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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第2章 第31話 織音と隠された真実

――翌朝


朝日が障子を淡く照らしていた。

紗江たちが朝餉の支度を手伝う傍ら、誠一は火鉢のそばで、立ち働く弥吉を静かに見守っていた。


膳が整うと、弥吉が改めて頭を下げた。

「昨夜は、申し訳ありませんでした。せっかく来ていただいたのに、あのような騒ぎになってしまって……」

「気にしないでください」

紗江が安心させるように微笑む。

誠一も穏やかに声をかけた。

「弥吉、今日は皆さんと共に仕事場を見学させてもらっていいか」

「もちろんです」

弥吉は嬉しそうに頷いた。


その傍らで、葵がお蘭に小さく耳打ちする。

「昨夜の件、少し調べたほうがよさそうだ」

「はい。私も、そう思っておりました」

お蘭の目が、わずかに鋭くなる。

「柊屋宗兵衛……どうにも気にかかります」

「ああ。町で情報を集めてくれるか」

「お任せください」

二人は目を合わせ、それ以上は何も言わなかった。


朝餉を済ませると、一行は弥吉の織物場へ向かった。

戸が開かれ、朝の光が幾筋もの糸を淡く照らす。

弥吉は機の前に座り、糸の張り具合を丁寧に確かめた。

「それでは、始めますね」


カタン、カタン――。

杼が糸の間を滑り、規則正しい音が織物場に響き始めた。


紗江は、弥吉の手元を食い入るように見つめていた。糸が織り込まれるたび、布が少しずつ形を成していく。

「綺麗……」

思わずこぼれた声に、弥吉が微笑んだ。

「糸の張り具合や、打ち込む力が少し違うだけでも、仕上がりが変わるんです」

「同じ糸を使っていても、ですか?」

「ええ。だから、毎日織っていても気が抜けません」


紗江は頷き、織り上がった布へ目を向けた。

仕立てる時に何度も触れてきた布。その一寸一寸に、これほど細やかな手仕事が重ねられている。

弥吉の手の動きを、ひとつも見逃したくなかった。


少し離れたところで、誠一も黙って弟子を見守っていた。

杼を通す間合い。糸を確かめる指先。織り目のわずかな乱れに気づき、手を加える仕草。

かつて教えたことが、その動きの中に息づいていた。

けれど、誠一の記憶にある弥吉とは違う。

迷いのあった手は淀みなく動き、教えられるままだった少年は、自らの目で布を確かめている。


(弥吉……立派になったな)


