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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第2章 第30話 機場に忍び寄る影

湯屋から戻ると、夕餉の支度が整っていた。

皆で膳を囲むうち、弥吉が誠一の茶碗へ目を留めた。


「師匠、もう一膳いかがですか」

「ああ、もらおうか」


弥吉は嬉しそうに茶碗を受け取った。

誠一も、先ほどよりくつろいだ様子で、弥吉の話に耳を傾けている。時折笑い合う二人を見て、紗江はそっと葵へ目を向けた。

葵も気づいていたのだろう。紗江と目が合うと、わずかに口元を緩めた。


湯屋へ行っている間に、二人が何を話したのかはわからない。

けれど、今は師匠と弟子が、ごく当たり前のように同じ膳を囲んでいた。


食事が済むと、お蘭が茶を淹れた。

誠一は茶碗を手に取り、弥吉へ目を向けた。


「弥吉……あの火事の後、どうしていた?」


弥吉の表情が、少し曇った。


「……師匠がいなくなって、最初は途方に暮れました」


誠一は茶碗を置き、黙って耳を傾けた。


「それでも、師匠に教わったことまで、なくなったわけではありませんから。いつか師匠のような職人になりたいと、それだけを思って、機に向かってきました」

「……そうか」


誠一は頷いたが、弥吉が膝の上で手を握りしめていることに気づいた。


「何か、困っているのか」


弥吉は目を伏せた。


「……すみません、師匠。実は……機場を手放さなければならなくなりそうなんです」

「……どういうことだ」


その時、戸を激しく叩く音が響いた。


「弥吉! 開けろ!」


弥吉の顔が、さっと青ざめた。


「……誰だ?」


葵が戸口へ目を向ける。


「……借金の取り立てです」


再び、戸が激しく叩かれた。


「いるのはわかってるんだ! 開けろ!」

「……はい!」


弥吉が慌てて立ち上がり、戸を開けると、三人の男が上がり込んできた。


「弥吉。今日こそ、金は用意できたんだろうな」

「申し訳ありません。もう少し、お待ちいただけませんか」

「またそれか」

「今日は、大切なお客さんが来ているんです。お金は少しずつでも、必ず返します。どうか、今日のところはお引き取りください」


先頭の男が、弥吉の胸倉を掴んだ。


「返せなけりゃ、機場を渡すんだぞ。わかってんだろうな!」

「ですが……お聞きしていた額とは、あまりにも……」

「何だと?」


「その手を離せ」


葵が立ち上がった。

男は弥吉を掴んだまま、振り返る。


「誰だ、お前は」

「弥吉殿の客だ」


葵は男の前へ進み、まっすぐにその顔を見据えた。


「返済の話なら、手を離してからでもできよう」


男は葵を睨み返したが、やがて舌打ちとともに手を放した。

弥吉がよろめく。その肩を、誠一が支えた。


「貸した金はいくらだ」


葵が尋ねると、男は顎を上げた。


「あんたには関係のねえことだ」


「何を騒いでいる」


戸口から、新たな声がした。

小綺麗な身なりの男が、敷居をまたいで入ってくる。男たちはその姿を見ると、脇へ退いた。


「宗兵衛はん……」


弥吉が、ほっとしたように息をついた。

だが、誠一は弥吉の肩に添えていた手を、ゆっくりと下ろした。


「……宗兵衛」


呼ばれた男が顔を向ける。

その目が、大きく見開かれた。


「誠一……?」


しばらく、どちらも口を開かなかった。


「久しぶりだな」


誠一が言うと、宗兵衛はようやく笑みを浮かべた。


「驚いたな。いつ、京へ戻ったんだ」

「今日だ。弥吉に会いに来た」

「そうか。いや、懐かしいな。十年ぶりか」


宗兵衛は親しげに声をかけたが、誠一は笑わなかった。

紗江は、二人の顔を見比べた。

先ほどまで弥吉に向けていた誠一の眼差しが、今は硬い。

葵も黙ったまま、成り行きを見守っていた。


宗兵衛は座敷を見回すと、男たちへ向き直った。


「お客さんの前で、騒ぐものじゃない。今日は帰りなさい」

「ですが……」

「この場は、私の顔を立てろと言っている」


