
お楽の方は胸元で両手を固く組み、松雲の一挙一動を追っていた。
(なにとぞ、徳川の血を引く男児を、わらわのもとへ――)
松雲は円の中央に禁書を開いて置いた。
「来たれ、我が式」
庭の片隅で、闇がゆらりと揺れた。
その奥から、一匹の黒猫が音もなく姿を現す。
艶やかな漆黒の毛並み。
闇に浮かび上がる、二つの金色の瞳。
黒猫は迷うことなく松雲のもとへ歩み寄り、その足元に座った。
「クロ」
呼びかけに応えるように、金色の目が細められる。
松雲はその場に膝をつき、左手をクロの背に置いた。
右手で印を結び、静かに目を閉じる。
風が止んだ。
虫の音も、木々のざわめきも消えた。
屋敷を取り巻く夜のすべてが、息を潜めたかのようだった。
やがて月に黒い雲がかかり、辺りが深い闇に沈んでいく。
松雲が、低く呪を唱え始めた。
「――時を司りし神、クロノスよ」
地面に描かれた紋様が、一筋ずつ青白い光を帯びていく。
「汝が隔てし、久遠の流れに願い奉る」
円の中央で、禁書の頁が激しくめくれ始めた。
クロの金色の瞳が、まばゆい光を放つ。
「遠き先の世より、徳川の血を継ぎし者を――」
術の円から立ち上った光が、渦を巻きながら天へ伸びていく。
松雲の髪と衣が、見えぬ力に煽られて激しく揺れた。
「まだ何ものにも染まらぬ、幼き男子を――」
空間が軋んだ。
耳を塞ぎたくなるような音が響き、庭の景色が水面のように大きく歪んでいく。
お楽の方は眩しさに目を細めながらも、顔を背けなかった。
杏は松雲のもとへ飛ぼうとした。
だが、小さな身体は吹き荒れる風に押し戻され、近づくことができない。
「今、この地へ導きたまえ――」
松雲が最後の印を結ぶ。
その瞬間、クロが鋭く鳴いた。
「――時の門よ、開け!」
轟音とともに、光の柱が天へ立ち昇った。
夜が、一瞬にして白く染まる。
庭の木々が大きくしなり、地面に置かれた札が一斉に舞い上がった。
青白い炎に包まれ、瞬く間に燃え尽きていく。
それでも松雲は、結んだ印を解かなかった。
お楽の方の願いを叶える。
その一念で、荒れ狂う力に抗っていた。
やがて、渦巻く光の中央に、小さな影が浮かび上がった。
影は次第に人の形を取り、そのまま地面へ投げ出された。
次の瞬間、光の柱が弾けた。
強い衝撃が庭を駆け抜ける。
そして、すべての音が消えた。
雲が流れ、再び月が姿を現した。
淡い月明かりの下、術の円の中央に、小さな子どもが倒れていた。
年の頃は、三つほど。
黒い髪に、白い肌。
身につけているのは、半袖の上衣と膝の出た短い穿き物だった。
足元を覆う小さな履物も、松雲たちには見覚えのないものだった。
お楽の方は、息をすることも忘れたように、その子を見つめていた。
松雲は印を解き、幼子の傍らへ膝をついた。
首筋へ指を当てる。
脈はある。
確かに、生きている。
「遠い先の世より……参った者にございます」
言い終えるより早く、お楽の方が幼子のもとへ駆け寄った。
地面に膝をつき、ためらいがちに手を伸ばす。
指先が頬に触れると、幼子がかすかに身じろぎした。
長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開く。
覗いたのは、澄んだ大きな瞳だった。
幼いながらも整った顔立ちには、不思議なほど凛としたものがある。
幼子は見知らぬ夜の庭と、見知らぬ装いの者たちを見回した。
「……ここ、どこ?」
小さな声が、静まり返った庭に響いた。
お楽の方の胸が、大きく震える。
「大丈夫じゃ」
そっと手を差し入れ、その子を抱き上げた。
「怖くはない。わらわがついておる」
幼子は、お楽の方の顔をじっと見つめていた。
何が起きたのか、まだ分からぬ様子だった。
小さな身体の温もりが、腕の中から伝わってくる。
あまりにも柔らかく、頼りない命だった。
この子が、家綱様に代わって、将軍という重責を担ってくれる。
そう思うと、胸の奥から熱いものが込み上げた。
「……なんと、愛らしい」
お楽の方の指が、幼子の黒髪をそっと撫でる。
そのとき、短い穿き物のポケットから、何かが滑り落ちた。
松雲の足元に、小さな一枚の札が落ちる。
紙とも木とも異なる、薄く硬い札だった。
滑らかな表面が、月明かりを受けて淡く光っている。
松雲はそれを拾い上げ、目を凝らした。
寸分の乱れもない文字で、こう記されていた。
氏名 徳川 葵
