第2章 第33話 思い出の大島紬
ある屋敷の中庭を、穏やかな風が吹き抜けた。
志乃は縁側に座り、ただ庭を眺めていた。
結った髪には後れ毛が目立ち、薄鼠の小袖の帯も緩んでいる。
四十七年連れ添った夫に先立たれてから、一年。
身支度をすることも、食事に箸をつけることも、以前のようにはできなくなっていた。
「母上……せめてお味噌汁だけでも召し上がってくださいね」
嫁ぎ先から訪ねてきた百合が、膳をそっと寄せた。
志乃は答えなかった。
庭へ向けた眼差しは、百合が来たときからほとんど動いていない。
百合は母の傍らに腰を下ろした。
道すがら見かけた花のこと。
昔、母と買いに出かけた菓子のこと。
何を話しても、返事はなかった。
やがて、百合は膝の上で手を握り、立ち上がった。
「……また来ますね」
門を出る前に、一度だけ振り返る。
母は、同じところに座っていた。
数日後、百合は加賀屋を訪ねた。
「紗江様……母に、着物をお願いしたいのです」
目の下には、薄い影が落ちていた。
紗江は向かいに座り、静かに話を待った。
「父が亡くなってから、母は何にも気持ちが向かないようで……。訪ねても、ほとんど話をしてくれません」
百合は俯いた。
「以前は、私が参ると、いつも着物を選んでくれたんです。この帯が似合うとか、もう少し明るい色を着なさいとか……」
口元に浮かびかけた笑みが、崩れた。
「また、あんなふうに話せたらと思って」
頬を伝った涙を、百合は指先で拭った。
「装いを楽しんでいた頃の気持ちを、少しでも思い出してくれたら……」
紗江は頷いた。
「お母様が大切にしていらしたお着物を、見せていただけますか」
志乃の住む屋敷は、静まり返っていた。
百合に案内されて部屋へ入ると、志乃は縁側に近いところに座っていた。指先で、小袖の裾をつまんでいる。
「初めまして。織原紗江と申します」
紗江が頭を下げても、返事はなかった。
「母上。お着物を、少し見せていただきますね」
百合が箪笥を開けた。
紅梅、露草、藍、薄紫。
畳まれた衣には、色も柄も異なる美しさがあった。
紗江は一枚ずつ目を向け、その中から深い藍の大島紬を取り出した。
細やかな絣模様。
幾度も袖を通したのだろう。布は柔らかく、手のひらにしっとりと馴染んだ。
「こちらは、よくお召しになっていたのですね」
そのとき、裾をつまんでいた志乃の指が止まった。
紗江は気づき、紬を広げたまま待った。
志乃の目が、ゆっくりと藍の布へ向く。
「あの人が……選んでくれたものです」
百合が母を見つめた。
「父上が?」
志乃は小さく頷き、それきり口を閉ざした。
紗江は紬を丁寧に畳み、志乃の前に置いた。
「このお着物を、帯を締めずにお召しになれる衣に仕立て直してもよろしいでしょうか」
志乃は、畳まれた袖を見つめていた。
「……もう、着ることはないと思っていました」
しばらくして、その手がわずかに伸びた。
指先が、布の端に触れる。
「けれど、捨てる気にもなれなくて」
「はい」
紗江は静かに応じた。
「この柔らかさを生かして、お体を締めつけない形にいたします」
志乃は布から手を離した。
「……では、お願いします」
紗江は深く頭を下げ、紬を受け取った。
数日後。
紗江の部屋には、解いた大島紬が広げられていた。
深い藍の地に、精緻な絣模様が続いている。
明かりにかざすと、織り込まれた糸の陰影が静かに浮かんだ。
紗江は傷みのある箇所を確かめ、使う部分を慎重に選んだ。
長く着られてきた布だった。
その柔らかさを損なわぬよう、縫い目を整えていく。
襟元は浅く合わせ、頭を通しやすいゆとりを持たせた。腰回りにも余裕を取り、好みに合わせて結べる細い組紐を添える。