離れていた十年の間も、この手は織り続けてきたのだ。

自分の知らない苦労を重ね、自分の知らない技を身につけながら。


誠一は目を細めた。

滲んだ視界の向こうで、弟子の手が動いていた。


葵がそっと、その隣に立つ。

「……良い弟子だな」

「ええ」

誠一は静かに頷いた。

「自慢の弟子です」


「失礼いたします」

戸口から声がかかり、一人の男が入ってきた。

五十を過ぎた頃だろうか。上質な羽織を身につけ、風呂敷包みを小脇に抱えている。

「弥吉さん、頼んでいた反物のことで――」

男は、誠一に目を留めた。

言葉が途切れ、確かめるようにその顔を見つめる。


「……誠一さんではありませんか」

「はい……?」

「私です。呉服商の近江屋でございます。以前、何度か反物を扱わせていただいた……」

誠一は驚きながら、男の顔を見つめた。

「近江屋さん……」

「ええ。お久しゅうございます」


近江屋は顔をほころばせ、誠一の前へ進み出た。

「まさか、またお目にかかれるとは。いつ京へお戻りに?」

「つい先日です。江戸から、こちらの皆さんと」

「江戸におられたのですか。お姿を見かけなくなって、皆、案じておりました」

誠一は、わずかに目を伏せた。

「ご心配をおかけしました」

「いえ。こうしてお元気なお顔を拝見できて、何よりです」


近江屋は紗江たちへ会釈すると、懐かしそうに続けた。

「誠一さんの反物が届く日は、店の者も楽しみにしていたものです。包みを解くと、皆が手元を覗き込んできましてね」

「まあ……」

紗江が誠一へ目を向ける。

「光にかざすと、色がふわりと変わる。あの美しさは、今も忘れられません」


紗江の脳裏に、中村座で見た光の打掛が浮かんだ。

団十郎の歩みに合わせ、白から淡い金へ、幾重にも色を移していた衣。

その布を織った人が、今、照れくさそうに目を伏せている。


「昔の話ですよ」

「私の店には、今も少しだけ残してあるのです。どうしても手放せずに」

誠一が顔を上げた。

「まだ、持っていてくださったのですか」

「ええ。あの織りを、若い者にも見せたくて」


誠一は何か言いかけ、やがて静かに頭を下げた。

「……ありがとうございます」

傍らで聞いていた弥吉が、嬉しそうに微笑んだ。


近江屋は機にかかった布へ目を向けた。

「弥吉さんも、年々よいものを織られる。師匠が戻られたとなれば、いっそう励みになりますな」

「はい」

弥吉の返事に、誠一も目元を和らげた。


注文の話を済ませると、近江屋は帰り際、もう一度誠一へ向き直った。

「また、お話を聞かせてください。店の者も喜びます」

「ええ。ぜひ」


近江屋を見送った後、紗江がそっと口を開いた。

「誠一さんの反物、大切にされていたんですね」

「……ありがたいことです」

誠一は戸口へ目を向けたまま、しばらく動かなかった。

その横顔には、先ほどまでとは違う、柔らかな表情が浮かんでいた。


弥吉は再び機の前に座った。

ほどなく、カタン、カタンと音が響き始める。


お蘭はその様子を見届けてから、紗江へ声をかけた。

「紗江様。少し、お暇をいただいてもよろしいでしょうか」

「ええ。どうしたの?」

「昔、江戸でともに働いていた知人が、今は祇園の茶屋にいるのです。せっかく京まで参りましたので、顔を見に行ければと思いまして」

「そうだったんですね。私のことは大丈夫ですから、ゆっくりお話ししてきてください」

「ありがとうございます」


お蘭は頭を下げ、葵と目配せを交わした。

町の噂を確かめた上で、楓を訪ねるつもりだった。茶屋で働く彼女なら、商人たちの事情にも通じているかもしれない。


織物場を出ると、お蘭は人通りの多い通りへ向かった。

店先で足を止め、品物を眺める。

荷車が通れば道を譲り、その間に交わされる話へ耳を傾ける。

宗兵衛の名を聞いたのは、しばらく歩いた先の、小さな茶屋だった。


「柊屋さんは、また手広くなさるようだねえ」

「弥吉さんの機場のことかい?」

「ああ。借金を引き受けて、仕事も回してやるそうだよ」

「腕のいい若い人だからね。織ることに専念できるなら、その方がよいのかもしれないねえ」

お蘭は団子を口へ運びながら、二人の女の話を聞いていた。


