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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第2章 幕間――留守を預かる者たち

紗江たちが京都へ発ってから、江戸ではいつもどおりの日々が続いていた。

城へ出向く者、町へ用を足しに行く者。

食事時に澄月庵へ顔を出しても、皆が揃うとは限らない。


それでも、ふと話が途切れると、誰かが門の方へ目を向けた。


――無刄、小さな一歩


その日、無刄は届け物を頼まれ、松雲の庵を訪ねた。

用を済ませ、帰ろうとした時、水晶の中で何かが動いた。

無刄は足を止めた。


淡く浮かんでいたのは、紗江の姿だった。

隣にいるお蘭へ顔を向け、何かを話している。やがて、二人が笑った。


「……紗江?」

思わず漏れた声に、松雲が顔を上げた。

「葵たちの様子を見ておった。無事にやっているようだな」


無刄は水晶を見つめた。

先ほどの姿は、もう見えなかった。


「今のは、京都にいる紗江なのですか」

「そうだ」

無刄は、少しだけ水晶へ近づいた。


松雲はその様子を黙って見ていた。

(こやつにも見えたか)


「気になるなら、座っていけ」

無刄は頷き、水晶の見えるところへ腰を下ろした。


それから幾日かして、無刄は再び庵を訪れた。

松雲は占いの最中だった。

邪魔をせぬよう隅へ座り、終わるまで待った。松雲に「何か用か」と尋ねられ、無刄は少しためらった。


「……近くへ来たので」

松雲は「そうか」と頷き、道具を片づけ始めた。

無刄はその日も、しばらく座っていた。


そんなことが、何度か続いた。


「無刄様、最近よくいらっしゃいますね」

杏が何気なく言うと、松雲は手元から目を上げずに答えた。

「ああ。葵たちが留守で、よほど暇なのだろう。好きにさせてやりなさい」

「はい」


それからも、無刄は時折やってきた。

何かを尋ねるわけでもない。

松雲が護摩を焚く時も、占いをする時も、静かに見ていた。

杏も次第に、その姿を見慣れていった。


ある日、道具を取りに立った杏は、無刄の座る場所がいつもより前になっていることに気づいた。

松雲が手を動かすと、その目が追っている。


次に訪れた時も、無刄は同じ場所へ座った。

護摩の支度が始まると、わずかに身を乗り出した。

杏は道具を置きながら、そっとその横顔を見た。


その日の片づけを終え、無刄が帰ってから、杏は松雲へ話しかけた。

「松雲様。無刄様は、陰陽道に興味がおありなのでは?」

「……そうかもしれぬな」

松雲は、無刄が座っていた場所へ目をやった。

「初めは、もっと隅におったが」


杏が小さく笑った。

「お尋ねになりますか?」

「いや。そのうち、何か言うだろう」


次に無刄が来た時も、二人はいつもどおりに迎えた。

無刄の座る場所が少しずつ近くなっても、何も言わなかった。

松雲が顔を上げる気配に、無刄がすっと背筋を戻す。

杏は下を向き、笑いをこらえた。


そんなある日。

護摩の支度を整えた松雲が座ると、そのすぐ傍らに、無刄が膝をついた。

杏は松雲と目を合わせたが、すぐに何食わぬ顔で座り直した。


松雲は、いつもどおり火を見つめていた。

やがて、傍らへ声をかける。

「やってみるか」


無刄が顔を上げた。

「私が、ですか」

「ほかに誰がおる」


松雲は護摩木を一本取り、無刄に渡した。

火へくべる場所を示し、その手元を見守る。

無刄は教えられたとおり、慎重に護摩木をくべた。


炎が揺れ、木を包んでいく。

その明かりの中で、無刄の口元がふっと緩んだように見えた。

