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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第2章 第29話 京の朝

――京の朝


京の朝は、静かだった。

一行が泊まる宿の窓から、朝靄に包まれた町並みが見える。連なる瓦屋根が淡い光を受け、遠くから寺の鐘の音が響いていた。


「綺麗ね……」

紗江は窓辺に立ち、初めて見る京の朝を眺めていた。

茶を淹れていたお蘭が、穏やかに微笑む。

「江戸とは、また違った趣がございますね」

「ええ。落ち着いているのに、どこか華やかで……不思議な町ね」


そこへ、葵が部屋に入ってきた。

「誠一殿は?」

「もうお目覚めになって、散歩へ行かれました」

お蘭が答えると、葵は窓の外へ目を向けた。

朝靄の向こうに、杖をつきながらゆっくりと歩く誠一の姿が見える。


「……緊張しているのだろうな」

紗江も、その後ろ姿を見つめた。

「詳しいことは分かりませんが……お二人の間には、何か事情がありそうですね」


会いたいという思いだけでは、埋められない歳月がある。

誠一は今、どんな気持ちで京の町を歩いているのだろう。

紗江は何も言わず、遠ざかっていくその背中を見守った。


朝餉を済ませると、一行は弥吉のいる織屋へ向かった。

誠一が先頭を歩いていた。

懐かしい道を確かめるように、一歩、また一歩と進んでいく。その背中はいつもより固く、張りつめた緊張が、少し離れた紗江たちにも伝わってきた。


「誠一さん、大丈夫ですか?」

紗江が心配そうに声をかける。

「はい……大丈夫です」

振り返った誠一は微笑んだが、その表情はわずかに強張っていた。


やがて、古びてはいるものの、手入れの行き届いた木造の建物が見えてきた。


「……あれです」

誠一が足を止める。

軒先に掲げられた看板には、見覚えのある名が記されていた。


《誠一織物》


「誠一さんのお名前……」

紗江が看板を見上げる。

「ここは、誠一さんのお店なのですか?」

「……昔は、そうでした」


誠一の目は、看板から離れなかった。

「……あいつ。今も、この名を残してくれていたのか」

杖を握る手に、力がこもる。


葵はしばらく傍らに立っていたが、やがて、そっとその肩に手を置いた。

「行こう」

「……はい」

誠一は大きく息を吐き、戸を叩いた。


ややあって、中から足音が近づいてきた。

「はい、どちら様で……」

戸を開けたのは、三十代半ばほどの男だった。

少し痩せ、疲れた様子はあったが、その目には職人らしい真っ直ぐな光が宿っていた。


男は戸口の誠一を見て、息を呑んだ。

「……し、師匠……?」

「弥吉……」


その名を呼ばれた途端、弥吉の顔が歪んだ。

一歩踏み出し、確かめるように誠一を見つめる。

「本当に……師匠なのですか……?」

「ああ。久しぶりだな、弥吉」


誠一が微笑むと、弥吉はその足元に崩れるように膝をついた。

「申し訳ございません……。師匠、本当に……申し訳ございません……!」

「謝ることはない」

「ですが、私のせいで……師匠の人生を……!」


声が詰まり、あとが続かなかった。

深く下げた頭も、肩も、震えている。


誠一は杖を戸口に立てかけ、柱に手を添えながら身をかがめた。

弥吉の肩に、そっと手を置く。

「弥吉。顔を上げてくれ」


弥吉は動けずにいた。

誠一は、その肩に手を置いたまま続けた。

「お前の反物を、江戸の加賀屋で見た」

弥吉が、はっと顔を上げる。


「良い物を織れるようになったな」

「師匠……」

「よく、ここまで腕を磨いた」


弥吉の唇が震えた。

何か言おうとしても、言葉にならない。