昨夜、弥吉の家に来た男の言葉が蘇る。

機場を手放せと迫る姿を、親切とは思えなかった。だが、町では救いの手を差し伸べているように受け取られているらしい。


茶屋を出た後も、商家の並ぶ通りを歩いた。

宗兵衛を褒める声に交じって、柊屋と客を争った店が、いつの間にか暖簾を下ろしていたという話も耳に入った。

事情を尋ねようとすると、相手は急に口を重くした。

「まあ、商いにはいろいろありますからね」

それ以上は語ろうとしない。

お蘭も無理には聞き出さず、礼を言ってその場を離れた。


噂だけで、宗兵衛の仕業と決めるわけにはいかない。

けれど、確かめるべきことは増えた。

お蘭は西へ傾き始めた日を見上げ、祇園へ足を向けた。


――祇園にて


軒先に提灯を掛ける者、打ち水をする者。

夕暮れを前に、茶屋の並ぶ通りは慌ただしさを増していた。


お蘭は一軒の茶屋の前で足を止めた。

「ごめんください」

奥から出てきた女が、その顔を見て目を丸くする。

「まあ……お蘭さん!」

「久しぶりね、楓ちゃん」


楓は駆け寄り、お蘭の両手を取った。

「いつ京へいらしたの?」

「つい先日よ。元気そうで安心したわ」

「お蘭さんこそ。ちっとも変わらない」

懐かしそうに顔を見合わせた後、楓はお蘭を奥の部屋へ招いた。


「今、お茶を淹れるわね」

「忙しい時に、ごめんなさい」

「いいのよ。会いに来てくれたんだもの」

楓は茶を差し出し、向かいに座った。

江戸を離れてからの暮らしを尋ね合い、ひとしきり笑ったところで、お蘭は湯呑みを置いた。


「楓ちゃん。一つ、聞きたいことがあるの」

「何?」

「柊屋の宗兵衛を知っている?」

楓の笑みが薄れた。

「……ええ。この店にも来るわ」

「どんな男なのかしら」


楓はすぐには答えなかった。

廊下に人影がないことを確かめ、声を落とす。

「気前のよいお客ではあるけれど……親しく付き合うのは、勧められないわ」

「何かあったの?」

「以前、宗兵衛と揉めた商人が、ここへ来なくなったの。店を畳んだと聞いたわ。それに、金貸しや荒っぽい連中とも付き合いがあるようで……」

お蘭は黙って耳を傾けた。


「お蘭さん、あの男と何か?」

「知り合いの織り職人が、借金のことで困っているの。宗兵衛が関わっているようだから、少し確かめたくて」

「そう……」

楓は眉を寄せ、やがてためらいがちに言った。

「実は、今夜も来ることになっているの」

「宗兵衛が?」

「ええ。大和屋のご主人と一緒に。二人とも織物商で、昔から親しいのよ」


お蘭は少し考え、楓を見つめた。

「今夜、私もその座敷へ上げてもらえない?」

「お蘭さん……」

楓の顔に心配が浮かぶ。

お蘭は、重ねるように頼みはしなかった。ただ、楓の返事を待った。


「……危ないことをするつもりではないでしょうね」

「話を聞きたいの。無理に聞き出したりはしないわ」

「顔を知られてはいないの?」

「昨夜、一度会っているわ」

「それなら、なおさら――」

「大勢いる中で、少し顔を合わせただけよ。髪も装いも変えれば、すぐには気づかれないと思う。けれど、怪しまれたら引くわ」


楓はお蘭を見つめたまま、しばらく黙っていた。

「……私のそばを離れないで。何かあったら、すぐに知らせるのよ」

「ええ。ありがとう、楓ちゃん」

ようやく頷いた楓の手を、お蘭はそっと握った。


――夜の茶屋


夜の帳が下りると、祇園の町に提灯の明かりがともった。

格子戸の向こうから、三味線の音と笑い声がこぼれている。


支度部屋の鏡の前に、お蘭は座っていた。

深い紅梅色の着物の裾には、白い蝶があしらわれている。結い上げた黒髪に金の簪を挿し、唇へ淡く紅を差した。


「まあ……」

背後に立つ楓が、鏡越しに目を見張った。

「何か、おかしい?」

「いいえ。見惚れていたのよ」

お蘭が小さく笑う。

柔らかく伏せた目元も、襟元へ添えた指先も、いつもとは違う艶を帯びていた。


「こうして並ぶと、江戸にいた頃を思い出すわ」

楓が懐かしそうに言った。

「そうね」

「今は、どんなお役目なの?」

「大切な方を、お守りしているわ」

鏡に映るお蘭の表情が、ふと和らいだ。

楓はそれを見て、微笑んだ。


