第3章 第40話 禁じられた願い
慶安二年――。
深夜、江戸城。
月明かりさえ届かぬ長い廊下を、お楽の方は急ぎ足で進んでいた。
身にまとっているのは、侍女が着るような地味な色の小袖だった。華やかな簪もすべて外し、頭から深く被衣をかぶっている。今宵ばかりは、将軍家の世継ぎである家綱の生母だと、誰にも悟られてはならなかった。
足音を忍ばせているつもりでも、一歩進むたび、衣擦れの音が妙に大きく聞こえた。
今宵の外出と、その目的を知る者は、長年仕えてきた老女房ただ一人だった。
人目につかぬ裏門には、すでに駕籠が用意されている。
向かう先は、秘術を操る陰陽師――松雲の庵であった。
江戸城を離れた駕籠は、闇に沈む街道をひた走った。
やがて深い森の前へ辿り着くと、お楽の方は供の者たちをそこに残し、月明かりだけを頼りに一人で森へ足を踏み入れた。
そこは、人々から〈結界の森〉と呼ばれていた。
一度迷い込めば、どれほど歩いても同じ場所へ戻される。
森の奥には仙人が住むとも、恐ろしい物の怪が棲むとも囁かれていたが、その真相を知る者はほとんどいなかった。
お楽の方は、細い獣道を懸命に進んだ。
しかし、しばらくすると、先ほど通り過ぎたはずのひときわ太い大木が再び目の前に現れた。
別の道を選んでも、また同じ場所へ戻ってきてしまう。
「松雲様……」
不安に揺れる声が、暗い森へ吸い込まれていった。
その頃、陰陽師・松雲は、庵の灯火の下で古びた書物を読んでいた。
松雲が頁の端に指をかけた、そのときだった。
「松雲様、松雲様!」
高く澄んだ声とともに、小さな人影が庵へ飛び込んできた。
背丈は、大人の手のひらほどしかない。
白衣に緋袴という巫女の装束をまとい、艶やかな黒髪を後ろで一つに束ねている。くりくりとした丸い目と、背に生えた小さな白い羽が、愛らしい印象を与えていた。
松雲に仕える人型の式神、杏である。
杏は懸命に白い羽を動かし、松雲の肩へちょこんと降り立った。
「そのように慌てて、どうしたのだ、杏」
「お楽様がいらしています。けれど、森の中で同じところを行ったり来たりして、庵へ辿り着けずにお困りです。早く結界を解いて差し上げて!」
「お楽様が……?」
松雲は思わず立ち上がった。
杏は小さく声を上げ、慌ててその肩から宙へ舞い上がった。
(このような夜更けに、なぜ……)
松雲の顔に浮かんだ動揺を、杏は見逃さなかった。
「松雲様……?」
心配そうにその顔を覗き込んだ。
「いや、何でもない」
松雲はそう答えたが、その声はわずかに揺れていた。
(……ただ事ではあるまい)
杏は、松雲が長い年月、誰を想い続けてきたのかを知っていた。
口に出すことさえ許されぬ想いを胸の奥へ封じ、ただ遠くからその人の幸せを願ってきたことも――。
「杏がお迎えにいって参ります」
そう告げると、杏は小さな白い羽を広げ、庵の外へ飛び出していった。
松雲もすぐに外へ出ると、片手を掲げ、素早く印を結んだ。
低くまじないを唱えると、木々の梢がざわめき、森を覆う空気が水面のように揺らいだ。
重なり合っていた木々の影が左右へ退き、庵へ続く一本の細い道が現れた。
しばらくして――。
戸を叩く控えめな音がした。
「……松雲様。いらっしゃいますか」
聞き覚えのある声だった。
弱々しく、それでいて何かに追い詰められているような響きがあった。
松雲は急いで戸を開けた。
お楽の方が被衣を外すと、その額には汗が滲んでいた。
「お楽様、お一人でこの森へ入られるとは、あまりに不用心でございます」
履物の先は土に汚れ、裾には小さな葉がついていた。
それでも、その姿から気品が失われることはなかった。
地味な小袖に身を包んでいても、その清らかな美しさは隠しようがなかった。
松雲の胸が、痛いほど高鳴った。
お楽の方の裾についた木の葉へ手を伸ばしかけ、松雲はそっと指を引いた。
「このような夜更けに、いかがなさいました」
動揺を悟られぬよう、松雲は静かに尋ねた。
「ともかく、こちらへ。さぞお疲れでございましょう」
松雲は、お楽の方を庵へ招き入れた。
杏も心配そうに二人のあとへ続き、灯明のそばへ舞い降りた。
松雲が湯を用意しようとすると、お楽の方はそれを制した。
「いいえ、お構いなく。今宵は……松雲様に、どうしてもお願いしたいことがあって参りました」
その声には、ただならぬ決意が滲んでいた。
「……どうか、わたくしの願いを聞いてください」
お楽の方は座につくなり、畳へ両手をつき、深々と頭を下げた。
「お楽様、お顔をお上げください」
松雲は慌てて声をかけた。
将軍の御側室たる方が、自分に頭を下げている。その事実だけで、願いが尋常なものではないと分かった。
「まずは、お話を伺いましょう」
お楽の方は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、すでに涙が浮かんでいた。
「先日、家綱はいずれ上様の跡を継ぎ、将軍となるのだと、改めて告げられました」
