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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第2章 第38話 笑顔で迎える春

夜の風が、涼しく感じられるようになり、彩案工房には、早くも正月用の晴着の注文が入り始めていた。


お蘭が帳面を開き、紗江の前へ置く。

「こちらも、お正月にお召しになるそうです」

「もう、お正月の支度なのね」

紗江は意匠図から顔を上げた。

「仕立てが重なりますから、早いうちにと。今年は、昨年より多くなりそうでございます」

紗江は帳面に並ぶ注文を眺めた。

「ありがたいわ。これから忙しくなりそう」

「ええ。布の手配も、今のうちから進めておきます」


お蘭が帳面に書き添えるのを見ながら、紗江は少し考えた。

「ねえ、お蘭。今年は、ご近所の皆さんにも何かお礼をしない?」

お蘭の筆が止まった。

「お礼でございますか?」

「荷物が届けば運ぶのを手伝ってくださるし、お客様に道を教えてくださったり……私たち、ずいぶんお世話になっているでしょう」

紗江は、店先でいつも声をかけてくれる人々を思い浮かべた。

「年の暮れに、何かお返しができたらと思って」


「それでしたら、お正月に役立つものはいかがでしょう」

お蘭は少し考え、言葉を継いだ。

「お米はいかがですか。近頃は値も上がっておりますし、どちらのお宅でも召し上がるものですから」

「お米……ええ、それにしましょう」

紗江は身を乗り出した。

「皆さんに、よいお年を迎えていただけるように」

「では、どれほど必要になるか、調べておきましょう」

「ありがとう。工房の皆の分もお願いします」

「ええ、承知いたしました」

お蘭は帳面の新しい頁を開いた。


紗江も意匠図へ目を戻しかけたが、ふと思いついて、傍らの布を手に取った。

「お米を入れる袋も、私たちで作りましょうか」

「袋でございますか?」

「ええ。持ち手をつければ、あとで買物にも使っていただけるでしょう」

布の端を折り、袋の形に重ねてみる。

(まず、一つ縫ってみようかしら)