杏は声をかけず、膝の上でそっと手を重ねた。


護摩を終え、道具を片づけたあとも、無刄は松雲の傍らにいた。

「学んでみるか」

松雲が尋ねると、無刄は黙った。


しばらくして、目を伏せる。

「松雲様。私は……文字が読めません」


松雲は一つ頷くと、立ち上がった。

棚の奥を探し、薄い本を取り出す。表紙の埃を払い、無刄の前へ置いた。

「葵が幼い頃に使っていた、手習いの本だ」


無刄は、本と松雲の顔を交互に見た。

「まずは、これから始めればよい」


差し出された本を、無刄は両手で受け取った。

角は擦り切れ、幾度も開かれた跡がある。

そっと表紙をめくると、頁の端に、幼い手で書いたらしい墨の跡が残っていた。


「……お借りします」

無刄が本を手に頭を下げると、松雲は杏へ目を向けた。

「杏、硯と筆も持たせなさい」

「はい」

杏は嬉しそうに頷いた。


その日から、無刄の部屋には、夜更けまで行灯の明かりがともっていた。


――蓮、渡せない桜


蓮は自分の部屋で、小さな桐箱を手にしていた。

蓋を開けると、桜の花が幾重にも彫り込まれた、柘植の櫛が収められている。

そっと取り上げ、指先で花びらの縁をなぞった。


――これ、きれい。


あの日の紗江の声が、耳によみがえった。


紗江と買い物へ出た日のことだった。

小間物屋の前で、紗江が足を止めた。

店先に並ぶ品々を眺めていた目が、一つの櫛に留まる。


「桜……」

手に取った紗江は、嬉しそうに目を細めた。


「気に入ったのか」

蓮が尋ねると、紗江は櫛を少し持ち上げた。

「うん。見て。花びらが重なってるところまで彫ってある」


差し出された櫛を覗き込む。

蓮には細工の良し悪しは分からなかったが、それを見つめる紗江の顔は、もう少し見ていたかった。


紗江は櫛を裏返し、しばらく眺めてから、そっと元の場所へ戻した。

「買わないのか」

「今日は、ほかに買うものがあるから。また今度」

そう言って、隣に並んでいた品へ目を移す。

蓮もそれ以上は尋ねなかった。


けれど、店を離れてからも、あの桜が心に残った。


用を済ませ、紗江と別れたあと。

蓮は、一人で小間物屋へ戻った。


「先ほどのお方ですね」

店の者に声をかけられ、わずかに足が止まる。

「……あの櫛を」


目を向けた先を見て、店の者が頷いた。

「桜のものでございますね」

差し出された櫛を確かめ、銭を払う。


「贈り物でしたら、箱にお収めしましょうか」

「ああ。頼む」

店の者は薄紙で櫛を包み、小さな桐箱へ収めた。

受け取った蓮は、蓋がきちんと閉まっているのを確かめてから、懐へ入れた。


その日のうちに渡すつもりだった。


澄月庵へ戻ると、庭先に紗江の姿があった。

こちらに気づき、笑って近づいてくる。

「蓮。どうしたの?」


懐へ手を伸ばしかけた。


買ってきた。

ただ、そう言えばよかった。


けれど、紗江に見つめられているうちに、なぜ一人で店へ戻ったのかまで、話さなければならない気がした。


「……買い忘れたものはなかったか」

口をついて出た言葉に、自分で呆れた。


「うん、大丈夫。今日は付き合ってくれてありがとう」

紗江はそう言って、抱えていた包みを持ち直した。

嬉しそうに去っていく背を見送り、蓮は懐から手を下ろした。


あれから、何度か渡そうとした。

紗江が一人でいる時を見つけても、声をかける言葉を考えているうちに、誰かがやってきた。


明日でいい。

そう思っているうちに、紗江たちは京都へ発ってしまった。


蓮は櫛を窓の明かりへかざした。

あの日、紗江の手の中にあった桜が、今は自分の手にある。


これを髪に挿したら、どんなふうに見えるだろう。

