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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第2章 第39話 装いを未来へ

――数日後。

蔵之介が、再び彩案工房を訪ねてきた。


「改めまして、真文堂の蔵之介でございます」

先日の勢いはどこへやら。今日はきちんと居住まいを正し、深々と頭を下げている。

「先日は突然押しかけて、失礼いたしました。ですが、どうしても紗江殿にお願いしたいことがありまして」

そう言うと、蔵之介は懐から何枚かの版画を取り出し、机の上に並べた。

「こちらが、うちで出している本の見本です」


紗江が、そのうちの一枚を手に取った。

そこには、山や川の風景、町を行き交う人々の姿が、驚くほど細やかに描かれていた。

木々の葉の一枚一枚から、着物のしわ、人物の表情に至るまで、今にも動き出しそうなほど生き生きとしている。


「すごい……まるで写真みたい」

「しゃしん、とは?」

蔵之介が怪訝そうに眉を寄せた。

「あっ……ええと、本物の景色を、そのまま切り取ったようだということです」

「なるほど。そいつは、なんとも嬉しい褒め言葉でございますな」

蔵之介は満足そうに頷くと、紗江の方へ身を乗り出した。


「そこで、ですがね。紗江殿が仕立てた着物を、腕の立つ絵師に描いてもらう。それを一冊の本にして売り出せば、江戸ばかりか、遠く離れた土地の人々にも、紗江殿の着物を見てもらえる」

