第2章 第36話 一本の縫針〈上〉
――新たな門出
裁縫所と店、そして働く者たちが暮らす長屋の建設は、完成を目前に控えていた。
木槌の音が響き、真新しい白壁が日差しを受けて眩しく映える。道行く人々は足を止め、門の向こうを覗き込んだ。
「どんな大店ができるんだ?」
「着物を仕立てて売る店らしいぞ。女が取り仕切るって話だ」
そんな噂が町中に広がる頃、店で働く者を六人、お針子を五十人募る張り紙が出された。
選考の日には、朝早くから長い列ができた。
近隣に暮らす者ばかりではない。履物に土埃をつけ、小さな風呂敷包みを抱えて待つ娘もいた。
「遠くからいらしたのですか?」
座敷へ迎えた娘に、紗江は尋ねた。
「はい。こちらなら、住むところもあると伺って……」
娘は膝の上の包みを両手で押さえた。
話を聞くのは、紗江、お蘭、お梅の三人。
蒼馬たちは壁際に控え、出入りする者たちへ静かに目を配っていた。
縫い物の経験を尋ねると、娘は小さく首を振った。
「着物を縫ったことは、ありません。針も……ほとんど使ったことがなくて」
言い終える頃には、声が消え入りそうになった。
「幼い頃に親を亡くして、ずっと人の家で下働きをしておりました。水汲みも、お掃除もできます。何でもいたしますから……」
娘は顔を上げ、懸命に言葉を継いだ。
「針仕事も、覚えます。どうか、ここで働かせていただけませんか」
紗江は、すぐには答えられなかった。
店を開けば、約束した日に着物を仕上げなければならない。五十人を迎えても、針を持てる者が少なければ、仕事は立ち行かなくなる。
それでも、膝の上で固く握られた娘の手から、目を離せなかった。
習ったことがない。
ただ、それだけで、この人には働く道がないのだろうか。
「お話は、よくわかりました」
紗江は、娘の目を見て答えた。
「来てくださって、ありがとうございます」
娘が頭を下げて座敷を出たあとも、紗江はしばらく、その背を見送っていた。
最後の娘を送り出した頃には、座敷に差す日も傾いていた。
お梅は筆を置き、大きく息を吐いた。
「わ、私……もう動けそうにありません」
隣のお蘭が、わずかに口元を緩めた。
「お梅。大変なのは、これからですよ」
「そ、そうでした……!」
紗江もつられて笑った。
けれど、傍らに重ねられた書き付けへ目を戻すと、その手が止まった。
「……お二人に、相談したいことがあります」
お蘭とお梅が顔を向ける。
「針仕事のできる方と、これから覚える方を、半分ずつ迎えることはできないでしょうか」
お梅は書き付けを見下ろした。
「半分、ですか……」
「ええ。すぐに仕事を任せられる方が必要なのは、わかっています。でも……」
紗江は、一枚の書き付けに目を留めた。
針もほとんど使ったことがないと話した、あの娘の名前だった。
「今日来てくださった方の中には、教わる機会のなかった方もいました。ここで覚えていただけたら、この先も、ご自分の手で暮らしていけると思うのです」
お蘭はしばらく考え、口を開いた。
「ただ、教える者は、その間、自分の手を止めることになります。初めから多くの仕事を受けるのは難しいでしょうね」
「はい。お引き受けする数は、無理のないようにします。初めは運針や、簡単な小物から。私も教えます」
紗江は二人を見た。
「慣れた方に、隣で少しずつ教えていただければ……一緒に働きながら、覚えていけないでしょうか」
お梅が、書き付けを一枚引き寄せた。
「この方は、仕立屋で長く働いていたとおっしゃっていましたね。こちらの方も、縫い物はひととおりできると……」
お蘭も身を寄せ、名前を確かめる。
