第2章 第34話 すれ違う願い
ある日、江戸の町に、痛ましい噂が広がった。
花町から駆け落ちした若い男女が捕まり、男は見せしめに命を奪われたという。
「哀れなことだな」
「女の方は助かったそうだが……」
声を潜めて交わされる言葉は、そこで途切れた。
その女が今どうしているのか、知る者はいなかった。
加賀屋の女将から話を聞いた紗江も、しばらく言葉を失った。
二人で生きていきたいと願っただけで、命まで奪われるなんて。
紗江のいた時代にも、思いどおりにならない恋はあった。
それでも、好きな人と暮らす道を、自分で選ぶことはできた。
この町では、そのささやかな願いさえ、命懸けなのだ。
「……その女の人は、これからどうなるのでしょう」
女将は、困ったように眉を寄せた。
「さあねえ。生きていたところで、楽な暮らしではないだろうよ」
紗江は、膝の上で手を握った。
帰る場所がなかったら。
頼れる人も、日々の糧を得る手立てもなかったら。
助かった命を抱えて、その人はどこへ行けばいいのだろう。
女将が席を外したあとも、紗江はしばらく動けずにいた。
「紗江様」
そっと隣に腰を下ろしたお蘭が、顔を覗き込んだ。
「どうかなさいましたか」
紗江は、自分の手を見つめた。
針を持ち、布を裁ち、幾枚もの着物を仕立ててきた手だった。
「私には、縫い物があったのね」
お蘭が、静かに耳を傾ける。
「ここへ来たばかりのころは、分からないことばかりだった。でも、着物を仕立てて、喜んでもらえて……自分にもできることがあるんだって思えたの」
もちろん、それだけで生きてこられたわけではない。
葵も、お蘭も、加賀屋の人々も、手を差し伸べてくれた。
その手がなければ、今の自分はいなかった。
「私、もっと商いを広げたい」
紗江は顔を上げた。
「縫い物ができる広い場所を作るの。針仕事を覚えたい人にも来てもらって、一緒に働けるようにしたい。住むところがない人には、安心して眠れる場所も」
「働く場所と、住まいを……」
「ええ。すぐには無理でも、少しずつ」
紗江は、お蘭を見つめた。
「自分で働いて、明日の暮らしを考えられるようになれば……選べる道も増えると思うの」
誰かと生きることも。
一人で生きていくことも。
行く場所がないからと、望まない暮らしに戻らずに済むように。
お蘭は、しばらく黙っていた。
やがて、膝の上にきちんと手をそろえる。
「大きなお話でございますね」
「……そうよね」
「ですが、紗江様お一人で何もかもなさる必要はございません」
紗江が顔を上げると、お蘭は微笑んでいた。
「これまでの商いで蓄えたお金もございます。まずは、どれほどのことができるのか、皆様に相談いたしましょう」
「お蘭……ありがとう」
「その代わり、無理をなさる時は、お止めいたしますからね」
紗江は、ようやく小さく笑った。
「ええ。その時は、ちゃんと聞くわ」
お蘭は少しだけ首を傾げた。
「本当でございましょうか」
二人の間に、穏やかな笑いがこぼれた。
それから、紗江は葵や女将にも考えを伝え、相談を重ねた。
土地を探し、大工を交えて費用を確かめる。
建物を建てたあとにも、反物を仕入れる金や、働く者へ支払う金が必要になる。
思い描くだけでは見えなかったことが、幾つもあった。
紗江は帳面を前に、お蘭と何度も話し合った。
そうして、店と裁縫所、住まいとなる長屋を同じ敷地に設ける計画が、少しずつ形になっていった。
やがて、工事が始まった。
材木が運び込まれ、太い柱が立ち、梁が渡されていく。
槌の音が響くたび、紗江は足を止めて、その様子を見上げた。
ここに、針を動かす人たちが並ぶ。
一日の仕事を終えたら、隣の長屋へ帰っていく。
そんな日々を思うと、まだ柱ばかりの場所が、紗江には温かく感じられた。
だが、計画の詳しい内容を知るのは、まだ身近な者たちだけだった。
日に日に姿を現す大きな建物は、町の人々の目を引いた。
「ずいぶん立派な普請だな。誰のお屋敷だ?」
「ほら、着物の舞台をやった、紗江って娘がいるだろう。あの娘のものらしいぜ」