やがて、廊下の向こうから男たちの声が聞こえてきた。

楓が襖へ目を向ける。

「いらしたようね」

お蘭は最後に簪の位置を確かめ、静かに立ち上がった。


座敷の前で、楓とともに膝をつく。

「失礼いたします」

襖が開くと、上座に宗兵衛、その向かいに大和屋の主人が座っていた。

お蘭は流れるような所作で頭を下げる。

「今宵は、よろしゅうお頼申します」


顔を上げると、宗兵衛の視線が止まった。

お蘭はその目を受け、わずかに首を傾げた。

「……見かけぬ顔だな」

「江戸から参りました。蘭と申します」

「江戸から?」

宗兵衛は、確かめるようにお蘭の顔を眺めた。

昨夜は紗江の傍らに控え、ほとんど口を開かなかった。今は化粧も髪形も、声の調子さえ変えている。


お蘭は目を伏せ、口元に袖を添えた。

「そんなに見つめられては、お酒を注ぐ手が震えてしまいます」

大和屋が声を上げて笑った。

「宗兵衛さん、美しい女を見ると、それだ」

「いや、失礼した」

宗兵衛も笑い、杯を差し出した。

お蘭はその隣へ進み、徳利を傾ける。

向かいでは楓が、大和屋の相手を始めていた。


酒が進むにつれ、宗兵衛は商いの話をし始めた。

大口の注文を受けたこと、よい織り手を抱えていること。お蘭が感心して頷くたび、その声には力がこもった。

「まあ。では、お忙しくていらっしゃるのですね」

「なに、使う者さえ間違えなければ、商いは回る」

「人を見る目をお持ちなのですね」

「そういうことよ」

宗兵衛が杯を空ける。

お蘭はすかさず酒を満たした。


やがて、大和屋が思い出したように尋ねた。

「そういえば、弥吉の件はどうなっている?」

「ああ。明日には片がつく」

お蘭は徳利を置き、静かに膝へ手を戻した。

「あの機場も、ようやくこちらのものだ。腕も上がり、客もついた。ちょうどよい頃合いよ」

「十年前は師匠、今度は弟子か」


宗兵衛の杯が止まった。

「……口が過ぎるぞ」

低い声に、大和屋が口をつぐむ。

宗兵衛は、お蘭と楓へ目を向けた。

「しばらく、二人にしてくれ」

「かしこまりました」

お蘭は表情を変えず、楓とともに頭を下げた。

座敷を出て襖を閉める間際、楓へそっと目配せする。


楓はかすかに頷き、廊下の先へ歩いていった。

お蘭はその足音に紛れて身を引き、行灯の明かりが届かぬ柱の陰へ膝をついた。


隣の座敷から、三味線の音が聞こえる。

その音が途切れた合間に、大和屋の声が漏れてきた。

「……誠一が戻ったとなれば、十年前のことも気になる」

「ああ。昨夜、弥吉のところにいた」

「何か探りに来たのではあるまいな」

「今さら何がわかる。火をつけた者も、とうに京を離れている」


お蘭は息を潜めた。


「だが、弥吉を助けに飛び込むところまで、お前の目論見どおりになるとはな」

「弟子が中にいると知れば、あの男は必ず助けに入る」

「そのために、弥吉が一人で残る夜を選ばせたのか」

「ああ。おかげで誠一は腕を焼き、二度と機を織れなくなった」

宗兵衛が低く笑った。


お蘭の脳裏に、織物場で弟子を見守っていた誠一の姿が浮かんだ。

あの穏やかな眼差しの奥に、どれほどの痛みを抱えてきたのか。


「どれほど良いものを織っても、誰もが誠一、誠一と……。あの男がいる限り、俺は二番手のままだった」

膝の上で、お蘭の指がわずかに曲がった。

だが、すぐに力を抜く。

ここで踏み込めば、聞いた話を否定されて終わる。

怒りを抑え、続く言葉へ耳を澄ませた。


「火事のことは、もうよい」

大和屋が言った。

「今の弥吉の借金は、大丈夫なのだろうな。元の借り入れなら、とうに返し終えているはずだぞ」

「金貸しには話をつけてある。証文を書き換え、利を足しておけばよい」

「ずいぶん荒いことをする」

「機場を渡せば借金は消えると言ってやるのだ。あいつも、それで楽になれる」

杯を置く音が響いた。


「金貸しとの取り分を記した帳面はどうした。こちらの名もあるのだぞ」

「証文と一緒に、店の奥の蔵だ」

「いつまでも残しておくな」

「取り分が決まるまでは、金貸しも手放さぬ。明日、機場を引き渡させ、分け前を渡したら、すべて燃やす」

「……ならばよいが」


(明日……)