「では、まずは任せられる仕事を整理しましょう。そのうえで、誰に何を教えてもらうか、考えませんと」
紗江はほっとして頷いた。
「ありがとうございます」
三人は書き付けを広げ直した。
針仕事の経験だけでなく、それぞれが語った暮らしや、得意だと話していたことも、思い返しながら確かめていく。
紗江の胸には、娘たちが肩を並べて針を動かす光景が浮かんでいた。
わからないところを尋ね、知っている者が手を添える。
そうして一着を仕上げた喜びを、皆で分かち合えたら。
紗江は、書き付けの一枚をそっと二人の前へ差し出した。
「この方にも、来ていただきたいのです」
――仕事始めの日。
真新しい裁縫所に、五十人の女たちが集まった。
隣の者と言葉を交わす者もいれば、膝に手を置き、じっと前を見つめている者もいる。
それぞれの前には、針山や糸、練習に使う布が揃えられていた。
紗江は皆の前に座り、深く頭を下げた。
「今日から、よろしくお願いいたします」
女たちも頭を下げた。
顔を上げた紗江は、一人ひとりを見渡した。
「皆さんと、着物を作れる日を楽しみにしていました。ここから生まれる一着が、袖を通す方の喜びになるように……力を貸してください」
静かな声に、女たちは耳を傾けていた。
紗江が微笑むと、強張っていた顔にも、ほのかな笑みが浮かんだ。
その傍らで、お蘭が口を開いた。
「では、私から、仕事についてお話しします」
女たちの視線がお蘭へ移る。
「ここには、長く針仕事をしてきた方も、これから覚える方もいます。仕事は腕前を見ながら割り振ります。教える役をお願いする方には、こちらから声をかけますので、よろしくお願いします」
お蘭は、居並ぶ顔を確かめながら続けた。
「わからないことは、そのままにせず尋ねてください。仕事が進まないときや、困ったことがあるときも、私に知らせること。ひとりで抱え込まないように」
あちこちで頷く姿が見えた。
「それから、道具の扱いについて。これは、必ず守っていただきます」
お蘭は手元の針山を取り上げた。
「針は、朝に渡された数を、仕事の終わりにすべて返してください。一本でも足りなければ、見つかるまで帰ることはできません。折れたときも、欠けた先まで揃えて知らせてください」
女たちの背筋が伸びた。
「着物に紛れ込めば、お客様を傷つけます。自分の針が何本あるか、いつも心に留めておくように。よろしいですね」
「はい」
今度は、はっきりと声が揃った。
お鈴も返事をし、自分の針山へ目を落とした。
ここに、自分の席がある。
目の前には道具が揃い、これから覚える仕事がある。
紗江は、取り返しのつかないことをした自分の言葉に耳を傾けてくれた。
花街から救い出し、住む場所を、そして働く場所まで与えてくれた。
――このご恩は、働いて返そう。
お鈴が顔を上げると、紗江が反物を広げていた。
袖になる部分へ図案を重ね、お梅に何かを話している。
お鈴はその手元を見つめた。
いつか、自分もあの着物を縫えるようになりたい。
「それでは、お名前を呼びます。呼ばれた方は、こちらへ」
お蘭の声に、お鈴は姿勢を正した。
仕事が始まると、裁縫所には、それぞれの腕前の違いがはっきりと表れた。
慣れた者は迷いなく針を運び、次々と布を縫い合わせていく。
その隣では、針に糸を通すだけで手間取り、ようやく縫ったところを、何度もほどいている娘もいた。
「そこは、さっきも教えたでしょう」
声をかけられた娘が、肩を縮める。
「すみません……」
「貸してごらん。私がやった方が早いから」
差し出しかけた布を、娘は黙って手放した。
空いた両手が、膝の上で重なる。
教える者にも、自分の仕事があった。