その晩、紗江は仕事を終えると、布を広げて針を取った。

底と脇を縫い、肩にも掛けられる長さの持ち手をつける。米を入れても外れないよう、付け根には重ねて針を通した。


縫い上がった袋を広げていると、お蘭が部屋を覗いた。

「もう、お作りになったのですか」

「持ってみて」

お蘭は袋に反物を入れ、持ち上げた。

「これなら、肩にも掛けられますね」


そこへ、お梅もやって来た。

紗江から話を聞くと、袋を手に取り、隅を指で押さえる。

「ここに、彩案工房の印を決めて刺したらどうでしょう」

「彩案工房の印……お店の家紋のようなものがあったらいいわね」

紗江は紙を引き寄せ、少し考えてから筆を取った。

「紐を、こんなふうに結んだ形はどうかしら」

左右へふっくらと輪を広げ、その下に二本の端を垂らす。

「これを、彩案工房の印にするの」


お梅が、描かれた飾り結びを覗き込んだ。

「可愛らしいですね。これなら、小さく刺しても形がわかります」

「袋だけでなく、ほかの品にも入れてみませんか?」

お蘭の言葉に、紗江は頷いた。

「ええ。まずは、この袋から」

お蘭は袋の持ち手を整えた。

「この袋を使っていただけたら、工房のことも覚えていただけそうですね」



それからは、晴着の仕立ての合間に、袋作りも進められるようになった。

紗江が布を裁ち、お蘭が縫い合わせ、お梅が飾り結びを刺す。片づけを終えたお絹も、針箱を持って加わった。

行灯の明かりの下で、四人の針が動く。


けれど、晴着の仕事が残る夜には、袋をしまって翌日に備えた。

「まだ日がありますから、今夜はここまでにいたしましょう」

お蘭に言われ、紗江も針を置いた。


用意する数を聞いたお絹は、葵の屋敷の下女たちにも声をかけてくれた。

見本を渡すと、数日後には、丈夫な持ち手のついた袋が届いた。

「皆、快く引き受けてくれましたよ」

紗江は重ねられた袋に手を置いた。

「助かります。皆さんに、ありがとうと伝えてください」


その傍らで、お蘭は数を帳面に記していた。

米屋への注文も済み、届けてもらう日も決まっている。

支度は、少しずつ形になっていた。



そんな折、長雨による不作の話が、工房にも届くようになった。

芋が採れず、米の値も、さらに上がっているという。


「安く腹を満たせるものまで手に入らなくては、暮らし向きの厳しい家は困っているでしょうね」

お絹は買物の包みを置き、息をついた。


紗江は、部屋の隅に積まれた袋へ目を向けた。

「お蘭。ご近所にお配りする分だけでなく、食べるものに困っている方にも、お米を届けられないかしら」

お蘭は手を止め、紗江を見た。

「私も、そのことを考えておりました」

お蘭は針を布へ留め、紗江へ向き直った。

「できるだけ、袋の数を増やしましょう。お米のことは、私から葵様にご相談いたします」

「ありがとう、お蘭。では、もっとたくさん袋を準備しなくちゃ」

紗江は縫い上がった袋を傍らへ置き、新しい布を膝に広げた。

お蘭は帳面を引き寄せ、残っている布と袋の数を書き出し始めた。



お蘭から話を聞いた葵は、後日、澄月庵を訪ねてきた。

積まれた袋を見て、その一つを手に取る。

「これを、皆で縫っていたのか」

「初めは、ご近所へのお礼にと思っていたんです。でも、お米に困っている方にも、お渡しできたらと思って……」

葵は袋を置いた。

「米問屋には、私からも掛け合ってみよう。どれほど用意できるか、確かめておく」

「ありがとうございます」

「私も気になっていた件だ。町役人にも話を通す。特に米を必要としている家のことも、調べてくる」

お蘭が頷き、帳面へ書き留めた。

「配る場所と日も、役人と相談して決めるが、大丈夫か? 少し急いでもらわなければならぬが」

「はい。袋は順に仕上がっております。米が揃いましたら、すぐに用意できます」


その後、葵の働きかけで、米問屋からも米を譲ってもらえることになった。

澄月庵へ米俵が届くたび、お蘭が帳面と照らし合わせる。

広場で米を配る日も決まり、町役人から人々へ知らせてもらうことになった。

紗江たちは、その日までに袋を揃えようと、仕事の合間に針を進めた。



数日後、澄月庵の門前に、一台の荷車が止まった。

いくつもの米俵を積んだその前に、三人の男が立っている。


「あの……こちらに、隼人はいますか」

門の近くにいた蓮が、三人を見た。

「隼人に、何の用だ」


その声を聞きつけ、隼人が顔を出した。

三人を見た途端、足が止まる。

忘れたくても、忘れられない顔だった。


太吉、庄助、留吉。

かつて、寝る場所も食べるものも分け合っていた仲間だった。


「……隼人」

太吉が、ためらいがちに呼びかけた。

「……太吉」