お蘭が感心したように声を上げる。

「それは……素晴らしいお考えですね。紗江様の着物を、もっと多くの方に知っていただけます」


紗江の目も、次第に輝き始めた。

「ファッション雑誌……みたいなものですね!」

「ふぁっしょん……ざっし?」

「あ、ええと……新しい着物を紹介する本、ということです」

紗江が慌てて言い直すと、蔵之介は豪快に笑った。

「ははは! 紗江殿の言葉は、時々さっぱり分かりませんな。ですが、言わんとしていることは伝わりました」


そして、懐からもう一枚の絵を取り出した。

「絵は、この方にお願いしようと思っております。亀山先生です」


その絵を見た瞬間、紗江とお蘭は息を呑んだ。

一人の女性が、着物をまとって立っている。

ただ、それだけの絵だった。

けれど、やわらかく重なる襟元、帯の結び目、袖からのぞく指先、風に揺れる髪のひと筋まで、すべてが生きているように見える。

布の厚みや艶までもが、紙の上から伝わってくるかのようだった。


「すごい……」

紗江は、絵から目を離せなかった。

「女の姿を描かせたら、右に出る者はいねえ――そう評判の絵師でしてね」

蔵之介が、我がことのように胸を張る。

「これから亀山先生のところへお願いに上がるのですが……紗江殿も一緒に来ませんか?」

「はい。お邪魔でなければ、ぜひご一緒させてください!」

紗江は迷うことなく答えた。


――亀山の工房


亀山の工房は、町外れにある古い長屋の一室だった。

蔵之介は慣れた様子で引き戸を開けた。

中へ足を踏み入れると、墨と絵具の入り混じった独特の匂いが漂ってくる。

障子越しに差し込む午後の光が、室内を舞う細かな埃を淡く照らしていた。

壁際には描きかけの絵が何枚も立てかけられ、床には筆や硯、色皿が所狭しと並んでいる。


「亀山先生ー! いらっしゃいますか」

蔵之介が奥へ向かって大声を張り上げると、一人の男が姿を現した。

年の頃は、五十を過ぎたあたりだろうか。

痩せた体つきに、白髪交じりの髪。身にまとっているのは質素な着物だが、その目だけは鋭く、静かな光を宿していた。


「蔵之介。そんなにでかい声を出さんでも、聞こえるわ」

「これは失礼いたしました」

そう言いながらも、蔵之介に悪びれた様子はない。

「先生に、ぜひお願いしたい仕事がありまして」

蔵之介は紗江を振り返った。

「こちらが、今や江戸中で噂の紗江殿です」


亀山は何も言わず、紗江をじっと見つめた。

顔立ち、髪形、着物の合わせ方、そして立ち姿。

その視線は人を見るというよりも、すでに頭の中で一枚の絵を描いているかのようだった。

やがて亀山は、小さく頷いた。

「……なるほど。よい立ち姿をしておられる」

「えっ?」

思いがけない言葉に、紗江は目を瞬かせた。


亀山は蔵之介へ視線を戻した。

「この方の姿を描けというのか」

「いえ。此度お願いしたいのは、紗江殿が仕立てた着物を主役にした姿絵ですよ、先生」

蔵之介は、ここへ来た目的を熱っぽく語った。

紗江がこれまで生み出してきた着物を絵に残し、一冊の本として世に送り出したいこと。

それを手にした人々が、まだ見たことのない新しい装いを楽しめるようにしたいこと。


亀山は口を挟まず、静かに聞いていた。

蔵之介が語り終えても、すぐには答えなかった。

目を伏せ、しばし考え込んだ後、ゆっくりと頷く。

「……面白いお話です」

亀山は顔を上げ、紗江を見た。

「ですが、一つ伺いたい。着物を主役にするからには、形や柄を詳しく描くだけでよろしいのでしょうか」


紗江は少し考えてから、口を開いた。

「その着物を着たとき、どんなふうに過ごせるのか……そこまで伝わったら、嬉しいです」

「どんなふうに?」

「たとえば、旅装束なら、歩きやすいだけでなく、旅先で人に会うのが楽しみになるように。晴れ着なら、着た人が少し胸を張れるように」

話しながら、紗江の声に熱がこもった。

「私、着物を仕立てるときは、着る人の姿を思い浮かべるんです。どこへ行くのか、何をするのか。その人が気持ちよく着られるようにしたくて」


亀山は、しばらく紗江を見つめていた。

やがて、その口元がほころんだ。

「それで、着物が主役の姿絵ですか」

蔵之介が、膝を打った。

「そういうことですよ、先生!」


亀山は小さく頷いた。

「お引き受けいたしましょう」

「本当ですか!」

紗江が思わず一歩前へ出る。

「ええ。布を広げて見るだけでは分からぬ工夫もありそうだ。ぜひ、お話を聞きながら描かせていただきたい」

「ありがとうございます、亀山先生!」


紗江が深く頭を下げると、亀山は穏やかに続けた。

「そういえば、町で噂を聞いております。米を配られたのも、紗江殿だとか」

「あっ、はい。皆で手分けして配ったんです」

「うちの若い者たちも、喜んでおりましたよ」