ただ何度も頷くうちに、頬を涙が伝い落ちた。


「……ありがとうございます、師匠」

誠一は目を細め、弥吉の肩を軽く叩いた。

その目にも、涙が滲んでいた。


紗江は隣のお蘭と顔を見合わせ、そっと目元を押さえた。

葵は何も言わず、二人を見守っていた。


しばらくして、弥吉は袖で涙を拭い、立ち上がった。

誠一へ杖を渡してから、紗江たちに頭を下げる。

「申し訳ございません。皆様の前で、お見苦しいところを……」

「いや。こちらこそ、せっかくの再会に水を差してしまったのではないか」


葵の言葉に、弥吉は慌てて首を振った。

「とんでもございません。皆様が師匠と共に来てくださって、どれほどありがたいことか……」


それから、改めて一行を見回す。

「こちらの方々は……?」

「江戸から、共に来てくださった方々だ」

誠一が一人ずつ紹介する。


「こちらは紗江様。加賀屋で世話になっている」

「紗江と申します。誠一さんから、弥吉さんのお話はたくさん伺っていました」

「私のことを……」

「ええ。とても大切なお弟子さんだと」


弥吉が誠一を振り向く。

誠一は少し照れたように目を逸らした。


「こちらは、お蘭さん」

「お蘭でございます」

お蘭が丁寧に頭を下げる。


「そして、こちらが徳――」

「葵だ」

葵が短く名乗った。

弥吉は一瞬、不思議そうな顔をしたものの、深くは尋ねなかった。


「皆様、ようこそ京へお越しくださいました」

三人に向き直り、深々と頭を下げる。

「師匠を、ここまで連れてきてくださって……本当にありがとうございます」

「礼には及ばない」

葵が答えた。

「我らも、誠一殿と共に京まで来られたことを嬉しく思っている」


弥吉は何度も頷き、それから、ようやく笑顔を見せた。

「さあ、どうぞ中へ。いつまでも戸口にお引き留めしてしまって……」

戸を大きく開け、一行を織物場へ招き入れる。


――機織りの音


カタン、カタン。


中へ足を踏み入れると、木の触れ合う規則正しい音が一行を包んだ。

幾台もの機が並び、職人たちの手で休むことなく動いている。

糸や道具は整然と収められ、通路もきれいに掃き清められていた。


誠一は入口で足を止めた。

機へ向かう職人たちを見渡し、その音に耳を澄ませる。


かつては自分も、朝から晩までこの音の中にいた。

杖を手放して機に向かうことは、もう叶わない。

それでも、ここでは今も布が織られている。


「……よく、守ってくれたな」

弥吉は一度唇を結び、頭を下げた。

「皆にも、ずいぶん助けてもらいました。……師匠がいつか戻ってこられた時に、この場所を残しておきたかったのです」


その視線の先で、職人の一人が会釈した。

誠一も頭を下げると、弥吉に促され、機の間を歩き始めた。


「わあ……」

紗江は、張り渡された糸へ目を輝かせた。

横糸が通るたび、細い糸が一枚の布へと織り込まれていく。


「こんなふうに、織られていくのね……」

身を乗り出しかけ、邪魔にならぬよう足を止める。

その様子に、弥吉が微笑んだ。

「紗江様、少し織ってみられますか?」

「いいんですか?」

「ええ。こちらへどうぞ。私がお手伝いいたします」


空いている機へ案内され、紗江は恐る恐る腰を下ろした。

弥吉が傍らに立ち、糸を傷めぬよう、一つずつ扱い方を教える。

「こちらを踏むと、糸の間が開きます。そこへ、横糸を通して……」


言われたとおりに手足を動かす。

糸が引っかかりそうになり、紗江は慌てて手を止めた。

「大丈夫です。少し、力を抜いてください」

弥吉の手に助けられながら、もう一度ゆっくりと動かす。


カタン――。


通した横糸が打ち込まれ、布の端に収まった。


「……織れた」

紗江は、自分が織ったところへ顔を近づけた。