その名を口にした隼人の声が、低くなる。

「よく俺の前に顔が出せるな。それとも、また……」

三人が、揃って頭を下げた。

「すまない、隼人」


傷つけられた足の痛みが、蘇った気がした。

立てずにいる自分を残し、遠ざかっていった背中。

呼んでも、誰も振り返らなかった。


蓮が隼人の隣へ立った。

「隼人」

「だって蓮、こいつらは……」

「ああ」

蓮は三人へ向き直った。

「何の用で来た」

「隼人に、謝りに来ました」

太吉が顔を上げた。

「頼む。少しだけでいい、聞いてくれ」


蓮は隼人を見た。

急かさず、その返事を待っている。

隼人は黙ったまま、その場にいた。

やがて、小さな声で言った。

「……蓮も、いて」

「ああ。ここにいる」



「あのあと、俺たちも捕まったんだ」

太吉は俯いた。

「散々殴られて……もう駄目だと思った時、村長が止めてくれた」


盗んだのは、村長の蔵にあった米だった。

村長は、それくらいにしてやれと村人たちを止めたあと、三人へ言ったという。

この村に残り、年寄りの仕事を手伝って、米を作ってみないかと。


「初めは、逃げることばかり考えてた。でも、働けば飯が食えて……村のじいちゃんも、ばあちゃんも、俺たちに仕事を教えてくれたんだ」

庄助が、言葉を継いだ。

「できないことがあっても、明日またやればいいって。飯を食う時には、こっちへ来いって呼んでくれてさ」


少しずつ仕事を覚え、田に出ることが苦ではなくなった。

初めて自分たちで育てた米を食べた時には、三人とも黙って椀を空にしたという。


「来年も頼むって言われて……嬉しかったんだ」

太吉はそこで口を閉じた。

しばらくして、絞り出すように続ける。

「それで、何度も思い出した。俺たちが、お前に何をしたか」


隼人は黙って聞いていた。

「村の人たちは、お前には優しかった。俺たちは、それが面白くなかったんだ」

隼人の顔が強張った。

「……もらったもの、全部、分けてただろ」

「ああ」

「俺だけで食べたことなんか、なかっただろ!」

「わかってる。お前はいつも、俺たちのところへ持ってきてくれた」

太吉は顔を上げられなかった。

「それなのに、俺たちは……」


「……俺、皆が喜ぶと思ってた」

ようやく出た声は、小さかった。

「もらったら、早く持って帰ろうって。皆で食べようって……」

蓮は隼人の言葉が途切れるのを待って、答えた。

「ああ。お前は、仲間を大事にしてたんだな」

その言葉に、隼人は俯いた。


太吉が、袖で顔を拭った。

「腹が減って、盗んで……あの時は、心まで貧しくなってたんだ。お前が分けてくれたものを食べながら、お前を妬んでた」

隼人へ深く頭を下げる。

「それでも、お前を傷つけていい理由にはならなかった。……すまない」


庄助も、声を震わせた。

「俺たちが逃げるために、お前の足を傷つけた。仲間だったお前を、囮にした」

留吉が、握りしめた手を見つめながら続ける。

「ずっと謝りたかった。でも、会うのが怖くて……また、自分たちのことばかり考えてた」

地面に、涙が落ちた。


隼人は唇を噛んだ。

「……俺、まだ覚えてる」

三人は顔を上げなかった。

「足が痛くて、立てなくて。呼んでも、誰も戻ってこなくて……」

声が震えた。

蓮は隣に立ったまま、動かなかった。

「今だって、夢に見るんだ……」

「……すまない」


隼人は袖で目を拭った。

しばらく、誰も口を開かなかった。



やがて蓮は、荷車へ目を向けた。

「その米は、どうしたんだ」

太吉が答えた。

「俺たちが村で作りました。江戸が大変だって聞いて、村長に相談したら、村の皆も出してくれたんです」

「うちの村は、被害を受けなかったから……」

庄助が続けた。


太吉は隼人へ向き直った。

「お前がここにいるって聞いて来た。……今度こそ、謝ろうって」

隼人は黙ったまま、三人を睨んでいた。


蓮が荷車へ歩み寄る。

「この米は、困っている人たちに配っていいんだな」

「はい。そのために持ってきました」

蓮は隼人へ目を向けた。

「米を中へ運ぼうと思う。どうだ」

「……俺に聞かないでくれ」

隼人は顔を背けた。


蓮は少し間を置いて、頷いた。

「わかった。米のことは、紗江に話そう」

三人は何も言えず、俯いていた。



蓮は、隼人の昔馴染みが米を持って訪ねてきたとだけ、紗江に伝えた。

紗江は荷車の前で足を止めた。

「こんなにたくさん……ありがとうございます。村の皆さんも、分けてくださったんですね」

「はい。少しでも役に立てればと」

「ちょうど、広場でお米を配る支度をしているんです。このお米も、一緒にお渡ししていいですか?」

三人が頷いた。


蓮が声をかけ、蒼馬たちも米を運ぶのに加わった。

