第2章 第37話 一本の縫針〈下〉
「……お待ちください」
お夏の声が、ようやく漏れた。
「もう二度と、いたしません。ですから……どうか」
紗江は黙っていた。
お夏は膝の上の手をほどき、畳についた。
「ここを出たら、私には……行くところがありません」
その言葉に、お梅が目を伏せた。
「親は、昨年の流行り病で亡くなりました。それからは、食べるために……人の物を盗んだこともあります」
お夏は息を詰まらせた。
「ここで働けると決まったときは、嬉しかったんです。もう、そんなことをしなくても暮らせると……」
声が途切れた。
畳についた指が、細かく震えていた。
「それなのに、また……」
お夏は頭を垂れた。
「申し訳ありませんでした」
紗江はその姿を見つめていた。
面接のとき、仕事なら何でもすると話していた顔を覚えている。
けれど、今ここで頷けば、それで済むことなのだろうか。
お鈴を傷つけ、皆の仕事を止めた。
困った暮らしをしてきた者は、この部屋にほかにもいる。そのことを理由に許せば、黙って懸命に働いてきた者たちは、どう思うだろう。
紗江が口を開こうとしたときだった。
「紗江様」
お鈴が、そばへ進み出た。
一晩探し続けた足は、まだ思うように動かなかった。
膝をつくと、一度、畳に手をついて身体を支えた。
「お夏さんを……もう一度だけ、ここで働かせていただけませんか」
お夏が顔を上げた。
お鈴は紗江を見つめていた。
「私も、ここに来られなかったら、今頃どうしていたか、わかりません」
声が震えた。
それでも、お鈴は目を逸らさなかった。
「働くところがあって、明日する仕事があって……それが、どんなにありがたいことか、ここへ来て初めてわかりました」
紗江の膝の上で、指先がわずかに動いた。
「お夏さんにも、ここでやり直してほしいのです」
「お鈴さん」
そばにいた娘が、堪えきれずに声をかけた。
「でも、あなたは……」
お鈴は振り向いた。
昨夕も、今朝も、自分を気遣ってくれた娘だった。
その目に浮かぶ怒りを見て、お鈴はすぐには言葉を返せなかった。
「……つらかったわ」
小さく、認めた。
「針が見つからなくて、怖くて……どうしていいか、わからなかった」
お夏は顔を伏せた。
「……困らせたかったほど、私に腹が立っていたのね」
お鈴は、お夏へ向き直った。
「私に腹が立ったら、私に言って。針を隠さずに、言葉で言ってほしいの」
お夏の唇が震えた。
何かを答えようとしたが、声にならなかった。
その後ろで、衣擦れがした。
「……私もです」
お政が前へ出た。
お文も、その隣に膝をつく。
「困らせてやればいいと、言ったのは私です」
お政は畳へ目を落とした。
「針を取ったことは、知りませんでした。でも……私も煽ったのに、黙ってお夏だけが責められるのを見ていました」
「私も、一緒になって悪く言いました」
お文の声は、かすれていた。
「お鈴さんが誰かを手伝っていると、私たちが何もしていないように思えて……。それが嫌で、あんなことを」
お鈴は二人を見つめた。
初めて聞く、その胸の内だった。
お政が深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
お文も頭を下げた。
お夏は隣の二人を見たあと、畳に両手をつき直した。
「お鈴さん……ごめんなさい」
涙が落ちた。
「皆さんにも、迷惑をかけました。私が隠したせいで……」
それ以上は続かず、お夏は肩を震わせた。
紗江は、お蘭へ目を向けた。
お蘭は静かに頷いたが、言葉は挟まなかった。
裁縫所には、三人のすすり泣く声だけが聞こえていた。
紗江はしばらく考え、ようやく口を開いた。
「お夏さん。顔を上げてください」
お夏が、恐る恐る顔を上げる。