「徳川……」
松雲の声に、お楽の方が顔を上げた。
「何と記されておる」
「この幼子の名にございます」
記された文字を、一つずつ確かめるように読み上げる。
「徳川――葵」
「葵……」
お楽の方の瞳が、大きく見開かれた。
徳川の名。
そして、葵。
それはお楽の方にとって、願いが届いた何よりの証だった。
腕の中の子へ、目を戻す。
「そなたは、葵というのじゃな」
幼子は、お楽の方を見つめて小さく頷いた。
「あおい」
「そうか。葵か」
お楽の方は愛おしそうに微笑んだ。
「よい名じゃ。徳川家の御紋たる葵を、その名に戴いておる」
幼子の頬を、そっと胸元へ抱き寄せる。
この子がいれば、家綱様を救える。
ならば、何があろうと守らなければならない。
「葵」
確かめるように、もう一度その名を呼んだ。
「今日より、そなたはわらわが守る」
葵はその言葉の意味も分からぬまま、お楽の方の胸に頬を預けていた。
松雲は、そんな二人を黙って見つめた。
術は成った。
遠い先の世から、一人の幼子が呼び寄せられた。
だが――。
(この子は、本当に徳川の血を引いているのか……)
手の中の札へ、目を落とす。
そこには確かに、徳川の名がある。
術が願いに応じたのなら、その望みにかなう子が選ばれたはずだった。
けれど、その名だけで血筋まで確かめることはできない。
松雲は、幼子を抱くお楽の方へ目を向けた。
先ほどまでの張りつめた表情は消え、その顔には安堵が浮かんでいる。
疑念を口にすれば、その安堵は失われる。
松雲は、言葉を呑み込んだ。
お楽の方の望みを叶えたい。
その想いに従って禁書を開き、今また、その想いのために黙っている。
腕の中の幼子は、何も知らない。
この子にも、先の世で帰るべき場所があったはずなのだ。
松雲は懐から白い紙を取り出し、札を丁寧に包んだ。
そして、懐の最も奥へ納める。
葵がどこから来たのかを示す、ただ一つの品。
これだけは、失ってはならないと思った。
「お楽様」
呼びかけると、お楽の方が顔を上げた。
「この子を、どうか大切にお育てください」
「もちろんでございます。命を懸けてお守りいたします」
迷いのない返事だった。
松雲は頷いた。
その約束に、すがるほかなかった。
「松雲様……ありがとうございます。なんとお礼を申し上げればよいのか……」
お楽の方は幼子を抱いたまま、深く頭を下げた。
「礼など、必要ございません」
松雲は静かに首を振った。
「ただ、この子が健やかに育つよう……どうか」
お楽の方は頷き、腕の中の幼子を抱き寄せた。
葵は重たげに瞼を伏せ、やがて、すうすうと寝息を立て始めた。
「まあ……」
お楽の方の頬が、柔らかくほころぶ。
「安心してお眠りなさい。わらわが、ついておりますよ」
小さな背を撫でる手は、いつまでも止まらなかった。
夜が明ける前に城へ戻らなければならない。
お楽の方は眠る幼子を胸に抱き、迎えの駕籠へ乗り込んだ。
松雲は門前に立ち、その影が夜の闇へ消えていくまで見送っていた。
やがて、辺りに静寂が戻る。
その途端、松雲の身体が大きく揺らいだ。
「松雲様!」
杏が飛び寄る。
松雲は膝から崩れ落ち、片手を地面について、辛うじて身体を支えた。
「松雲様、しっかりしてください!」
「……案ずるな、杏」
苦しげに息をつきながら、それでも笑ってみせる。
「少し……力を使いすぎただけだ」
「少しどころではございません!」
杏は泣きそうな顔で、松雲の肩に小さな手を添えた。
「今宵は、もう何もなさらず、お休みください。お願いでございます」
「ああ……そうしよう」
返事を聞き、杏はようやく詰めていた息を吐いた。
だが、松雲は立ち上がれなかった。
駕籠の消えていった闇の向こうを、見つめ続けている。
「あの子は……いつの日か、徳川の未来を大きく変えることになるだろう」
「松雲様……?」
杏が見上げる。
松雲は、それ以上何も答えなかった。
肩に添えられた小さな手の温もりを感じながら、その場に膝をついていた。
庭では、クロが金色の瞳を細め、静かに闇を見つめていた。
燃え尽きた術札の灰が、風に運ばれて地面へ落ちていく。
その中の一片が、ふいに空中で止まった。
落ちることも、舞い上がることもなく、しばらく同じ場所に浮かんでいる。
やがて灰は、何事もなかったかのように地面へ落ちた。
それに気づいた者は、誰もいなかった。