同じことを繰り返し尋ねられれば、返事が短くなることもある。教わる者は次第に声をかけづらくなり、わからないまま手を止めてしまった。
紗江やお蘭がそばへ来ると、皆、何事もなかったように針を動かした。
そんな中、お鈴は誰よりも早く仕事場へ入り、誰よりも遅くまで針を動かしていた。
頼まれたことには嫌な顔ひとつせず、仕事に追われている者がいれば、そっと手を貸した。
ある日、お鈴は、布を膝に置いたまま俯いている娘に気づいた。
「どうしたの?」
娘はためらいながら、縫いかけの布を見せた。
「ここが、どうしても……。何度も聞いてしまって、もう申し訳なくて」
お鈴は隣に座った。小物の縁を縫うこの始末は、紗江に何度も教わったところだった。
「では、もう一度、一緒にやってみましょう」
少しだけ縫って見せ、娘へ布を返す。
娘はお鈴の手元を思い出しながら、慎重に針を通した。
「……これで、いいの?」
「ええ。今のところ、とてもきれいよ」
娘の顔が、ようやくほころんだ。
「ありがとう、お鈴さん」
「私も、紗江様に教えていただいたの。初めは、うまくできなくて……」
お鈴は揃い始めた針目を見つめ、微笑んだ。
「紗江様も、きれいに縫えるようになったと喜んでくださるわ」
その向かいで、お夏が小さく鼻を鳴らした。
「また紗江様かい」
お鈴が顔を上げると、お夏は布に目を落としたまま続けた。
「針を動かすたびにお名前を出さなくたって、仕事はできるだろうに」
先ほどの娘が、眉を寄せた。
「お鈴さんは、教えてくださった方のお話をしただけでしょう」
「別に、あんたに言ったんじゃないよ」
「でも、そんな言い方……」
「いいのよ」
お鈴がそっと娘を制した。
お夏は返事もせず、針を引いた。その隣で、お政とお文が目を見交わした。
休憩の折にも、娘たちは自然と二つに分かれるようになっていた。
お鈴の周りには、教わった縫い方や、紗江に褒められた仕事の話をする者たちが集まった。
「昨日、紗江様が私の縫ったところを見てくださったの」
「よかったわね。あんなに練習していたもの」
弾む声が聞こえるたび、少し離れたところに座るお夏たちは、声を落とした。
「いやだねー、紗江様に褒められた、紗江様に教わったって、そんな話ばかりさ」
「お夏、聞こえるよ」
「聞こえたって構わないさ」
お鈴を頼る者は、日ごとに増えていった。
仕事の相談をし、隣に座り、仕上がったものを見せ合う。その輪が賑やかになるほど、お夏たちの言葉には棘が混じるようになった。
ある日、仕立てかけの着物を前に、お鈴が皆へ声をかけた。
「こちらがもう少し残っているの。手の空いた方がいたら、手伝ってもらえないかしら」
お夏は顔を上げた。
「自分の分は、済ませたよ」
「ええ。だから、もしよければ……」
「早く終えたら、その分ほかの仕事まで引き受けなきゃならないのかい?」
お鈴のそばにいた娘が、むっとした顔をした。
「私たちだって、自分の分を済ませてから手伝っているのよ」
「それは、あんたたちが好きでやっているんだろう?」
「皆で仕上げる着物でしょう」
針を動かしていた手が、あちこちで止まった。
お鈴は二人の間へ声を差し入れた。
「急に頼んで、ごめんなさい。こちらは私たちで仕上げるわ」
お夏は唇を結び、畳んだ布を重ね直した。
やがて針仕事は再び始まったが、それきり、しばらく誰も口を開かなかった。
しばらくして、お鈴が仕立てかけの着物を手に、お蘭のもとへ向かった。
その背を見送り、お夏が声を落とした。
「……ああして、何でも引き受けるからさ。こっちが薄情みたいになるんだよ」
お政が、針に糸を通しながら頷いた。
「手伝わないと言えば、皆で睨むんだから」
