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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第2章 第32話 師弟の絆と旅立ち

――弥吉の家


翌朝。

弥吉の家の戸が、荒々しく叩かれた。


「弥吉! いるんだろう、開けろ!」


表から響いた声に、弥吉の顔が強張る。

ほどなくして、柊屋宗兵衛と大和屋の主人、そして二人の男たちが、織物場へ踏み込んできた。


「よう、弥吉」

宗兵衛が薄い笑みを浮かべる。

「約束の日だ。今日こそ、きっちり金を返してもらおうか」


「お待ちください。期限は、まだ先のはずです」


「今日に変わったんだよ」

宗兵衛は、誠一へ目を向けて薄く笑った。

「せっかく師匠が来ているんだ。弟子が機屋を手放すところを、見届けてもらおうじゃないか」


「返せねえなら、この織物場を貰う。それで話は終わりだ」


借金取りの一人が、織り機へ手をかけようとした、その時――


「それに触れるな」


低い声が響いた。

葵が弥吉の前に立ちはだかる。


「また、お前か」

宗兵衛が苛立たしげに舌打ちした。


葵は一歩も退かず、まっすぐ宗兵衛を見据えた。

「今日ですべて終わりだ」


「……何のことだ?」


「お前の悪事が、だ」


宗兵衛の顔から、わずかに笑みが消えた。


葵がお蘭へ目を向ける。

お蘭は静かに進み出ると、懐から小さな巻物を取り出した。


「昨夜、あなた方のお話を聞かせていただきました」


「昨夜……?」


お蘭が、艶やかに微笑む。

「私に見覚えはありませんか。昨夜の座敷で、お酌をしていた芸者です」


宗兵衛の顔が、目に見えて強張った。


「火事を起こし、弥吉さんに罪を着せたこと。その弱みにつけ込んで金を貸し、返済できぬよう仕向けたこと。そして、この織物場を奪おうとしていること――すべて聞かせていただきました」