隼人は門の脇に立ち、その様子を見ていた。


米を運び終えると、お絹が三人を呼び止めた。

「お帰りになる前に、何か召し上がっていってくださいな」


やがて、握り飯と温かな汁が運ばれてきた。

隼人は蓮の隣へ座った。

三人も少し離れたところへ腰を下ろす。

「……いただきます」

しばらくは、椀を置く音だけがしていた。


紗江は三人の手元を見た。

指の節は太く、爪の周りには、洗っても落ちない土の色が残っている。

「よかったら、一緒に配ってくれませんか?」

三人が顔を上げた。

「俺たちも、ですか?」

「ええ。皆さんが作ったお米ですし……人手も、たくさんあると助かるので」


太吉が、おずおずと隼人へ目を向けた。

隼人は気づいていたが、顔を上げなかった。

蓮が三人へ言った。

「手伝うなら、米を運ぶ仕事もある。できるか」

「はい」

三人は姿勢を正した。

「やらせてください」


三人が席を立ったあと、紗江はそっと蓮を呼び止めた。

「あの三人が来てから、隼人の様子がおかしいんです。何かあったの?」

蓮は隼人のいるほうへ目をやってから、紗江へ向き直った。

「紗江は、いつもどおりに接してくれ。なーに、大丈夫だって」

「じゃあ、蓮にお任せします」



三人は村へ知らせを頼み、米配りまで澄月庵に留まることになった。

米俵を運び、広場で使う籠や枡を揃える。袋をまとめ、頼まれた仕事を一つずつ片づけていった。


隼人と顔を合わせても、初めは互いに何を言えばよいのかわからなかった。

必要な言葉だけを交わし、黙って手を動かす。


ある日、袋を積んだ籠を持ち上げようとした太吉の向かいへ、隼人が回った。

「そっち、持って」

「ああ」

二人で運び終えると、隼人はすぐに次の籠へ戻った。

太吉も、そのあとに続いた。



工房では、正月用の晴着の仕立てが進んでいた。

お蘭は帳面と包みを照らし合わせ、一つ確かめるごとに、届け先を記した紙を添える。

紗江はお針子たちの間を回り、袖口や裾の仕上がりを確かめた。


「紗江様、こちらはいかがでしょう」

差し出された晴着を膝に広げる。

針目は揃い、柄もきれいにつながっていた。

「ええ、これで大丈夫。丁寧に仕上げてくれて、ありがとう」

お針子はほっと息をつき、着物を畳み始めた。


皆の手が、以前よりも確かになっている。

紗江はその横顔を見てから、次の一着へ手を伸ばした。


やがて仕立てに目処がつくと、お針子たちも袋作りに加わった。

お鈴が布を裁ち、お夏とお政が脇や底を縫う。お文は持ち手を重ね縫いし、仕上がった袋をお梅へ渡した。


「皆が手伝ってくれると、こんなに早くできるのね」

紗江が積み上がった袋を数えると、お鈴が顔を上げた。

「私たちだって、お針子ですもの。これくらい、お任せください」


男たちも、仕上がった袋を運び、配る順にまとめていった。

「それ、もう少しこっちへ寄せて」

隼人が言うと、庄助が籠を動かした。

「ここか?」

「うん。そこなら通れる」

短いやり取りのあとも、隼人はその場を離れず、一緒に袋を並べ続けた。



米を配る日の朝、広場には早くから人々が集まっていた。

町役人の案内で、列が少しずつ整っていく。

蒼馬と無刄が米俵を運び、蓮たちが口を開ける。

台の上には枡が置かれ、その隣に、飾り結びを刺した袋が積まれた。


お蘭が一同を見回した。

「お一人、一升ずつです。量り終えた袋から、お渡ししてください」


隼人が袋の口を広げ、太吉が米を量り入れる。

枡を傾けたところで、袋の縁から米粒がこぼれかけた。

「あっ、そこ、こぼさないでください!」

お蘭の声に、二人が慌てて手元を寄せる。

「わかってるって!」

「袋を、もう少しこっちへ」

「こう?」

「ああ、それでいい」


枡から流れ落ちる米を、隼人は袋の底へ落ち着かせた。

量り終えた袋を持ち上げ、紗江へ渡す。

紗江は列の先頭にいた老婆へ差し出した。

「どうぞ。お待たせしました」


老婆は両手で受け取り、その重みに目を細めた。

「ありがとうねえ。これで安心して年が越せるよ」

持ち上げた拍子に、袋の隅の刺繍が目に入ったらしい。

「まあ、可愛らしい結び目だこと」

「お米を召し上がったあとは、買物に使ってください」

「袋まで、いただいていいのかい?」

「ええ。そのために作ったんです」

老婆は持ち手を握り、何度も頭を下げた。


お梅やお針子たちも、量り終えた袋を受け取っては、人々へ手渡していく。

お鈴が差し出した袋を、一人の老婆が胸へ抱えた。

「ありがとうねえ。本当に、助かるよ」

お鈴は照れくさそうに微笑んだ。


(私が、人にお礼を言われる日が来るなんてね、これも、紗江様のおかげだよ)