「紗江様のお役に立ちたいなら、自分たちだけでやればいいのにね」
お文の言葉に、お夏は唇を曲げた。
少し離れたところで、お鈴が戻るのを待つ娘たちが、着物を広げる場所を空けていた。
「少しくらい、困らせてやってもいいんじゃないかい?」
お政が囁いた。
お夏は返事をせず、布へ針を通した。
それから数日後。
昼下がりの裁縫所でのことだった。
「水を汲んできます」
お鈴が桶を手に出ていくと、お夏は針を動かす手を止めた。
何気ない素振りで、辺りを見回す。
皆、自分の手元に目を落としていた。
お夏は立ち上がり、お鈴の席のそばを通った。
その一瞬、針山から一本の針をつまみ上げ、懐へ滑り込ませた。
ほんの少し、慌てればいい。
いつも人の世話ばかり焼いているあの顔が、困るところを見てみたかった。
席へ戻ると、お夏は何事もなかったように布を取り上げた。
やがて、お鈴が戻ってきた。
桶を置き、隣の娘とひと言ふた言交わしてから、再び針を動かし始める。
その様子を、お夏は伏せた目の端で見ていた。
仕事を終える時刻が近づいた頃、裁縫所の入口から声がした。
「お蘭様、加賀屋さんが至急来てほしいそうです」
お蘭は手元の仕事を置き、立ち上がった。
「お鈴さん。皆さんの針を集めて、数を確かめておいてもらえますか」
「あっ……」
思わず声が漏れた。
「どうしたの?」
お鈴は、自分の針山へ落としかけた目を戻した。
「……いえ、わかりました。回収します」
「お願いします。揃った針は、いつもの箱へ入れておいてください」
お蘭が足早に出ていくと、お鈴はもう一度、自分の針を数えた。
やはり、一本足りなかった。
「お鈴さん、針をお願い」
声をかけられ、慌てて顔を上げた。
差し出された針を数え、箱へ収める。
次々と席を立つ娘たちに応じながらも、お鈴の目は、自分の手元へ戻ってしまう。
皆の針を受け取り終えると、お鈴は自分の分をもう一度揃えた。
針山を裏返し、深く刺さりすぎたものがないか、指先でそっと探る。
「……一本、足りない」
胸の奥が、ひやりとした。
膝の布を広げ直し、縫い目を確かめる。
裁ち布を持ち上げ、道具の陰を探す。それでも見つからず、お鈴は身を屈め、畳に目を凝らした。
朝には、確かに揃っていた。
今日、自分はどこへ針を置いただろう。
考えようとするほど、思い出せなくなった。
――一本でも足りなければ、見つかるまで帰ることはできません。
仕事始めの日に聞いた、お蘭の声がよみがえる。
着物に紛れ込めば、お客様を傷つけてしまう。そのことは、お鈴にもわかっていた。
知らせなければ。
けれど、顔を上げかけた途端、紗江の姿が胸に浮かんだ。
せっかく、信じてくださったのに。
ようやく、ここで働けるようになったのに。
針一本さえ、満足に扱えないと思われたら。
お鈴は唇を噛み、再び手元へ目を落とした。
もう少し探せば、きっと見つかる。見つけてから、返しに行けばいい。
「お鈴さん?」
隣の娘が、帰り支度の手を止めた。
「何か探しているの? 私も手伝いましょうか」
お鈴は顔を上げ、懸命に笑みを作った。
「……ありがとう。でも、大丈夫。すぐに見つかるから」
「そう? それならいいけれど……」
娘はまだ気にかかる様子で、お鈴の足元へ目を向けた。
手を借りれば、何を探しているのか話さなければならない。
針が足りないと知れば、お蘭にも伝わるだろう。
お鈴は、広げていた布をそっと膝へ引き寄せた。
「本当に……大丈夫よ」
娘が席を離れると、作っていた笑みが消えた。
お鈴は冷えた指先を握りしめた。
そして、先ほど確かめたばかりの布を、もう一度広げた。
やがて、最後の一人が裁縫所を出ていった。