ほんのわずかな幅だった。

けれど、張られていた糸は、確かに布の一部になっている。


「こうして、少しずつ出来ていくのですね」

「ええ。一本ずつ、重ねていくのです」

紗江と代わり、弥吉が機に向かった。


カタン、カタン。


先ほどまで紗江が戸惑っていた動きが、淀みなく続いていく。

紗江はその手元を見つめ、やがて、織り上がった布へ目を移した。


「きれい……」

お蘭も傍らから覗き込んだ。

「これほど美しい反物を仕上げるには、随分と手間がかかるのでしょうね」

「ええ。糸の具合も、日によって違いますから」

弥吉は手を休め、布の表面を確かめた。

「思うように織れず、やり直すこともあります。それでも、こうして形になると、また次を織りたくなるのです」


誠一は機の傍らに立ち、織り上がった布を見つめていた。

「……少し、触れてもよいか」

「もちろんです」


誠一の指が、織り上がった布にそっと触れる。

織り目を確かめるように撫で、そのまましばらく黙っていた。

弥吉は、師の指先を見守っている。


「昔は、私と同じように織ろうとしていたな」

「はい。師匠のような布を織りたくて……今も、それは変わりません」

誠一は布から目を上げた。

「だが、これは、お前の織物だ」


弥吉が師を見つめる。

「私の教えたものだけでは、こうは織れぬ」

誠一はもう一度、布へ目を落とした。

指先に伝わる手触りを確かめ、満足そうに頷く。


「胸を張れ、弥吉」

弥吉は俯き、しばらく返事ができなかった。

やがて顔を上げると、目元を赤くしながらも、まっすぐに師を見た。

「……はい、師匠」


再び、機が動き始める。

誠一はその傍らで、弟子の手元を静かに見つめていた。


昼時になると、弥吉が一行を食事に誘った。

「近くに、湯葉料理を食べさせてくれる店があります。よろしければ、皆様でいかがでしょう」

「湯葉料理?」

紗江が興味を示すと、弥吉は微笑んだ。

「京では、よく食べられているものです。ささやかですが、ぜひ私にご馳走させてください」

「それは楽しみだな」

葵が頷き、五人は織物場を後にした。


案内されたのは、細い路地に暖簾を掲げた、小さな料理屋だった。

「おいでやす。ようこそお越しくださいました」

女将の柔らかな京言葉に迎えられ、奥の座敷へ通される。

開け放たれた障子の向こうには、よく手入れされた坪庭が見えた。


やがて、湯葉の煮物や豆腐田楽、旬の野菜を使った料理が膳に並んだ。

「美味しそう……」

紗江は箸で湯葉をそっと持ち上げ、口へ運んだ。

柔らかな舌触りのあとに、出汁の風味が広がる。


「……美味しい。薄味なのに、しっかり味がするのね」

「優しいお味でございますね」

お蘭も、感心したように頷いた。


葵は黙々と箸を進めていたが、豆腐田楽を口にすると、わずかに目を細めた。

「気に入られましたか?」

「……悪くない」

「葵様の“悪くない”は、とても美味しいという意味なんですよ」

お蘭が澄ました顔で付け加える。


「余計なことを言うな」

葵が眉を寄せると、紗江はこらえきれずに笑った。

弥吉もつられて声を上げる。


誠一は、隣で笑う弟子を見つめていた。

目元には、かつてなかった皺が刻まれている。

けれど、笑うと少し下がる眉は、昔のままだった。


食事を終えるころ、弥吉が箸を置いた。

「師匠……今夜、うちに泊まっていただけませんか」

「お前の家に?」

「はい。狭い家ではありますが……まだ、お話ししたいことがたくさんあるのです」


弥吉は、紗江たちにも目を向けた。

「皆様も、よろしければご一緒に」

誠一が窺うように振り向くと、紗江は微笑んだ。

「ええ。ぜひ、お邪魔させてください」

葵とお蘭も頷く。