思い浮かべかけて、蓮は目を伏せた。


今頃は、京都の店先でも足を止めているかもしれない。

気に入ったものを見つけて、あの時のように笑っているだろうか。


外から、人の話し声が聞こえた。

蓮はふと顔を上げたが、すぐに手元へ目を戻した。


櫛を薄紙で包む。

彫られた花びらに引っかからないよう、ゆっくりと。

桐箱へ収め、蓋を閉じた。


帰ってきたら、今度こそ。


箱をしまおうとして、蓮は少し考えた。

それから、いつもより手前の、すぐに取り出せるところへ置いた。


――隼人、内緒の拾いもの


夜明け前、隼人はそっと家を出た。

空の桶を二つ、天秤棒に掛けて肩へ担ぐ。葵の本宅の敷地を抜け、山へ向かう道を進んだ。


湧き水を汲みに行くのは、毎朝の日課だった。

初めは、自分が飲んでうまかったから。

これで飯を炊けば、茶を淹れれば、皆も喜ぶだろう。そう思って運び始めた。


けれど、今さらそれを話すのも照れくさい。

澄月庵の甕へそっと水を移し、誰にも会わずに帰る。それでよかった。


その朝、山道の途中で、小さな鳴き声がした。

茂みを覗くと、茶色い犬が一匹、もがいていた。片足に古い縄が絡み、その先が木の根に引っかかっている。


「おいおい。何やってんだ、お前」

桶を下ろして近づくと、犬が歯をむいた。

「怒るなよ。俺がやったんじゃねえだろ」

隼人はしゃがみ込み、犬が落ち着くのを待った。


「そう。それでいい。噛むなよ」

ゆっくり縄を緩めると、毛の下に赤く擦れた跡が見えた。

最後のひと巻きを外した途端、犬は身を引いた。


「ばっかだなあ。もう引っかかんなよ」

犬は少し離れたところで振り返り、足をかばいながら木々の間へ消えていった。


「……礼くらい言ってもいいだろ」

隼人は桶を担ぎ直した。

「言えるわけねえか」


翌朝、隼人は傷薬を懐へ入れて山へ向かった。

「あいつ、怪我してたよなあ」

昨日の茂みを覗き、木の裏へ回ってみる。

姿はなかった。


「……いるわけねえか」

その時、背後でかさりと音がした。

振り返ると、茶色い犬が立っていた。


「何だ。いたのかよ」

隼人はしゃがみ、薬の包みを開いた。

犬が鼻を寄せる。

「食いもんじゃねえよ。ほら、足、見せろ」


薬を塗ると、犬が身をよじった。

「こら。ちょっと我慢しろって」

手当てを終え、隼人が息をつくと、犬も鼻からふんと息を吐いた。

「お前がため息つくな」


水を汲んで帰ろうとすると、後ろから草を踏む音がした。

振り返れば、犬がいる。

「もういいぞ。帰れ」


歩けば、ついてくる。

止まれば、犬も座る。


「俺んちじゃ飼えねえからな」

犬は首を傾げた。

「そういう顔しても駄目だ」


それでも、足を引きずりながら追ってくるので、隼人は歩幅を狭めるしかなかった。


澄月庵へ水を届ける間も、犬は勝手口の外で待っていた。

「声を出すなよ」

くうん、と鳴いた。

「返事もしなくていい」


結局、家の前までついてきた犬を、隼人は腕を組んで見下ろした。

「……足が治るまでだぞ」


戸を開けた途端、犬はするりと中へ入った。

「おい。まだ、いいとは言ってねえ」

追いかけると、犬は土間の隅で丸くなっていた。


隼人はしばらく見つめてから、使い古しの布を持ってきた。

「こっちにしろ。そこじゃ冷てえだろ」

犬はすぐに布へ移った。

「……遠慮がねえな、お前」


それから、隼人は妙に忙しくなった。

水汲みを終えれば、一度家へ戻る。

仕事の合間にも戻る。

夕方も、まっすぐ戻る。


「最近、帰るのが早いな」

蓮に言われると、隼人は目をそらした。

「俺にも、いろいろあるんだよ」