「お鈴さんは、あなたに残ってほしいと言ってくれました。けれど、その言葉に甘えて、今日のことを済ませてはいけません」
「……はい」
「失った信頼は、これからの働きぶりで取り戻してください。皆がまた、安心して隣で針を持てるように」
お夏は息を呑んだ。
「それができますか」
「はい……。いたします」
紗江は、お政とお文にも目を向けた。
「お二人もです。誰かを困らせるために言葉を重ねれば、こんなことにまでなってしまう。そのことを、忘れないでください」
二人が、揃って頷いた。
紗江は一呼吸置いた。
「……今日、辞めていただくことは取り消します」
お夏の顔が歪んだ。
「ありがとうございます……」
頭を下げようとするお夏を、紗江は静かに留めた。
「ただし、次はありません。もう一度、人を陥れるようなことをしたら、そのときは、ここを出ていただきます」
「はい」
お夏は涙を拭わずに答えた。
今度は、はっきりとした声だった。
お蘭が立ち上がった。
「では、片づけましょう。仕事を始める前に、針の数を全員、もう一度確かめます」
止まっていた部屋が、少しずつ動き始めた。
お鈴も立とうとした。
けれど、膝に力が入らず、身体が傾いた。
すぐそばから、手が伸びた。
お夏だった。
差し出された手を、お鈴は一瞬見つめた。
それから、その手を借りて、ゆっくりと立ち上がった。
――その夜。
長屋の廊下で、お夏は足を止めていた。
戸の向こうから、かすかな物音がする。
まだ起きているらしい。
声をかけようとしては、口を閉じた。
昼間、皆の前で謝りはした。けれど、お鈴には、もう一度きちんと話したかった。
お夏は手を伸ばし、控えめに戸を叩いた。
「……お鈴さん。私だけど」
少し間があって、返事がした。
「どうぞ」
戸を開けると、お鈴が布団のそばに座っていた。
ほどいた髪が肩にかかり、行灯の明かりに、疲れの残る顔が照らされている。
お夏は敷居の前で頭を下げた。
「昨夜は……眠れなかったんだね」
お鈴は、小さく頷いた。
「本当に、ごめんなさい」
沈黙が落ちた。
「……そこでは話しづらいわ。入って」
お鈴に促され、お夏は部屋へ入った。
向かいに腰を下ろしても、すぐには顔を上げられなかった。
「どうして、かばってくれたの」
膝の上で、指を握り合わせる。
「あんなことをした私なんか、いなくなれば、せいせいしただろうに」
お鈴はしばらく、お夏を見つめていた。
「私も、許していただいたから」
お夏が顔を上げる。
「……紗江様に?」
お鈴は頷いた。
「私もね、妬みから人を傷つけたことがあるの」
行灯の火が、わずかに揺れた。
「自分ばかりが不幸だと思っていた。同じ女なのに、どうしてこんなに違うんだろうって……」
お鈴は目を伏せた。
「……紗江様が、羨ましかったの」
お夏は黙って聞いていた。
いつも嬉しそうに紗江の名を口にするお鈴から、そんな言葉が出るとは思わなかった。
「羨ましくて、妬ましくて……自分の苦しさまで、あの方のせいにしてしまった」
お鈴の指が、膝の上で強く結ばれた。
「私は、紗江様を刺したの」
お夏は息を止めた。
「……刺した?」
お鈴は頷いた。
顔を上げることはできなかった。
「命を奪ってしまっても、おかしくなかった」
声がかすれた。
お夏は何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。
あの紗江を。
昼間、お鈴のために黙って布を調べていた人を。
「それでも、紗江様は……あなたを?」
「ええ」
お鈴は、ゆっくりと息を継いだ。
「私の話を聞いてくださった。花街から救い出して、働く場所まで与えてくださったの」
お夏は、お鈴の顔を見つめた。
「……だから、いつも紗江様、紗江様って」