「へえ。とうとう自分の屋敷を構えるのか」
「着物でずいぶん儲けたんだろうな」
誰かの推測が、次の者の口では確かな話になった。
紗江が大金をつぎ込み、贅沢な屋敷を建てている。
そんな噂が、本人の知らぬところで広がっていった。
そして、その噂は、花町の片隅にも届いた。
古びた長屋の一室で、お鈴は膝を抱えていた。
駆け落ちに失敗し、愛する男を失った女だった。
捕らえられた時、二人の手は引き離された。
最後に聞いた自分の名を呼ぶ声が、何度も耳によみがえった。
思い出すたびに、その先まで聞こうとしてしまう。
けれど、もう続きはなかった。
「小さな家でいいから」
そう言って笑った男の顔を、お鈴は覚えていた。
朝になれば仕事に出て、夕方には帰ってくる。
自分は飯を炊いて、それを待つ。
二人で話したのは、そんな暮らしだった。
部屋の外で足音がすると、お鈴は顔を上げた。
足音は、いつも戸の前を通り過ぎていった。
手元には、何も残らなかった。
帰ってくる人も。
帰るはずだった家も。
生かされた自分が、明日から何をすればよいのかさえ、分からなかった。
そんな時、壁の向こうから、女たちの話し声が聞こえてきた。
「紗江って娘、今度は大きなお屋敷を建てるんだってね」
「若いのに、たいしたものさ。商いも順調で、何もかもうまくいってるんだろうよ」
何もかも。
お鈴は、膝を抱く腕に力を込めた。
自分たちは、小さな家一つ望むことさえ許されなかった。
あの人となら、狭い部屋でもよかった。
雨露をしのげて、二人で眠れれば、それだけでよかったのに。
「……なんで」
かすれた声が、唇から漏れた。
見たこともない娘の幸せが、壁の向こうで楽しげに語られている。
その声を聞いているうちに、自分だけが暗い部屋に置き去りにされたような気がした。
「私は……何もいらなかったのに」
膝の上に、涙が落ちた。
男を奪った者たちへの怒りは、ぶつける場所がなかった。
あの夜に戻ることも、男を取り返すこともできない。
紗江という名だけが、耳に残った。
若くして商いを成功させ、人に囲まれ、大きな屋敷まで手に入れようとしている娘。
その娘にも苦しんだ日々があることを、お鈴は知らなかった。
建てているものが、自分のように行き場を失った女たちを迎える場所であることも。
噂を聞くたびに、お鈴の中で、その顔も知らぬ娘の姿が膨らんでいった。
自分が失ったものを、何もかも持っている女。
やがて、お鈴は、男との暮らしを思い浮かべるよりも、その女を憎むことに長い時間を費やすようになっていた。
工事が始まって数週間。
建物の骨組みが、ほぼ組み上がったころだった。
お鈴は、加賀屋の近くに立っていた。
店の者が「紗江様」と呼びかける声に、顔を向ける。
現れたのは、若い娘だった。
受け取った包みを大切そうに抱え、店の者に頭を下げている。
あれが、紗江。
お鈴は、袖の中で拳を握った。
通りへ出た紗江は、顔なじみらしい町人に声をかけられ、足を止めた。
何かを話し、笑っている。
その笑顔を見た途端、お鈴の胸がひどく痛んだ。
自分はもう、あんなふうには笑えない。
懐に忍ばせた短刀の柄へ、指をかける。
男を失ってから冷えきっていた胸の奥が、焼けるように熱くなった。
――少し前。
その日、紗江は店の片付けを終え、お蘭が戻るのを待っていた。
すぐ近くへ使いに出たお蘭とは、表通りの角で落ち合うことになっている。
夕暮れが迫る中、紗江は店先から通りを見渡した。
そろそろ、お蘭も戻ってくるころだ。
待ち合わせの場所まで、ほんの少し。
紗江は包みを抱え直すと、そちらへ歩き出した。
背後から、一人の女がついてくることには気づかなかった。
表通りへ抜ける短い路地に入ると、町のざわめきが遠のいた。
あと少しで角に出る。
その時、背後で足音が速まった。
紗江が顔を向けかける。
「――えっ?」
肩口の下に、強い衝撃が走った。
息が止まった。
何が起きたのか分からないまま、抱えていた包みが手から落ちる。
続いて、背中を焼くような痛みが襲った。
お鈴が短刀を引き抜いた。