元の着物にあった面影を残しながら、日々の暮らしの中で無理なくまとえるワンピースへと仕立てていった。
針を置き、出来上がった衣を両手で持ち上げる。
藍の裾が、柔らかく揺れた。
志乃がこの衣に触れたとき、どんな顔をするだろう。
紗江は袖をそっと撫で、丁寧に畳んだ。
翌日、紗江は百合と共に屋敷を訪れた。
「志乃様。お預かりしたお着物を、お持ちしました」
包みを開くと、志乃の目が衣へ向いた。
しばらく眺めてから、手を伸ばす。
「これが……あの大島?」
「はい。帯を締めずに、お召しになれます」
志乃は袖を持ち上げ、指で布を挟んだ。
「柔らかいままなのね」
「お召しになってみますか」
百合が尋ねると、志乃は少し迷い、それから頷いた。
紗江は廊下へ下がり、百合が母の着替えを手伝った。
袖に腕を通すと、藍の布が体に沿ってすとんと落ちた。百合が腰の組紐を緩く結ぶ。
志乃は片袖を顔へ寄せた。
ふと、その動きが止まる。
「……あの頃と同じ匂いがするわ」
箪笥にしまわれていた布に、かすかに残る白檀の香。
夫が好んでいた香りだった。
結婚して間もない頃。
この紬を初めてまとい、夫と出かけた日のことを思い出した。
帰り道、風が冷たくなった。
寒いとは言わずにいたのに、夫は足を止め、ずれた肩口を不器用な手つきで直してくれた。
「これで、少しはよかろう」
自分の肩へ触れる手が、ひどく大きく感じられた。
あのときは、翌年も、そのまた翌年も、こうして二人で歩くのだと思っていた。
志乃は袖を握った。
「……お父様と、これを着て出かけたのよ」
百合が顔を上げた。
「どちらへ?」
「花を見に。まだ、あなたが生まれる前だったわ」
話そうとすると、声が詰まった。
百合は何も言わず、母の傍らに座った。
志乃の頬を、涙が伝った。
袖で拭おうとした手に、百合が手拭いを差し出す。
「……ありがとう」
志乃は受け取り、目元を押さえた。
そのまま、二人はしばらく座っていた。
やがて志乃が、娘の顔を見た。
「百合。少し、痩せたのではない?」
百合の唇が震えた。
「そんなこと……ありません」
笑おうとして、涙がこぼれた。
志乃は手拭いを持ったまま、もう片方の手を伸ばした。
百合が、その手を両手で包む。
母の手は、温かかった。
帰り際、紗江が挨拶に入ると、志乃は衣を着たまま座っていた。
「苦しいところはございませんか」
「ええ。とても楽です」
志乃は膝の上の布を撫でた。
「この衣は、何というのです?」
「ワンピースと申します」
「ワンピース……」
確かめるように繰り返し、もう一度、袖へ目を落とす。
「形が変わっても、わかるものなのね。自分が着ていたものだと」
紗江は頷いた。
「志乃様によく馴染んだ布でしたから」
志乃はそっと顔を上げた。
「ありがとう、紗江様。また、これを着られてよかった」
「そう言っていただけて、嬉しゅうございます」
障子越しの光が、志乃の膝元を照らしていた。
数日後、百合が加賀屋を訪れた。
「紗江様。母が、庭へ出たんです」
席に着く前から、百合はそう告げた。
「あのワンピースを着て。私が参りましたら、庭に立っていて……」
声が潤み、百合はひと息ついた。
「『今年も咲いたのね』って、花を見ておりました」
紗江の頬が和らいだ。
「そうでしたか」
「まだ、床から起きられない日もあります。でも昨日は、帰ろうとした私に、次はいつ来るのかと聞いてくれたんです」
百合は膝の上で手を重ねた。
「それから、『この衣に合わせるなら、どんな羽織がいいかしら』とも」
「お好きな色はございますか」
「それを、母と話してまいります」
百合は微笑んだ。
「今度は、布をいくつか見せていただけますか。母に選んでもらいたいんです」
「はい。お待ちしてます」
店先の暖簾が、風にふわりと揺れた。