証拠は、まだ残っている。

お蘭は二人の声が再び酒の話へ移るのを待ち、静かに立ち上がった。


廊下の曲がり角に、楓がいた。

近づいてきたお蘭の顔を見て、小さく息を呑む。

「何かわかったの?」

「ええ。急いで知らせなければならないことがあるの」

楓は座敷の方へ目を向け、声を落とした。

「こちらは私に任せて。あなたは、知人に呼ばれて帰ったと言っておくわ」

「ありがとう、楓ちゃん」

お蘭が手を握ると、楓も握り返した。

「気をつけてね」

「ええ」


支度部屋へ戻り、手早く化粧を落とす。

簪を抜き、着物を着替えると、楓に教えられた裏口へ向かった。


外の冷たい空気が、頬に触れた。

お蘭は左右を確かめ、夜の道へ踏み出す。

表通りを離れたところで、裾を引き上げた。


明日になれば、証拠は燃やされる。

その前に、葵へ伝えなければならなかった。


――十年前の真実


夜も更けた頃、お蘭は弥吉の織物場へ戻った。

紗江と弥吉は先に家へ戻り、中には葵と誠一が残っていた。


戸の開く音に、葵が顔を上げる。

「お蘭?」

「葵様。お伝えしなければならないことがございます」

声を抑えながらも、急いでいることは伝わった。

葵はお蘭をそばへ招き、向かいに座るよう促した。


「何がわかった」

「弥吉さんの借金は、宗兵衛が金貸しと手を組んで仕組んだものでした。元の借り入れなら、すでに返し終えているそうです」

「では、昨夜の取り立ては……」

誠一が眉を寄せる。

「はい。証文を書き換え、利を付け足していたのです。織物場を手放させるために」

葵は黙ったまま、お蘭の言葉を聞いていた。


「今夜、宗兵衛と大和屋が同じ茶屋へ来ておりました。座敷へ入り、二人きりになった後の話を廊下で聞きました」

お蘭はそこで一度、言葉を切った。

誠一へ目を向ける。

「……十年前の火事についても」


誠一の表情が変わった。

「火事のことを、何か……?」

「事故ではありませんでした。宗兵衛が、人を使って火を放ったのです」


行灯の火が、小さく揺れた。


誠一はお蘭を見つめたまま、動かなかった。

やがて、かすれた声が漏れる。

「宗兵衛が……なぜ」

「誠一さんの腕を妬んでいたそうです。あなたがいる限り、自分は二番手のままだと」


誠一の視線が、膝の上へ落ちた。

右手の指が、かすかに動く。

「弥吉さんが一人で残る夜を狙ったと話していました。弟子が中にいると知れば、あなたは必ず助けに入ると……」


焼け落ちる梁。

煙の向こうから聞こえた、弥吉の声。

抱き寄せた小さな体を守ろうと、覆いかぶさった時の熱さ。


誠一は右手を、左手で包んだ。

助けに入ったことを、悔やんだことはない。

あの時、弥吉を置いて逃げるなど、考えもしなかった。


けれど、火事の原因だけは、わからないままだった。

弥吉が火の始末を誤ったのではないか。

口には出さずとも、そう思ったことがあった。


「では……あの火事は……」

誠一の唇が震える。

「では……弥吉が火の始末を誤ったわけでは、なかったのですね」

「はい。宗兵衛が仕組んだことです。弥吉さんのせいではありません」


誠一は目を閉じた。

包んだ右手に、左手の指が食い込む。


「……そう、でしたか」


それだけを言うのに、長くかかった。


葵は誠一が顔を上げるのを待ち、お蘭へ尋ねた。

「証拠はあるか」

「宗兵衛の店の奥の蔵に、証文と裏帳簿があるそうです。帳簿には、金貸しとの取り分や、大和屋の名も記されていると」

「場所まで話したのだな」

「はい。ただし、明日、弥吉さんから機場を取り上げた後、すべて燃やすつもりです」


葵の目が鋭くなった。

「ならば、今夜のうちに押さえねばならぬ」

「私も、そう考えて戻ってまいりました」

「先に役人へ話を通す。帳簿と証文を確保できれば、借金の件は明らかにできよう。火事についても、そこから調べさせる」


お蘭が頷く。

葵は立ち上がりかけたが、誠一の声に足を止めた。

「私にも、できることはありませんか」

誠一は二人を見上げていた。

その顔には、まだ血の気が戻っていない。


「危険なことは、私たちに任せてくれ」

「ですが、このまま何もせずには……」

「誠一殿」

葵は再び膝をつき、誠一と目を合わせた。

「弥吉のそばにいてほしい」


誠一が、わずかに顔を上げる。

「真実を知れば、弥吉はまた自分を責めるかもしれぬ。自分を助けたために、師匠が狙いどおり傷ついたのだと。その時、あなたから伝えてやってくれ」

誠一は黙って聞いていた。

「助けたことを、悔やんではいないと」


右手を包んでいた指が、ゆっくりと緩んだ。

誠一は俯き、しばらくして深く頷いた。

「……わかりました」


目元を拭い、今度ははっきりと顔を上げる。

「弥吉を、これ以上傷つけさせはしません」

「ああ。頼む」


葵とお蘭が出ていくと、織物場は静かになった。


誠一は、機にかかった布へ目を向けた。

朝の光の中で、淀みなく動いていた弥吉の手が浮かぶ。

十年もの間、あの子は織り続けてきた。

自分が京を離れた後も、教えた技を捨てずに。


誠一は布の端へ、そっと触れた。

細やかに揃った織り目を、指先で確かめる。


火事の原因を、弥吉に尋ねたことはなかった。

傷ついた弟子に、それ以上つらい思いをさせたくなかったからだ。

けれど、何も聞かず、何も語らなかったことで、弥吉を一人で苦しませてしまったのかもしれない。


誠一は布から手を離し、傍らの杖を取った。

戸を閉めると、弥吉の待つ家へ歩き出した。

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