紗江は壁に手をつこうとしたが、指先は届かなかった。
膝が折れ、その場に崩れ落ちる。
背中を、生温かいものが伝っていた。
振り返ると、見知らぬ女が立っていた。
その手に握られた刃が、赤く濡れている。
「どう……して……」
女の顔が、にじんだ。
息を吸おうとしても、うまく吸えない。
紗江は地面に手をつき、どうにか身体を支えようとした。
その腕からも、力が抜けていった。
「紗江様!」
路地の先から、声が響いた。
お蘭が駆けてくる。
紗江はその姿を見て、何か言おうと唇を動かした。
だが、声にはならなかった。
お蘭の目に、倒れた紗江と、血に濡れた短刀が映った。
お鈴が振り向くより早く、その手首をつかむ。
ひねり上げ、刃を叩き落とすと、そのまま地面へ押さえつけた。
「よくも――!」
腕をねじり上げられ、お鈴が叫んだ。
お蘭は、その声も聞いていなかった。
視線の先で、紗江の着物に血が広がっている。
先ほどまで、あの人は笑っていた。
もうすぐ梁が渡りきるのだと。
中を見るのが楽しみなのだと。
お蘭は、落ちた短刀を拾い上げた。
「紗江様に……!」
柄を握る手に、力がこもる。
押さえつけた女へ、刃先を向けた。
「お蘭……」
かすかな声に、腕が止まった。
紗江が、地面に頬を寄せたまま、こちらを見ていた。
「だめ……」
「紗江様……」
「お願い……その人を……殺さないで……」
言葉の終わりが、息に消えた。
お蘭は紗江を見つめた。
それから、自分の手にある刃へ目を落とす。
握りしめた指が、震えた。
唇をきつく結び、短刀を遠くへ投げ捨てる。
すぐに呼子を吹いた。
鋭い音が、夕暮れの町を渡っていく。
お蘭はお鈴の両手を背へ回し、縄をかけた。
「離せ……!」
お鈴が身をよじる。
「私も殺せばいい! あの人みたいに……!」
お蘭の手が、一瞬止まった。
だが、言葉を返すことはなかった。
足も縛り、動けないことを確かめると、紗江のもとへ膝をついた。
「紗江様、私でございます。お蘭でございます」
紗江の顔は、血の気を失っていた。
お蘭は手拭いを取り出し、傷口へ当てた。
押さえた布に、たちまち血がにじむ。
「すぐにお助けいたします。どうか、そのまま……」
遠くから、呼子に応える音が返った。
続いて、駆け寄る足音がする。
路地に入ってきた蒼馬は、紗江の姿を見るなり顔色を変えた。
「何があった」
「背を刺されました。あの女をお願いいたします。私は紗江様を――」
声が詰まった。
蒼馬は一度だけ、お蘭の顔を見た。
「分かった。急げ。医者はこちらからも呼ぶ」
お蘭は頷くと、紗江の身体を慎重に抱き起こした。
傷に当てた布がずれないよう確かめ、背へ負う。
いつも、自分の足でしっかり歩く人だった。
疲れていても、こちらを気遣って笑う人だった。
その人の身体が、今は力なく、お蘭へ預けられている。
「お……蘭……」
耳元に、かすかな息が触れた。
「はい。ここにおります」
「ごめん……ね……」
お蘭は、唇を噛んだ。
「謝らないでくださいませ」
どうして、あなたが謝るのです。
言いかけた言葉を飲み込み、紗江を背負い直す。
「帰りましょう。皆様が、お待ちでございます」
お蘭は走り出した。
背中から伝わるぬくもりを、必死に確かめる。
まだ、温かい。
まだ、ここにいらっしゃる。
「紗江様」
返事はなかった。
「紗江様、お聞こえでございますか」
頬に、紗江の髪が触れた。
肩へ添えられていた手が、力なく垂れる。
お蘭は、その手をつかんだ。
「お願いでございます……」
駆ける足を緩めずに、握りしめる。
「どうか、私の前からいなくならないで……!」
夕暮れの町を、店じまいを告げる声が流れていく。
どこかの家から、飯を炊く匂いがした。
いつもと同じ、一日の終わりだった。
路地では、蒼馬がお鈴を引き起こしていた。
お鈴の目は、地面に落ちた包みに向いていた。
ほどけた端から、小さな布切れが幾枚ものぞいている。
縞や花柄の、色とりどりの布だった。
紗江が、針仕事を教える時に使おうと、選んできたものだった。
三日三晩。
紗江の意識は、戻らなかった――。