「どうぞ、よいお年を」

そう答え、次の袋へ手を伸ばした。



米俵が空くたびに、蒼馬と無刄が次を運んだ。

蓮が袋を広げ、庄助と留吉が米を量り入れる。

隼人は台と列の間を行き来していた。


「こっち、できたぞ」

太吉に呼ばれ、隼人が袋を受け取る。

「次のも、そこに置いて」

「ああ」

人々へ渡して戻ると、同じ場所に米の入った袋が用意されていた。

隼人はそれを取り上げ、太吉へ声をかけた。

「空の袋、まだ足りる?」

「あと少し、持ってきてくれるか」

「わかった」


米袋を受け取った町の人が、隼人へ深く頭を下げた。

「ありがとな」

隼人は一瞬、その袋へ目を落とした。

三人が運んできた米も、こうして人々の手へ渡っていく。

「……うん。大事に食ってくれよ」


隣では、太吉が米袋を受け取った親子を見送っていた。

子どもが振り返り、母親と一緒に頭を下げる。

太吉は慌てて頭を下げ返した。

やがて、隼人の隣へ戻ってくる。


「俺、また頑張って米作る。隼人、また持ってくるからな」

「いいのか」

「あったりまえだろ」

そう答えた太吉の目から、涙がこぼれた。


「……何、泣いてんだよ」

太吉は袖で顔を拭った。

「お前と、またこんなふうに話せると思ってなかったから……」

隼人は口を閉じた。

「もう二度と、口もきいてもらえないと思ってた」


俯く太吉へ、隼人は手にしていた袋を差し出した。

「……ほら。まだ終わってないぞ」

そう言いながら、隼人の頬にも、一筋の涙が伝った。


太吉は何も言わずに袋を受け取り、隼人の隣へ並んだ。

蓮は少し離れたところで、その姿を見届けると、次の籠を運びに戻った。



最後の米を渡し終えた頃には、日が傾き始めていた。

袋を肩に掛け、何度も振り返って頭を下げる人々を、紗江は見送った。

広場に残った皆が、それぞれに息をつく。


隼人は袖で額を拭い、空になった米俵へ腰を下ろしかけた。

「隼人、そちらを先に畳んでください」

お蘭に言われ、伸ばしかけた足を引っ込める。

「ちょっとくらい休ませてよ」

「あともう少し、頑張って」

お絹の言葉に、隼人は俵を持ち上げた。


紗江も籠を重ねようとしたが、葵がその片側を取った。

「よくやった」

「皆さんのおかげです」

紗江は広場を見回した。

お梅とお針子たちが布を畳み、お蘭は町役人へ礼を伝えている。


少し離れたところでは、隼人と三人が、空の籠を重ねていた。

「そうじゃなくて、逆だって」

「こっちか?」

「そう。それなら、もっと入るだろ」


紗江はその様子を見つめたあと、葵へ向き直った。

「お米を集めてくださって、ありがとうございました」

「町の様子は、これからも確かめさせよう」

「はい」


今日渡した米だけで、すべてが解決するわけではない。

それでも、人々が袋を抱えて帰っていく姿を、紗江は忘れずにいようと思った。



澄月庵の門前には、一人の男が待っていた。

羽織姿の、三十を少し過ぎた頃の男だった。

紗江に気づくと、にこやかに近づいてくる。


「紗江殿でいらっしゃいますか」

「はい」

「突然すまねえ。真文堂の蔵之介ってもんです」

「真文堂……?」

「版元でさあ。本を作って売る商売をしております」


蔵之介は、皆が運んでいる空の籠へ目をやった。

「お米を配っておいでのところを、拝見しました。着物の評判も、聞いております。ぜひ一度、お話をしたいと思っておりましてね」

そう言うと、紗江をまっすぐに見つめた。

「紗江殿――俺と一緒に、本を作りませんか?」

「本……ですか?」