「でたらめを言うな!」

宗兵衛が声を荒らげる。

「証拠はあるのか!」


「ええ。こちらに」

お蘭が巻物を開いた。

「あなたと金貸しの間で交わされた証文です。弥吉さんから織物場を奪った後、売り払った金をどのように分けるかまで、詳しく記されています」


宗兵衛の顔が、みるみる青ざめていく。

「なぜ、それを……!」


「忍びを甘く見ないことね」

お蘭の目から、笑みが消えた。


弥吉は、開かれた証文を見つめていた。

昨夜、師匠から聞かされたことは、すべて本当だった。


「本当に……私のせいでは、なかったのですね……」

誠一を振り向くと、こらえていた涙がこぼれ落ちた。


「ああ。お前のせいではない」

誠一は弥吉の肩へ手を置いた。


「あの日から、ずっと……師匠の腕を奪ったのは、私なのだと……」

その先は、言葉にならなかった。


「もう、自分を責めるな」

誠一の手に、力がこもった。

弥吉は俯き、幾度も頷いた。


その時、宗兵衛が身を翻した。

「くそっ!」


逃げようとした腕を、葵が瞬時に掴む。そのまま背後へ捻り上げると、宗兵衛は苦痛に顔を歪めた。


「離せ!」


「動くな」

葵の鋭い声に、借金取りたちも足を止めた。


すでに表には、葵が事前に知らせていた役人たちが待ち構えていた。

宗兵衛と借金取りたち、そして大和屋の主人は、次々と縄をかけられていく。


「待ってくれ! 私は何も知らん!」

大和屋の主人が喚いたが、お蘭が冷たく言い放った。

「知らぬというには、昨夜のお話はずいぶん詳しかったようですね」


やがて、男たちは役人に引き立てられ、姿を消した。

長く織物場を覆っていた重苦しい気配が、ようやく消えていく。


弥吉はその場に膝をつき、両手で顔を覆った。

「師匠……師匠……!」


誠一も膝をつくと、泣き崩れる弟子の身体を抱き寄せた。

「よく耐えたな、弥吉」

その声も、涙に震えていた。


紗江は目元を押さえ、お蘭も静かに二人を見つめている。

葵は何も言わず、朝の光が差し込む織物場を見渡した。


長い年月を経て、師弟の止まっていた時が、ようやく動き始めたのだった。


――師匠の言葉


その夜。

弥吉の家には、久しぶりに穏やかな時間が流れていた。

夕餉を終えた一同は、温かな茶を囲んでいた。


「皆様、本当にありがとうございました」

弥吉が、深々と頭を下げる。


「もうよい。顔を上げろ」

葵が静かに声をかけた。


「お蘭、本当にありがとう」

紗江が微笑む。


「私は役目を果たしただけです。すべては、葵様のご指示があってこそ」

お蘭はそう言って、控えめに頭を下げた。


誠一が隣に座る弥吉へ目を向ける。

「弥吉。これで、お前を縛るものはなくなった」


「はい……」

弥吉は頷き、膝の上の両手へ目を落とした。

「私は……師匠に、何ひとつ恩を返せないままで……」


誠一は茶碗を置いた。

「お前が織った布を、江戸で見た」


弥吉が顔を上げる。


「手に取った時、俺の教えた技だと分かった。だが、それだけではなかった」

誠一は、弥吉の目を見つめた。

「よく、あそこまで磨いたな」


「師匠……」


「苦しい暮らしの中でも、織り続けてきたんだろう」

弥吉は唇を結び、頷いた。


「俺の教えた技を、お前がここまで育ててくれた。それ以上、何を望むことがある」

誠一の目に、静かに涙が浮かぶ。

「立派な職人になったな。お前は、俺の誇りだ」


弥吉は何か答えようとした。

けれど、声にならず、深く頭を垂れた。

膝に置いた手の上へ、涙が落ちる。


誠一はその背に手を添え、弥吉が顔を上げるまで待っていた。

紗江も、何も言わずに二人を見つめていた。


やがて誠一は、居住まいを正した。

「皆さん。もう一つ、お話があります」


「何ですか?」


「私は、しばらく京に残ろうと思います」


「京都に?」

紗江が目を見開く。


「はい。宗兵衛は捕まりましたが、織物場を立て直すには、まだ時間が必要でしょう。それに……」

誠一は弥吉を見て、少し照れたように笑った。

「この先、こいつがどんな布を織るのか、そばで見ていたくなりました」


弥吉は、瞬きもせず師匠を見つめた。

「師匠……本当ですか?」


「ああ。迷惑でなければな」


「迷惑だなんて、とんでもありません!」

思わず身を乗り出し、誠一の顔を覗き込む。

「ぜひ、ここにいてください。もう一度、師匠に見ていただきながら機を織れるなんて……」


声を詰まらせた弥吉に、誠一が頷いた。

「ああ。明日から、また頼むぞ」


「……はい!」

涙に濡れた顔に、笑みが広がった。


誠一も笑っていた。

その表情は、紗江たちがこれまでに見たどの笑顔よりも晴れやかだった。


――別れの朝


翌朝。

江戸へ戻る紗江たちを、弥吉は織物場へ招いた。

弥吉の腕には、一反の反物が抱えられていた。

その隣に、誠一が立っている。


「紗江様。どうか、こちらをお受け取りください」


差し出された布を見て、紗江は息を呑んだ。

淡い金色の反物だった。


朝の光を受けるたび、繊細な光沢が水面のように揺れ、金とも白ともつかぬ柔らかな色に変わっていく。

初めて加賀屋で目にした、あの美しい布だった。


「これは……」


「師匠から受け継いだ技で織ったものです」

弥吉は一度、隣の誠一へ目を向けた。

「今の私に織れる、精いっぱいの一反です」


「でも、こんなに大切なものを、私がいただいても……?」


「紗江様に、お渡ししたいのです」

弥吉は、反物をそっと差し出した。

「この布を見て、京まで来てくださった。そのおかげで、私はもう一度、師匠と機の前に座れます」


紗江は両手を伸ばし、反物を受け取った。

腕に収まった布には、確かな重みがあった。


幾度も糸を渡し、少しずつ織り上げた一反。

その間、弥吉はどれほどの思いで、機に向かっていたのだろう。


紗江は滑らかな布を、そっと撫でた。

「ありがとうございます。必ず、大切にします」


誠一が穏やかに笑った。

「弥吉の最高傑作です。江戸で、素晴らしい着物にしてやってください」


「はい。必ず」

紗江が顔を上げると、二人が並んで微笑んでいた。


「葵様、お蘭様も、本当にありがとうございました」

誠一と弥吉が、深く頭を下げる。


「誠一さん、弥吉さん。どうか、お元気で」


「紗江様も」


名残を惜しみながら、紗江たちは織物場を後にした。

京の町を、爽やかな秋の風が吹き抜ける。


振り返ると、誠一と弥吉が、まだ見送ってくれていた。

紗江はもう一度頭を下げ、歩き出した。


腕の中で、淡い金色の布が朝の光を受けていた。


(誠一さん、弥吉さん……必ず、素晴らしい着物にしてみせます)

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