隣の席から聞こえていた衣擦れも、廊下を行き交う足音も途絶えた。
お鈴は顔を上げた。広い部屋に、自分だけが残っている。
お蘭のもとへ行かなければ。
そう思いながらも、膝の布を畳むことができなかった。
もう一度だけ。
ここを探して、それでもなければ。
障子の向こうが暗くなり、畳の目も見えづらくなった。
お鈴は行灯をそばへ寄せ、裁ち布を一枚ずつ明かりに透かした。
針山の周り。
机の下。
畳の縁。
同じところを、何度も確かめた。
膝が痛み、身を起こすと腰まで強張っていた。
それでも、針を手にせずこの部屋を出ることはできなかった。
「見つけなきゃ……」
声にすると、涙が落ちた。
お鈴は袖で頬を拭い、また机の下へ手を伸ばした。
――翌朝。
まだ夜の気配が残る廊下を、紗江とお蘭が歩いていた。
裁縫所の障子を開けると、机の下で人影が動いた。
お鈴が身を起こし、眩しそうに目を細める。
「お鈴?」
紗江が足を止めた。
お鈴は慌てて居住まいを正し、頭を下げた。
乱れた髪が、頬にかかる。
「おはようございます」
お蘭は部屋へ入り、お鈴のそばに膝をついた。
広げられた布と、手元の針山に目を向ける。
「何を探しているのですか」
お鈴の肩が、小さく震えた。
「……針が、一本」
俯いたまま、声を絞り出す。
「昨日、仕事の終わりに数えたら、足りなくて……。どこを探しても、見つからないのです」
お蘭は、傍らの行灯を見た。
油は、ほとんど残っていなかった。
「まさか、一晩中ここに?」
お鈴は答えられず、さらに深く頭を下げた。
「申し訳ありません……」
紗江がそばへ来た。
「お鈴、顔を上げて」
上げた顔を見て、紗江は息を呑んだ。
目は赤く腫れ、唇にも血の気がなかった。
「……見つけてから、お返ししようと思ったのです。けれど、どうしても……」
語尾が震え、また目に涙が溜まった。
お蘭は針山を受け取り、残っている針を確かめた。
「針が足りないときは、私に知らせてください。探す場所も、確かめるものも、ひとりでは限りがあります」
「はい……」
「今は、どの布を調べたか教えてもらえますか」
お鈴は頷き、脇に重ねた布へ手を伸ばした。
紗江もその前に座り、一枚を受け取った。
お蘭が障子を開けると、朝の光が畳の上へ差し込んだ。
やがて、仕事に来た娘たちが、入口で足を止めた。
「どうしたのですか?」
昨夕、お鈴に声をかけた娘だった。
お鈴の顔と、広げられた布を見て、表情を曇らせる。
お蘭は立ち上がり、集まり始めた女たちに声をかけた。
「昨日、お鈴さんの針が一本、足りなくなりました。見つかるまで、針仕事は始められません。皆で探します」
ざわめきが広がった。
「まだ、見つかっていないの?」
「昨日使った布は、全部ここにあるのかしら」
お鈴は身を縮め、膝の上で手を握った。
少し離れたところで、お夏も立ち止まっていた。
お鈴の腫れた目を見て、その顔から表情が消えた。
お蘭は、探す場所を順に割り振っていった。
布を調べる者、道具を確かめる者。机の下や、畳の隙間にも、幾人もの目が向けられる。
お夏も皆にならって膝をついた。
懐には、昨日隠した針があった。
布越しにその在処を感じながら、お夏は、探すふりをして畳へ目を落とした。
朝のうちは、すぐに見つかるだろうと思われていた。
けれど、布を一枚ずつ広げ、道具を移し、机の下まで確かめても、針は出てこなかった。
「ここは、もう調べたわ」
「こちらにもないの」
同じ言葉が、あちこちで交わされた。
日が高くなるにつれ、膝をさすりながら立ち上がる者が増えた。
仕立てかけの着物は、部屋の隅に積まれたままだった。
「今日の仕事、どうなるのかしら」