お鈴の目が、かすかに潤んだ。
「ここで針を持っていると、時々、まだ夢みたいに思えるの。朝起きて、仕事に行って……明日は何を縫うのだろうって考えられることが」
お夏は膝の上へ目を落とした。
自分も同じ思いがあった。
もう盗まずに暮らせると思った。
なのに、お鈴が皆に囲まれて笑う姿を、自分を見下しているように感じていた。
頼まれもしない仕事を引き受けるのも、紗江に褒められたいからだと決めつけていた。
「……私、何も知らずに」
お鈴は首を振った。
「話していなかったもの」
そして、お夏を見た。
「あなたが辞めさせられると思ったとき、あのときの自分を思い出したの。もし紗江様が、私を見放していたらって」
お夏の目から、涙が落ちた。
「だから、あなたにも、ここにいてほしかった」
お夏は袖を目元へ押し当てた。
謝ろうとすると喉が詰まり、何度も息を吸い直した。
お鈴は急かさず、待っていた。
しばらくして、お夏が顔を上げた。
「……あんな良い人を刺すなんて。あんたも、ひどいことをしたんだね」
お鈴は唇を結び、頷いた。
「ええ。ひどいことをしたわ」
その答えに、お夏は目を伏せた。
「……私が言えたことじゃないけど」
「本当よ」
お鈴が静かに返すと、お夏はそっと顔を上げた。
目が合った。
お夏が困ったように眉を下げ、お鈴の口元も、ほんの少し緩んだ。
「これからは、腹が立ったら、口で言うよ」
お夏が言った。
「言いすぎるかもしれないけど……針は、二度と隠さない」
「言いすぎたら、私も言い返すわ」
「……そうしておくれ」
お夏は、ようやく詰めていた息を吐いた。
「明日は、いつもの刻限においで。早く来てする支度は、私がしておくから」
お鈴は驚いた顔をしたあと、首を傾げた。
「早く終えたら、ほかの仕事まで引き受けなきゃならないのかい、って言っていたのに?」
お夏は目を丸くした。
「……よく覚えているね」
「言われた方は、覚えているものよ」
お夏はうなだれた。
「これから先も、言われそうだね」
その声がおかしくて、お鈴は小さく笑った。
お夏もつられて笑い、袖に残っていた涙を拭った。
廊下へ出る前に、お夏はもう一度振り向いた。
「お鈴。……ありがとう」
お鈴は頷いた。
「おやすみなさい、お夏」
戸が閉まったあと、お鈴は行灯のそばに手を伸ばした。
今夜は、ゆっくり眠れそうだった。
――翌朝。
お鈴が裁縫所へ入ると、すでに障子が開け放たれていた。
朝の光の中で、お夏が机を拭き、お政とお文が道具を並べている。
「おはよう」
「おはよう。……ちゃんと眠れたかい」
「ええ。ありがとう」
お鈴も荷物を置き、畳まれた布を手に取った。
二人が並んで布を運んでいると、入口で足音が止まった。
いつもお鈴のそばで働いている娘たちだった。
お夏は布を置き、頭を下げた。
「昨日は、迷惑をかけました」
お政とお文も、それに続いた。
娘たちは、すぐには答えなかった。
けれど、揃えられた道具へ目を向けると、一人が荷物を下ろした。
「……こちらの布も、畳んでおけばいいの?」
お夏が顔を上げた。
「ああ。助かるよ」
隣にもう一人が座り、布の端を持った。
お蘭が入ってきたときには、仕事を始める支度は、ほとんど整っていた。
その日、お夏の隣では、針に慣れない娘が、縫いかけの布を前に手を止めていた。
「見せてごらん」
娘は肩を強張らせ、布を差し出した。
お夏は縫い目を確かめ、一度針を取ろうとして、その手を止めた。
「ここまでは揃っているよ。この先だけ、少しほどいてみな」
布を返され、娘は顔を上げた。
「もう一度、やってごらん。見ているから」
娘が慎重に針を通す。
お夏は自分の仕事を脇へ置き、その手元を見守った。
それからは、わからないところを尋ねる声に、あちこちから返事が返るようになった。