「そうだったんですか」

「その者たちにも、手伝ってもらいましょう。今から張り切る顔が目に浮かびます」

紗江は嬉しそうに笑い、改めて頭を下げた。

「よろしくお願いいたします」


それからというもの、紗江は毎日のように亀山の工房へ通った。

彩案工房にある着物だけでなく、持ち主に願い出て、一時借り受けた衣装も一着ずつ運び込む。


初めて作った二部式の着物。

夕霧太夫のために仕立てた、異国の装いを取り入れたマーメイドドレス。

桔梗姫が旅に出るために作った、動きやすく美しい旅装束。

そして、市川團十郎の舞台を彩った数々の衣装。


どれも、紗江が江戸で出会った人々のために考え、悩み、心を込めて仕立てたものだった。

紗江は包みを開くたび、懐かしそうに目を細めた。預かった衣装は裾や袖が床につかないよう、いつにも増して丁寧に広げた。


亀山は、一着一着を丹念に見つめた。

袖を広げ、布の重なりを確かめ、ときには指先で織り目をなぞる。

「この襟は、なぜこのような形に?」

「襟足がきれいに見えるようにしたんです」

「なるほど。では、その工夫が分かる向きから描きましょう」

紗江が着物に込めた思いを語るたび、亀山は短く頷き、紙の上に線を重ねていった。


ただ形を写すのではない。

なぜ、この形になったのか。

誰のために作られたのか。

その着物が生まれるまでの物語ごと、絵の中へ封じ込めようとしていた。


そして、最後に残ったのは、特別な二着だった。


「今日は……この二着をお願いいたします」

紗江は、二つの包みへ目を落とした。

「どちらも、私にとって特別な着物なんです。この二着を見るたびに、決して半端な気持ちで仕事をしてはいけないと、背筋が伸びるんです」

そう言って、包みを一つずつ慎重に開いた。


最初に現れたのは、市川團十郎が舞台で身につけた《光の打掛》。

誠一が織り上げた反物から仕立てた、紗江にとって忘れることのできない衣装だった。

光を受けるたび、織り込まれた糸が淡く輝き、布の上に光の波が走る。

亀山の目が、大きく見開かれた。

「これは……」


言葉を失った亀山の前で、紗江はもう一つの包みを開いた。

そこから現れたのは、淡い金色の着物だった。

京都の西陣で、弥吉が紗江に託した反物から仕立てた一着である。

誠一から受け継いだ技と、弥吉ならではの新しい感性。

その二つが溶け合った布は、光が当たるたび、水面のように静かに揺らめいた。


「こちらは、京都から持ち帰った反物で仕立てた着物です」

紗江は、布を愛おしそうに見つめた。

「誠一さんから技を受け継いだ弥吉さんが、私に託してくれた反物なんです」


亀山は何も言わず、二着の前に座り込んだ。

布に触れることなく、ただじっと見つめている。

長い沈黙の後、亀山は静かに口を開いた。

「この二着は……本の最後に載せましょう」

その声には、絵師としての覚悟が込められていた。

「そして、特別な絵具を使いたい」

「特別な絵具……?」

「雲母を混ぜます。光をただ色で描くのではなく、紙の上に本物の輝きを宿すのです」


亀山は《光の打掛》へ目を向け、続いて淡い金色の着物を見た。

「受け継がれてきた技と、新しく生まれた美しさ。その両方が、ここにある」

そして、紗江を見上げた。

「この光を、私の筆で表現させてください」

「はい」

紗江は胸の前で手を重ね、ゆっくりと頷いた。

「お願いいたします」


亀山は筆を取った。

白い紙の上に、一本の線が引かれる。

その線は、やがて人の輪郭となり、着物の形となっていく。

幾重にも色が重ねられ、淡い影が生まれ、金色の光が宿る。

ただの紙だったものが、亀山の筆によって布となり、色となり、命を持ち始める。


紗江は息をすることも忘れ、その様子を見つめていた。

「すごい……本当に、生きているみたい」

「そう見えるのなら、何よりです」

亀山は筆を動かしたまま、わずかに笑った。


工房では、亀山の弟子たちも制作に加わっていた。

若い絵師たちが、師の描いた線に色を施し、帯や刺繍の細部を丁寧に描き込んでいく。

「師匠、この帯の結び目は、もう少し影を深くした方がよいでしょうか」

「ああ。その方が、布の重なりが分かる。頼む」

「こちらの袖は?」

「光の向きをよく見なさい。明るくするだけでは、輝きにはならん」

皆、真剣な眼差しで紙に向かい、休む間も惜しんで筆を動かしていた。


ある日、一人の若い絵師が作業の手を止め、紗江に声をかけた。

「紗江様……」

「はい?」

若者は少し照れくさそうに笑った。

「俺たちも、あの米をいただいたんです」

「え……?」


「あの頃は、いつも腹をすかせていましてね。絵を描こうにも、どうにも気が乗らなくて」

若者は、手にした筆へ目を落とした。

「絵だけじゃありません。何をするのも億劫で、ぼんやりしてばかりいたんです」