家では犬が待っていた。

隼人が戸を開けるなり駆け寄ってくるので、慌てて後ろ手に閉める。

「外まで出てくんな。見つかるだろ」


傷を確かめ、水を替える。冷えるかと思って、敷布も一枚増やした。

「足が治ったら、山へ帰れよ」

犬は隼人の足へ顎を載せた。


「聞いてんのか」

尻尾が、ぱたりと床を打った。


お絹は、毎朝、甕の水が満たされていることに気づいていた。

誰が運んでくれるのだろうと思っていたある朝、勝手口に隼人の姿を見つけた。

こぼれた雫まで拭き、そっと帰っていく。

お絹は声をかけずに見送った。


それからは、隼人が食事に来ると、つい飯を多めによそってしまうのだった。


その日も、朝餉を終えた隼人へ、おむすびの包みを差し出した。

「持っていきませんか。お腹が空くでしょう」

「いいのか?」

嬉しそうに受け取ってから、隼人は少しためらった。


「あのさ。塩をつけてねえ飯って、少しあるか?」

「ありますよ」

「それも、もらっていいか。……腹が減るからな。俺」

「そうですね」

お絹は別の包みを添えた。

隼人はほっとした顔で礼を言い、足早に帰っていった。


その姿を見送り、お絹は蓮たちの茶を淹れながら言った。

「隼人さん、犬を拾ってきたようですよ」


蓮が顔を上げた。

「犬?」

「ええ。この間、お宅の前を通ったら、戸の隙間から犬が顔を出して。隼人さんが慌てて抱き上げていたんです。『こら、静かにしろ。見つかるだろ』って」


蒼馬が、茶碗を持つ手を止めた。

「自分の声で聞こえているではないか」

蓮が笑った。

「それで最近、すぐ帰るのか」


「足に布が巻いてありましたけれど、元気そうでしたよ」

「……あいつ、何で話さないんだろうな。犬くらい飼えばいいのに」

蓮の言葉に、無刄も頷いた。

「隠しているつもりなのだろう」


「塩をつけないご飯を欲しがるので、おかしいと思っていたんです」

お絹が笑うと、蒼馬も口元を緩めた。

「まあ、面倒を見ているならいい」


蓮は茶碗を置き、三人の顔を見回した。

「でも、面白いから、しばらく知らないふりをしておくか」

「では、ご飯は少し多めに用意しておきますね」


その頃、隼人は家で犬と向き合っていた。

「いいか。誰にも見つかるなよ」

犬は尻尾で床を叩いた。


「特に蒼馬には、絶対だぞ」

念を押す隼人の顔を、犬がぺろりと舐めた。


――帰りを待つ午後


数日後の昼下がり。

澄月庵の縁側に、隼人、蓮、無刄が並んでいた。


「……まだ帰ってこねえのかな」

隼人が、庭の向こうへ目をやる。

「そう何度も言ったところで、早くはならん」

無刄はそう返したが、その視線も門の方へ向いていた。

蓮は二人の隣で、黙って膝を抱えている。


そこへ、蒼馬が足早にやってきた。

「お前たち、暇なら手伝え」

無刄が顔を上げた。

「何をすればいい」


「無刄は城へ。蓮は加賀屋の御用聞きを頼む」

蓮も頷いて立ち上がる。


隼人だけが、ごろりと横になった。

「俺は忙しいんだ。心配しなきゃならねえからな」

「隼人は、松雲様が生きているか見てこい」


隼人が、がばりと身を起こした。

「おい、もっとほかに言い方があるだろ」

「昨日も飯を食い忘れていた。ついでに何か届けてやれ」


「……それを先に言えよ」

隼人は頭をかきながら立ち上がった。

「俺が行くまで、飯も食わずに待ってんじゃねえだろうな」


「良かったな、隼人。心配する人が増えて」

無刄が言った。

蓮が吹き出すと、隼人は二人を睨んだ。

「お前ら、帰ってきたら覚えてろよ」

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