お鈴の周りと、お夏の周りに分かれていた輪も、仕事を教え合ううちに混じっていった。
ある日の午後、皆で仕立てた小物が並んだ。
紗江は一つずつ手に取り、裏まで丁寧に確かめた。
娘たちは、黙ってその指先を見つめていた。
「きれいに仕上がりましたね。これを、店に並べましょう」
「私の縫ったものも、ですか?」
初めて針を持った日に、何度も糸を絡ませていた娘だった。
「ええ。どなたが手に取ってくださるか、楽しみですね」
娘の顔がほころんだ。
隣では、教えていた者も嬉しそうに笑っている。
お蘭が盆を用意すると、お夏が立ち上がった。
「お鈴、そっちを持っておくれ」
「ええ」
二人が品を運ぶ間に、次の布を配る者、糸を揃える者が、それぞれに動き始めた。
「今度は、私にもそちらを教えてね」
「いいわよ。一緒にやりましょう」
紗江は広げかけた図案から顔を上げた。
部屋のあちらこちらで布が広がり、教える手と、覚えようとする手が並んでいた。
それから、しばらく経ったある日のこと。
仕事の合間に、紗江は皆へ声をかけた。
「この裁縫所に、名前をつけてみませんか」
娘たちが顔を上げた。
「名前、ですか?」
「ええ。皆さんと、一緒に考えたいの」
途端に、あちらこちらで声が上がった。
「それなら、きれいな名前がいいわ」
「看板も出るのかしら」
お梅が笑いながら筆を取り、お蘭が皆の声を聞いていく。
いくつもの案が出る中、一人の娘が紗江を見た。
「ここは、紗江様の図案を、私たちが着物にしていくところでしょう?」
紗江は頷いた。
傍らには、娘たちと囲んでいた図案が広げられている。
「それなら……彩案工房はどうかしら」
「彩案工房……」
お鈴が、響きを確かめるように繰り返した。
「その図案を見て、どんな着物になるのかと楽しみにしていたものね」
お夏の言葉に、隣の娘が頷く。
「今は、私たちも縫っているんだものね」
紗江は皆を見渡した。
「この名前で、よいですか?」
返事が重なった。
お梅が書き留めた四文字を掲げると、娘たちは身を寄せ、嬉しそうに見つめた。
「では、暮らしている長屋にも、名前をつけましょうか」
お蘭の提案に、お鈴が顔を上げた。
「私、考えていたものがあるんです」
皆の視線が集まり、お鈴は少し頬を染めた。
「紗江様のお好きな桜と、お蘭様のお名前をいただいて……桜蘭寮というのは、いかがでしょう」
お蘭が、意外そうに目を瞬かせた。
「私の名も?」
「はい。いつも、私たちのことを見てくださっていますから」
お夏が頷いた。
「困ったときに駆け込む先も、お蘭様だものね」
笑い声が広がる。
お蘭は照れたように息をつき、紗江へ目を向けた。
「とてもいい名前だわ」
紗江が微笑むと、お梅はその隣に、もう一つの名を書き添えた。
彩案工房。
桜蘭寮。
娘たちは二つの名前を眺め、口々に呼んでみた。
後日、彩案工房の看板が掲げられた。
秋の陽を受けた白壁の前に、皆が集まっていた。
お鈴とお夏も肩を並べ、真新しい文字を見上げている。
店から戻ったお梅がやって来た。
手にした盆には、工房で仕立てた小物が載っていた。
「同じものを、もう少しお願いできますか。お客様が、別の色も見たいとおっしゃっていて」
娘たちは顔を見合わせた。
「私たちが縫ったものを?」
お梅が頷くと、嬉しそうな声が上がった。
「では、糸を選ばなくちゃ」
「残っている布を、持ってくるわ」
お蘭が数を確かめる間にも、娘たちは工房へ戻り始めた。
「お鈴、今日はこっちを頼めるかい」
「ええ。お夏は?」
「私は、あの子たちと続きを縫うよ」
紗江は看板をもう一度見上げ、皆のあとに続いた。
開け放たれた障子の向こうから、布を広げる音と、次の仕事を相談する声が聞こえていた。