思いがけない申し出に、紗江は目を丸くした。


「詳しい話は、年が明けてから改めて。今度は見本も持ってまいります」

蔵之介が帰ったあと、紗江は隣の葵を見上げた。

「私が、本を……?」

「年が明けたら、話を聞いてみよう」

中から、お絹が皆を呼ぶ声がした。



食事を終えると、太吉たちは村へ帰る支度をした。

隼人は蓮と一緒に、三人を門前まで送った。


空になった荷車を引き、太吉が振り返る。

「隼人」

「道、気をつけろよ」

「ああ。また来る」

庄助と留吉も、隼人へ頷いた。

三人は深く頭を下げ、歩き出した。


隼人は、その背中が角を曲がるまで見ていた。

蓮が隣へ立つ。

「寒くなってきたな」

「……うん」

隼人は鼻をすすり、蓮と並んで門をくぐった。



残っていた晴着も無事に納め、その年の仕事はようやく終わった。

お蘭が、一人ひとりへ包みを手渡していく。


お鈴は受け取った包みを両手で持ち、紗江を見つめた。

「こんなに、していただいて……」

「たくさん働いてくれたもの。晴着も袋も、皆がいたから仕上げられたの」

紗江は並んだ顔を見回した。

「明日は針を置いて、ゆっくり過ごしてください。また来年も、よろしくお願いします」

「はい!」


皆を送り出すと、部屋は静かになった。

紗江は仕事台の上に残った糸くずを拾い、針箱の蓋を閉じる。

そこへ、お絹が顔を出した。

「さあ、今度は私たちのお正月の支度ですよ」

紗江は針箱を棚へ戻した。

「まずは、何から?」

「買い出しをお願いできますか。こちらを揃えておきたくて」

渡された紙を覗き込み、紗江は目を丸くした。

「こんなに?」

「皆、よく召し上がりますからねえ」



翌日、紗江はお蘭と浅草へ出かけた。

通りは正月の支度をする人々で賑わい、店先から威勢のよい声が飛んでいた。


お絹に頼まれた品を買い揃えるうちに、紗江もお蘭も両手がふさがってしまった。

次の包みを前に、紗江が困ったように持ち直すと、店の主人が声をかけた。

「澄月庵だろ。ついでがあるから、あとで持ってっとくよ」

「いいんですか? 助かります」

紗江はほっとして、抱えていた包みを台へ戻した。


荷物を預けた二人は、工房に飾る正月飾りを選びに向かった。

紗江が足を止めて眺めていると、お蘭がそっと袖へ触れた。

「紗江様、あちらを」


通りの向こうで、一人の女が買い求めた野菜を袋へ収めていた。

隅には、小さな飾り結びが見える。

女は袋を肩に掛け、人の流れへ戻っていった。


「使ってくださっている……」

紗江は、その姿が見えなくなるまで見送った。


「私たちの分も、作っておけばよろしゅうございましたね」

お蘭の言葉に、紗江は空いた両手を見下ろした。

「本当。帰ったら……」

「今日は、針はお休みでございますよ」

先に言われ、紗江は笑った。



澄月庵の庭では、蒼馬と無刄が掃除をしていた。

紗江たちが戻ってしばらくすると、追加の買い出しに出ていた隼人も帰ってきた。


「寒い寒い! ああ、指が取れそう!」

両手に息を吹きかけながら、廊下へ駆け込んでくる。

「お帰りなさい。お使い、ありがとう」


紗江に包みを渡した隼人は、庭先へ目を向けた。

蒼馬と無刄は、平然と手を動かしている。

「……なんで二人とも、寒くないんだよ」

蒼馬が箒を止めた。

「体を動かせば温まる」

「動かしてきたんだって! ずっと歩いてたんだって!」

無刄が隼人を見た。

「まだ動けそうだ」

「寒いから外掃除はいやだ!」


お蘭が口元を緩めた。