周囲にいた弟子の一人も、苦笑しながら頷いた。

「腹が減ると、何もしたくなくなるんですよね」

「そうそう。けれど、いただいた米を炊いて、久しぶりに腹いっぱい食ったら……不思議と、描きかけの絵が気になりまして」

若者は、紗江を見て笑った。

「よし、続きを描こうって、そんな気になれたんです」


紗江の顔にも、笑みが広がった。

「そうだったんですね」

「はい。だから、紗江様の着物を描くと聞いたときは、嬉しくて。少しでも、お礼ができればと思っていたんです」

「ありがとうございます。皆さんに描いていただけて、私も嬉しいです」

紗江が頭を下げると、若者たちは照れたように顔を見合わせた。


亀山が、筆を動かしながら口を開いた。

「ならば、紗江様によい絵をお見せせんとな」

「はい!」

若い絵師たちは笑顔で応じ、再び紙へ向き直った。


やがて絵が揃うと、蔵之介はそれを大切に受け取り、版を彫る職人へと託した。


着物の輪郭も、帯の細かな模様も、一本一本の線が版木に彫り出されていく。

摺り上がった絵を前に、亀山と蔵之介は幾度も顔を寄せた。

「ここの色は、もう少し淡く。これでは、せっかくの柄が沈んでしまう」

「なるほど。こちらの袖はいかがです?」

「うむ。よい具合です」


最後の二着には、とりわけ手間をかけた。

雲母を施したところが光を受けるたび、亀山は紙を傾け、輝き方を確かめた。


そうして摺り上がった一枚一枚が順に重ねられ、糸で綴じられていった。

紗江が工房へ運んだ着物は、多くの職人の手を経て、一冊の本になろうとしていた。


――ある秋の日。

蔵之介が、息を弾ませながら彩案工房へ駆け込んできた。


「紗江殿! できましたよ!」

その声に、お針子たちが一斉に顔を上げた。

蔵之介は、一冊の本を大切そうに胸に抱えていた。

「ついに……完成したんですか?」

「ええ。こちらでございます」

蔵之介は誇らしげな笑みを浮かべると、その一冊を紗江へ差し出した。


表紙には、色とりどりの花々が描かれていた。

その中央に、金色の文字で題名が記されている。


『元禄美装録』


紗江は、しばらくその五文字を見つめていた。

「元禄……美装録……」

声に出してから、もう一度、目で文字をたどった。


「この元禄の世に生まれた、美しき装いの記録」

蔵之介が、いつになく静かな声で言った。

「亀山先生や弟子たちとも相談して、皆で名付けたんです。紗江殿の着物を残す本ですからね。名付けにも、ずいぶん頭をひねりましたよ」


紗江は蔵之介を見上げた。

「皆さんで……」

「ええ。いかがでしょう」

「……とても、素敵です」


紗江は両手で、その本を大切に受け取った。

江戸へ来たばかりの頃には、思いもしなかった。

自分が仕立てた着物を、こんなふうに一冊の本にしてくれる人たちと出会えるなんて。


「ありがとうございます」


胸がいっぱいで、それだけを伝えるのがやっとだった。


紗江は、そっと表紙を開いた。

最初の頁には、二部式の着物をまとった女性が立っていた。

亀山の筆が、布の艶や刺繍の細やかさを、息づくように描き出している。


頁をめくるたび、見覚えのある衣装が現れた。

夕霧太夫のために仕立てた、マーメイドドレス。

桔梗姫の旅立ちを支えた、動きやすく美しい旅装束。

そして、市川團十郎の舞台を彩った数々の衣装。

それをまとっているのは、夕霧太夫や桔梗姫、市川團十郎本人ではない。


けれど、描かれた衣装を目にするたび、紗江の心には、その衣装を仕立てた日の光景が鮮やかによみがえった。

夕霧太夫の艶やかな微笑み。

新たな道へ踏み出した桔梗姫の、晴れやかな顔。

舞台の上で堂々と見得を切る、市川團十郎の姿。


「あのときの衣装……これも……」

懐かしさと喜びが込み上げ、胸がいっぱいになった。

そして、最後の頁を開いた。


見開きいっぱいに描かれていたのは、特別な二着だった。

市川團十郎が舞台でまとった《光の打掛》。

そして、弥吉から託された、淡い金色の着物。

紗江がわずかに本を傾けると、雲母を混ぜた絵具が光を受け、二着の上を淡い輝きが走った。

まるで、本物の布の上で光が揺れているようだった。


受け継がれてきた技。

新しく生まれた夢。

着物に込められた人々の思いまでもが、亀山と弟子たちの筆によって、そこに描き出されていた。


紗江は指先で、そっと頁の端に触れた。

「すごい……」

声が震え、目から涙がこぼれた。

「本当に……形になったのですね」


隣では、お蘭が静かに目元を押さえていた。

お梅は頁を覗き込み、ある模様のところで目を留めた。

「紗江様……この刺繍まで、こんなに細かく」

「ええ。糸の重なりまで分かるわね」

紗江が頷くと、お梅は嬉しそうに目を細めた。


「こちらの袖、私が縫ったところです」