男は何か言いかけたが、口をつぐんだ。


「……また来るぞ、弥吉」


三人が戸口を出ていくと、宗兵衛は弥吉へ笑いかけた。


「災難だったな。困った時は、遠慮なく言ってくれ」

「ありがとうございます……」


弥吉は深く頭を下げた。

その傍らで、誠一は宗兵衛を見つめていた。


「それじゃあ、私はこれで」


宗兵衛が踵を返しかけた時、誠一が呼び止めた。


「宗兵衛」


宗兵衛は振り返った。


「あの者たちとは、どういう付き合いだ」

「付き合い?」

「お前の一言で、ずいぶん素直に引き下がったようだが」


宗兵衛は一瞬黙り、それから困ったように笑った。


「商いをしていれば、ああいう連中とも顔を合わせる。お前も知っているだろう」

「……」

「せっかく戻ってきたんだ。また、ゆっくり話そうじゃないか」


誠一は答えなかった。

宗兵衛は笑みを浮かべたまま、弥吉へ目を向けた。


「ほな、弥吉。師匠を大事にな」

「はい。ありがとうございました」


戸が閉まると、弥吉はその場に膝をついた。


「……申し訳ありません。せっかく来てくださったのに」


誠一が傍らにしゃがんだ。


「弥吉、顔を上げろ」


弥吉は俯いたまま、膝の上で手を握りしめていた。

葵はその手が緩むのを待ってから、静かに尋ねた。


「弥吉殿。先ほどの話を聞かせてもらえるか」


弥吉は顔を上げ、小さく頷いた。


「実は……火事で失った道具を揃えたり、機場を直したりするのに、金を借りまして」

「借金か」

「はい。少しずつ返してきたのですが……」

「初めに借りたのは、いくらだ」


葵が尋ねた。


「十両です」

「それで、今はいくら返せと?」

「……三十両です」


「三十両……」


紗江は思わず声を漏らした。


「少しずつ返してきたのではなかったのですか?」

「はい。反物を納めた代金から、その都度。ですが、利の分にも足りぬと言われまして……」


弥吉の声が細くなった。


「返しても、返しても、残りが減らないんです」


お蘭が眉をひそめた。


「それでは、あまりに酷いではありませんか」

「……ですが、返さなければ、ここを失ってしまいます」


弥吉は膝の上で、両手を握りしめた。

誠一の眉間に、深く皺が寄った。


「借りる時、そこまで利がつくと聞いていたのか」

「いいえ。仕事を続けていれば返せる額だと……」


誠一は、しばらく弥吉の顔を見つめた。


「弥吉。宗兵衛は、このことを知っているのか」

「……あの方が、貸し手を紹介してくださったんです」


誠一は口を結んだ。


紗江の脳裏に、先ほどの光景がよみがえる。

宗兵衛が現れると脇へ退いた男たち。その言葉に従い、不満を呑み込んで帰っていった姿。


「師匠……?」


弥吉の声に、誠一は顔を上げた。


「借金のこと、なぜ誰にも相談しなかった」

「自分で借りた金ですから……自分で何とかしなければと」


誠一は、しばらく黙っていた。


「これまで一人で、よく堪えてきたな」


その声に、弥吉の顔が歪んだ。


葵も静かに口を開いた。


「借りた金と、これまで返した金。それから、向こうが求めている額を確かめよう。弥吉殿、一人で話をつけようとせずともよい」

「……よろしいのですか」

「ああ」


誠一が頷いた。


「私にも、力にならせてくれ」


弥吉は深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


誠一はその肩へ、そっと手を置いた。


夜も更け、皆が床に就いた。

それでも、紗江の耳には、戸を叩く激しい音が残っていた。

隣の布団では、お蘭もまだ寝付けないでいた。


「……お蘭、起きてる?」

「はい」

「弥吉さん、ずっとこんな思いをしていたのかしら」


お蘭は紗江へ顔を向けた。


「……そうですね」


紗江は目を閉じた。

夕餉の席で、誠一と弥吉が笑い合っていた。

やっと二人の想いが通じ合い、また師匠と弟子として向き合えたのに。


あの穏やかな時間を、取り戻してほしかった。

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