誰かが小さく漏らした。
お鈴の手が止まった。
顔を上げることもできず、先ほど調べた畳の縁へ、また指を這わせた。
お夏は、その横顔を盗み見た。
少し困らせるだけのつもりだった。
針が足りないと慌てたところで、どこかへ戻しておけば済むと思っていた。
それが、一晩中探していたという。
今は五十人が手を止め、たった一本のために、部屋中を探し回っている。
懐の針が、気になって仕方がなかった。
早く、戻さなければ。
お夏は布を調べるふりをしながら、周囲を窺った。
そばにいた娘が立ち上がり、机の向こうへ回る。
今なら。
袖で手元を隠し、懐から針を取り出した。
畳の縁へ、そっと指を近づける。
「お夏さん。その手を、止めて」
お蘭の声がした。
お夏は息を呑んだ。
指の間に挟んだ針が、光った。
お蘭がそばへ来た。
皆の手が、次々に止まっていく。
「今、その針を、どこから出しましたか」
お夏は針を握り込もうとした。
「握らずに、こちらへ」
差し出された手に、お夏は震える指で針を置いた。
「……いえ、これは」
言葉が続かなかった。
お蘭は針を確かめ、再びお夏へ目を向けた。
「皆が探している間、持っていたのですね」
お夏は俯いた。
誰も口を開かなかった。
少し離れたところで、お鈴が膝をついたまま、こちらを見ている。
「……昨日、針山から」
かすれた声が漏れた。
「お鈴さんの針を、取ったのですか」
お夏は、小さく頷いた。
ざわめきが起こった。
「じゃあ、ずっと……」
「私たちが探しているのを、見ていたの?」
お鈴の隣にいた娘が、立ち上がった。
「お鈴さん、一晩中ここにいたのよ。それを知っていて、黙っていたの?」
「そこまでさせるつもりじゃ……」
お夏は顔を上げた。
「ただ、少し困らせようとしただけで……。こんなことになるとは、思わなかったんです」
「少し?」
娘の声が震えた。
お鈴が、そっとその袖を引いた。
お蘭は女たちを見渡した。
「皆さん、いったん席へ戻ってください」
その声に、娘たちはためらいながら腰を下ろした。
お夏の隣で、お政とお文が身を縮めている。
紗江は、調べていた布を畳んだ。
それを脇へ置き、お夏の前に座る。
「お夏さん」
声は静かだった。
「お鈴さんを困らせるために、針を隠したのですね」
お夏は俯いたまま頷いた。
紗江は、お蘭の手にある一本の針へ目を向けた。
「黙って戻せば、それで済むと思ったのですか」
お夏の肩が動いた。
「お鈴さんは、自分の不注意だと思い続けたでしょう。これから針を持つたびに、またなくすのではないかと、怖くなったかもしれません」
お夏は、唇を噛んだ。
「それに、畳へ置いた針を、誰かが踏んだらどうなりますか。布に紛れたまま、お客様へ渡ってしまったら?」
紗江の問いに、返事はなかった。
「私たちの仕事は、買ってくださる方がいて、初めて続けていけます。安心して着られないと思われれば、次はありません」
部屋の隅には、娘たちが縫い進めてきた着物が積まれていた。
紗江は一度そちらへ目を向け、言葉を継いだ。
「ここには、働く場所も、住む場所も必要として来た方がいます。あなたが隠した一本は、その人たちの暮らしにも関わるものです」
お夏の膝の上で、両手が固く重なった。
紗江はしばらく、その手を見つめていた。
「間違えて針をなくすことは、誰にでもあるかもしれません。けれど、あなたは人を困らせるために隠し、皆が探している間も、黙っていました」
お夏が、ゆっくりと顔を上げた。
紗江の目には、笑みがなかった。
「……あなたには、今日限りで辞めていただきます」
お夏の唇が震えた。けれど、声は出なかった。