一人のお針子が、遠慮がちに声を上げた。

「そうだったわね」

「何度も縫い直したので、よく覚えています」

その言葉に、皆から笑みがこぼれた。

後ろにいた者もそっと身を寄せ、本を囲む輪が少しずつ小さくなった。


その様子を見届けると、蔵之介は胸を張った。

「この本は、真文堂だけではなく、絵文社にも置きます。それから、加賀屋と越後屋の店先にも並べていただけることになりました」

「そんなにたくさんの場所に……?」

「ええ。江戸中の人が、紗江殿の着物を見られるようになります」


蔵之介は、まっすぐに紗江を見つめた。

「紗江殿が配った米を、うまかったと喜んでいる者が大勢おります」

そして、『元禄美装録』へ目を落とした。

「今度はこの本を見て、どんな着物を着ようかと楽しみにする者が増えるでしょうな」


紗江は、本を胸に抱きしめた。

自分一人では、決して作ることのできなかった一冊だった。


着物を織った者。

仕立てた者。

それを身につけた者。

絵を描いた者。

版を作り、本として世に送り出した者。

大勢の人の手と心が重なって、『元禄美装録』は生まれたのだ。


――数日後。

『元禄美装録』が売り出されると、瞬く間に江戸中の評判となった。

本屋の前には人だかりができ、娘たちは本を手に取って目を輝かせた。


「見て! この着物、なんて素敵なの!」

「この旅装束なら、私も着てみたいわ」

「最後の打掛も見て。まるで本当に光っているみたい」

「彩案工房へ行けば、仕立ててもらえるのかしら?」

本を抱えた娘たちが、期待に胸を弾ませながら町を歩いていく。


加賀屋の店先でも、『元禄美装録』は飛ぶように売れていた。

次々と本を手に取る客たちを眺めながら、女将は感心したように腕を組む。

「まったく、紗江様の勢いは大したもんだねぇ。店先に並べたそばから、どんどん売れていくよ」

呆れたような口ぶりとは裏腹に、その顔には誇らしげな笑みが浮かんでいた。


一方、越後屋でも、積み上げられた本はみるみるうちに数を減らしていた。

清之助は『元禄美装録』を一冊手に取り、表紙を静かに見つめた。

「紗江様は、また一つ、大きなことを成し遂げられたのですね」

その眼差しに、迷いはなかった。

「紗江様がこれほど励んでいらっしゃるのです。私も負けてはいられません」

清之助は本をそっと店先へ戻すと、気持ちを新たにするように背筋を伸ばした。


そして、彩案工房にも、それまで以上に多くの客が訪れるようになった。


「『元禄美装録』に載っていた着物を、仕立てていただきたいのですが」

「この襟の形にしていただけますか?」

「あの旅装束と同じものを、娘に作ってやりたいんです」

次々と舞い込む注文に、お針子たちは嬉しい悲鳴を上げた。


「お梅さん、こちらの寸法をお願いします!」

「お鈴さん、この布を裁ってもらえる?」

「はい、すぐに!」

彩案工房には、朝から晩まで針と鋏の音が響いた。

けれど、誰の顔にも疲れを上回る喜びが浮かんでいた。


自分たちが仕立てた着物が本になり、その本を見た人々が工房を訪れる。

お針子たちにとっても、『元禄美装録』は自分たちの仕事が世に認められた証しだった。


――その夜。

仕事を終えた紗江は、部屋で『元禄美装録』を膝の上に置いていた。

窓の外からは、秋の虫の声が聞こえている。


紗江は、表紙をそっと撫でた。

「お蘭……」

「はい」

「私たち、すごいことをしたのかもしれないわね」


どこか信じられないような紗江の声に、お蘭はやさしく微笑んだ。

「ええ」

隣に座り、紗江とともに表紙へ目を落とす。

「お針子たちも、本を覗いては嬉しそうに話しておりましたよ。ここの袖は自分が縫ったとか、この刺繍には苦労したとか」


「ふふ。皆、嬉しそうだったものね」

紗江は笑いながら、もう一度、本を開いた。

見慣れた襟の形も、帯の結び目も、紙の上にあると少し違って見える。

思いどおりの形にならず、何度もやり直したところまで、今は懐かしかった。


「この本、遠くの町の人にも見てもらえるのよね」

「はい。蔵之介様が、そうおっしゃっていましたね」

「どの着物を気に入ってくれるのかしら」


まだ会ったことのない誰かが、この頁をめくる。

隣の人に見せながら、着てみたい一着を選ぶ。

そんな様子を思い浮かべると、紗江の頬は自然と緩んだ。


やがて本を閉じると、紗江はそばに用意していた布を広げた。

角を傷めないように包み、文箱へそっと収める。

「大切にしなくちゃ」

お蘭も、静かに頷いた。


窓の外では、秋の夜風が木々の葉を揺らしていた。


この一冊の『元禄美装録』が、やがて時を越え、遠い未来へと受け継がれていくことを――

紗江は、まだ知らなかった。

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