松雲は黙って頷いた。
「けれど、家綱はまだ七つ。あの幼い身体に、将軍という重責を背負わせることなど、私には耐えられません」
「家綱自身も、いずれ将軍となるのだと、周囲から繰り返し聞かされております。けれど、あの子は弱音一つ吐きません」
「それどころか、私が案じていることに気づき、『母上、私のことなら心配いりません』と……。まだ七つの子が、私を安心させようとするのです」
お楽の方は、苦しげに胸元を押さえた。
「あの子は、将軍になるのが怖いとは決して申しません。それが家綱の本心なのか、私を案じてのことなのか……私には、もう分からないのです」
堪えていた涙が、その頬を伝った。
「私は母でありながら、あの子に何一つ、親らしいことをしてやれない……」
「そのようなことは――」
「いいえ」
お楽の方は、小さく首を振った。
「世継ぎの母として振る舞うことばかりを求められ、あの子が不安に耐えているときでさえ、抱きしめてやることもできません」
声が途切れた。
庵の中には、灯明の燃える小さな音だけが残った。
杏は灯明のそばに座り、胸の前で小さな手を握りしめていた。
やがて、お楽の方は顔を上げ、まっすぐに松雲を見つめた。
「私は、家綱を将軍にしたくありません」
先ほどまで涙に揺れていた瞳に、強い光が宿っていた。
「もしも、家綱に代わって上様の跡を継げる、徳川の血を引く幼子が、この世のどこかにいるのなら――」
松雲は、黙ったままお楽の方を見つめていた。
「その子を……松雲様のお力で、見つけ出していただくことはできないでしょうか」
松雲の表情が強張った。
「お楽様、いま口にされていることは……」
「ただ血筋を辿るだけでは、家綱様に代わるお方が見つかるとは限りませぬ。それでも、お探しになりたいと仰せですか」
お楽の方は、縋るように身を乗り出した。
「身勝手な願いだということは分かっています。それでも、どうかお力をお貸しください。家綱を……あの子を、お救いください」
松雲は、すぐには答えられなかった。
我が子を救うためなら、どのようなものにでも縋ろうとする、母の切なる願い。
だが、お楽の方は知らない。
その願いを叶えるには、決して用いてはならぬ術に手を染めるほかないことを――。
(――あの術なら)
松雲の脳裏に、蔵の最奥へ封じた一冊の書物が浮かんだ。
(だが、あれは時の理を歪める禁呪……)
その術を用いることで、いかなる代償を支払うことになるのか――。
何一つ、確かなことは分からなかった。
松雲は静かに目を閉じた。
断らねばならない。陰陽師として、それだけは分かっていた。
「松雲様……」
その声に目を開けると、お楽の方が答えを待っていた。
拒むために開いた唇からは、何の言葉も出てこなかった。
「……分かりました」
お楽の方が息を呑んだ。
「それでは……お引き受けくださるのですか」
その顔に、かすかな希望が差した。
「ただし――」
松雲は厳しい表情で、お楽の方を見つめた。
「これから行う術は、人の世の理に背く禁呪でございます」
「禁呪……」
お楽の方の唇から、掠れた声がこぼれた。
「ひとたび術を用いれば、何が起こるか分かりませぬ。徳川の血を引く幼子を呼び寄せることができたとしても、その子の運命を大きく変えてしまうことになるでしょう」
松雲は、一つ一つ言い聞かせるように続けた。
「その罪を、生涯背負わねばなりません。それでもなお、望まれますか」
お楽の方の顔が、一瞬、苦しげに歪んだ。
見知らぬ誰かの人生を変えてまで、我が子を救おうとしている。その罪の重さが、分からぬはずはなかった。
長い沈黙のあと、お楽の方は震える手を膝の上で強く握りしめた。
「……はい」
それでも、膝の上で握りしめた手の震えは止まらなかった。
「必要とあらば、私の命を差し出してもかまいません」
松雲は、悲しげに微笑んだ。
「あなた様のお命を頂くことはございません」
「松雲様……」
「ただ――」
松雲は、言葉を選ぶように続けた。
「今宵より、私どもは同じ罪と秘密を抱えることになります」
お楽の方は、膝の上の手を見つめた。
「誰にも明かすことはできませぬ。生涯、誰にも」
念を押され、お楽の方はゆっくりと顔を上げた。
「……覚悟は、できております」
灯明のそばでは、杏が不安そうに松雲を見上げていた。
術の果てに何が待つのか、杏にも分からなかった。ただ、松雲が己を顧みずに願いを叶えようとしていることだけは、痛いほど分かった。
「松雲様……」
消え入りそうな声で、杏が呼びかけた。
松雲が振り返る。
杏は何かを訴えようとして、けれど言葉にすることができず、小さな手で緋袴を握りしめた。白い羽が、かすかに震えている。
松雲は、そんな杏を安心させるように、ほんの少しだけ微笑んだ。
庵の裏手には、二度と開くまいと心に決めた、禁書を収める蔵がある。
「では――」
松雲は静かに告げた。
「……始めましょう」
松雲は立ち上がり、蔵の鍵を手に取った。
杏は、その背を呼び止められなかった。