「お絹さんのところへ行っておいでなさい。温かいものがあるでしょう」

「それ、早く言ってよ!」

隼人は台所へ向かった。


お絹から椀を受け取り、火鉢のそばへしゃがむ。

「お絹、俺……昔の仲間と仲直りできた」

「あら、偉かったですね」

「だから、子ども扱いするなって!」


隼人は椀にそっと口をつけた。

冷えた指先にも、少しずつ温かさが戻ってきた。



そして、新しい年を迎えた。

工房には針の音も、客を迎える声もない。

朝の食事を終えると、皆はお参りに出かける支度を始めた。


「まだ? もう行ける?」

隼人が部屋を覗く。

「もう少し待って。お梅の帯を直しているの」

「さっきも、もう少しって言った!」

無刄が、その肩へ手を置いた。

「こちらで待とう」

隼人は渋々廊下へ戻り、庭へ目を向けた。


やがて、お蘭とお梅、お絹が姿を現した。

紗江はお梅の帯をもう一度確かめ、頷いた。

「ええ、これで大丈夫」

いつもの仕事着とは違う姿を、互いに少し照れくさそうに眺め合う。

城での務めを終えた葵も合流し、一同は揃ってお参りへ出かけた。


通りには晴着姿の人々が行き交っていた。

店先へ気を取られる隼人を、蒼馬が呼び戻す。

「離れるなよ」

「わかってるって!」

それでも隼人は、時々振り返り、皆がついて来ているか確かめていた。

紗江は葵の隣を歩きながら、その様子を眺めた。


「今日は、針を持たずに済みそうか」

葵に尋ねられ、紗江は笑った。

「はい。お蘭にも、休んでもらいます」

「そなたもだぞ」

「……はい」


お参りを終えると、隼人が紗江の顔を覗き込んだ。

「紗江、何お願いしたの?」

「皆が元気で、今年も一緒に過ごせますようにって」

「俺も! あと、背が伸びますようにって!」


隼人は、今度は無刄を見上げた。

「無刄は?」

皆も気になるのか、歩きながら、そっと耳を傾けている。

「……文字の読み書きが、できるようにと」

「ふーん、無刄、そんなことしてたんだぁ。夜遅くまで部屋が明るいから、何やってんのかなぁって思ってたんだ」

無刄は、少し気まずそうに視線を逸らした。

「言ってくれたら、俺も一緒にやるのに!」

無刄は、隼人へ穏やかな目を向けた。

「では、本日から」

「……やっぱり、遠慮しておく」

「お前から言っておいて……」

皆がどっと笑うと、隼人は照れくさそうに頭をかいた。

無刄も、口元に笑みを浮かべていた。


そのあと、皆でおみくじを引いた。

紗江は紙を開き、隣の葵へ目を向ける。

「葵様は、何と?」

葵はおみくじを、紗江にだけ見えるように差し出した。

「恋愛成就……」

紗江も、自分のおみくじをそっと並べる。

同じ文字を見つけ、二人は顔を見合わせた。

「ふふっ」


その隣で、お蘭がおみくじを読み返していた。

「商売繁盛……今年は、袋のほうも喜んでいただけるかもしれませんね」

「お蘭、お正月くらいは休んで」

紗江に言われ、お蘭は紙を畳んだ。

「そうでございましたね」

お梅とお絹が、そっと笑い合った。


帰り道、紗江は飾り結びの袋を提げた女とすれ違った。

女はこちらに気づくと、立ち止まって会釈をした。

紗江も足を止め、新年の挨拶を交わす。

袋の持ち手は、女の手にすっかり馴染んでいた。


「紗江、早く!」

少し先で、隼人が手を振っている。

その向こうでは、葵たちも待っていた。

「今、行くね」

紗江は会釈を返し、皆のもとへ歩き出した。

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