弥吉はほっとしたように顔をほころばせた。


夕暮れ時、一行は弥吉の家を訪れた。

織物場からほど近い路地に建つ、小さな家だった。

軒先も戸口もきれいに掃き清められている。


「どうぞ、お上がりください」

「お邪魔します」


部屋の片隅には、小さな機と織りかけの布があった。

壁際には色とりどりの糸や道具が、使いやすいよう整然と並べられている。


「家でも機を織るのですか?」

「ええ。注文が重なった時には、夜遅くまで」

お蘭に答え、弥吉は少し照れたように笑った。

「つい、あと少しだけと思ってしまいまして」

「好きだからといって、無理をしてよいわけではないぞ」


誠一がたしなめると、弥吉は一瞬目を丸くした。

それから、嬉しそうに頷いた。

「はい。気をつけます、師匠」


弥吉に勧められ、一行は腰を下ろした。

紗江は、皆の前に湯呑みを並べる弥吉へ目を向けた。

「弥吉さんは、お一人で暮らしているのですか?」


急須を持つ手が、わずかに止まった。

「はい。妻が三年前に亡くなってからは、一人で暮らしています」

「……そうだったのですか」

紗江は目を伏せた。

「ごめんなさい。何も知らずに……」

「いえ、気になさらないでください」

弥吉は穏やかに微笑み、急須を置いた。


「今は、織物に支えてもらっています。機を織っている間は、独りではないような気がするのです」


紗江は、部屋の片隅にある機へ目を向けた。

昼間、幾台もの機が響き合っていた織物場。

弥吉はこの家でも、夜更けまで一人で機に向かっていたのだ。


誠一は何も言わず、織りかけの布を見つめていた。


しばらくして、お蘭が湯呑みを置いた。

「弥吉さん。この近くに、湯屋はございますか?」

「はい。通りへ出て、右へ行ったところにあります」

「では、少しお湯をいただいてまいりましょうか。紗江様」

「ええ、そうね」


紗江が頷くと、弥吉は立ち上がりかけた。

「それでしたら、ご案内いたします」

「道を教えてもらえれば大丈夫だ。私も共に行こう」

葵が腰を上げた。


「誠一殿は、ここで足を休めていてくれ」

「ですが……」

「旅の疲れも、まだ残っているであろう」


誠一は葵を見上げた。

その傍らで、お蘭が微笑んでいる。

「どうぞ、ごゆっくりなさってください」

誠一はわずかに目を細め、頭を下げた。

「……ありがとうございます」


弥吉から道を聞き、三人は家を出た。


戸が閉まると、部屋は急に静かになった。

弥吉はしばらく戸口を見つめ、それから誠一へ向き直った。

「師匠。お茶を、淹れ直しましょうか」

「いや。まだ温かい」


誠一は湯呑みを置き、自分の隣を軽く叩いた。

「お前も、少し座ったらどうだ」

「……はい」


弥吉は膝を揃え、その隣に腰を下ろした。

近くで見る師の手には、記憶にあるよりも深い皺が刻まれていた。


「……いつか必ず、会えると信じていました」

弥吉は、誠一の顔を見つめた。

「良かった……お元気そうで」


誠一はしばらく弥吉を見つめ、それから目を伏せた。

「何も告げずに去って、すまなかった」

弥吉が顔を上げる。

「お前の顔を見れば、決心が鈍ると思った……」


弥吉は首を振った。

言葉を探すように唇を動かし、やがて小さく息を吐く。

「聞いていただきたいことが、たくさんあったはずなのに……」

「ああ」

「何からお話しすればよいのか、分からなくなってしまいました」


誠一は、静かに微笑んだ。

「急がずとも、今夜はここにいる」


弥吉は俯き、何度も頷いた。

誠一はその隣で、弟子が口を開くのを待っていた。


行灯の明かりが、並んだ二人の横顔を照らしていた。

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