第2章 第27話 秋風と決意
江戸の町に、秋の風が吹き抜けた朝。
加賀屋の蔵で、誠一は一枚の反物を広げていた。
窓から差し込む光にかざし、ゆっくりと角度を変える。その指が、織り目を確かめるように布の上を滑った。
「誠一さん、何をそんなに熱心に見ているんですか?」
紗江が声をかけると、誠一は、はっと顔を上げた。
「紗江様……こちらをご覧ください」
差し出された反物は、淡い金色を帯びていた。
光を受けると、織り込まれた糸が水面のようにきらめき、傾けるたびに柔らかな陰影が浮かぶ。
「綺麗……」
紗江は思わず息を呑んだ。
「京都の織物場から届いたものでございます。昔、私が働いていたところです」
誠一は布へ目を戻した。
「この糸の運び……よい仕事をしております」
その声には、抑えきれない喜びが滲んでいた。
「若い職人たちが、立派に育っているようです」
紗江は、そっと誠一の横顔を見た。
懐かしそうに目を細めている。けれど、布に触れる手は、何かをためらうように止まっていた。
「私もいつか、実際に織っているところを見てみたいです」
紗江の言葉に、誠一は顔を上げた。
何かを言いかけ、いったん口を閉じる。
紗江が待っていると、誠一は反物を丁寧に畳み、両手を添えた。
「……紗江様。もし、よろしければ、京都へ参りませんか」
「京都へ?」
「私が昔いた織物場へ、ご案内いたします」
紗江は驚いて、誠一を見つめた。
いつも控えめな誠一が、今はまっすぐに返事を待っている。
「よいのですか? ぜひ、伺いたいです」
「では……おいでくださいますか」
「はい。誠一さんに案内していただけるなんて、嬉しいです」
誠一は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
顔を上げたときには、穏やかな笑みが浮かんでいた。
それでも、畳んだ反物に添えた手は、すぐには離れなかった。
――その夜。
誠一は一人、月明かりの下で古い布を広げていた。
若き日、自らの手で織り上げた布。
色は褪せ、ところどころ傷んでいる。それでも、糸を選び、機に向かっていた頃のことは、今も鮮やかに思い出せた。
もう、この手で同じものを織ることはできない。
右腕に触れると、古傷がかすかに疼いた。
(弥吉……お前は、元気にしているか)
昼間に見た反物には、かつて教えた弟子の仕事が残っていた。
細やかな糸の運びも、光を受けたときの艶も、見間違えるはずがない。
あの頃は、思うように織れず、何度も機の前で首を傾げていた。
その弥吉が、今ではあれほど見事な反物を織り上げている。
誠一の口元が、わずかに緩んだ。
だが、喜びが胸に満ちるほど、別れの日のことが思い出された。
(何も告げずに去ってしまって……すまなかった)
誠一は静かに目を閉じた。
あのときは、姿を消すことが弟子のためになると信じていた。
けれど、弥吉がその後、どんな思いで布を織り続けてきたのか、自分は何も知らない。
会って、話したい。
今の弥吉が織る姿を、この目で見たい。
誠一は古い布を畳み、旅に持っていく包みの中へ収めた。
――旅の準備
数日後、澄月庵。
紗江とお蘭が旅支度を整えていると、葵が部屋を訪ねてきた。
「京都へ行くそうだな」
「ええ。誠一さんが、昔働いていた織物場を見せてくださることになったんです」
葵は二人の荷物へ目をやり、静かに告げた。
「私も同行する」
「え?」
「誠一殿と、そなたたち二人だけでは、道中心もとない。護衛が必要だろう」
「葵様も来てくださるんですか?」
「ああ」
紗江の顔が明るくなった。
「ありがとうございます、葵様。ご一緒できて嬉しいです」
葵も穏やかに微笑んだ。
そこへ、蒼馬、蓮、隼人、無刃の四人が姿を現した。
「京都へ行くんだって?」
蓮が旅の包みへ目をやった。
「はい。皆さんも、ご一緒しませんか?」
紗江が尋ねると、お蘭も顔を上げた。
「賑やかな旅になりそうですね」
「お前たちも来るか」
葵の言葉に、隼人が嬉しそうに身を乗り出した。
だが、蒼馬は少し考えてから口を開いた。
「京都までとなれば、長く留守にすることになります。城のお役目もありますし、全員で江戸を離れるわけにはまいりません」
「そうか……」
葵が頷くと、蒼馬は続けた。
「お供できぬのは気がかりですが、葵様なら心配は無用でしょう。どうか、道中はお気をつけて」
「ああ。留守を頼む」
「はい」
蒼馬は答え、紗江へ目を向けた。
「紗江様も、せっかくの旅です。ゆっくりご覧になってきてください」
「ありがとうございます」
「帰ったら、京都の話を聞かせてくれよ」
隼人に言われ、紗江は微笑んだ。
「ええ。楽しみにしていてください」
「お梅ちゃん、お絹さん。留守の間、クロのこともお願いしていいですか?」
「はい!」
お梅が元気よく返事をする。
「クロちゃんのお世話も、皆さんのお食事も、私たちにお任せください」
「どうぞ安心して、行ってらっしゃいませ」
お絹も穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
出発の前夜。
葵は、道中の行程を確かめるため、加賀屋の誠一を訪ねた。
街道や宿場についてひと通り話し終えると、葵は言った。
「紗江が楽しみにしていた。そなたが織物場を案内してくれると」
「私も、お見せできるのを楽しみにしております」
誠一は微笑んだが、膝の上に置いた手には力が入っていた。
葵は、その手から静かに視線を戻した。
「……久しぶりに帰るのだろう。気にかかることがあるのか?」
誠一の笑みが消えた。
しばらく黙っていたが、やがて、ぽつりと口を開いた。
「昔、私には一人の弟子がおりました」
葵は頷き、その先を待った。
「弥吉と申します。真面目で、たいそう才のある若者でございました」
誠一の目が、遠い過去を見るように細められる。
「十年前、織物場で火事が起こりました。逃げ遅れた弥吉を助けるため、私は中へ戻ったのです」
古傷の残る右腕に、左手を添える。
「弥吉は助かりました。けれど、私はこの腕に傷を負い……それ以来、細かな指の動きが利かなくなりました」
葵は何も言わず、耳を傾けていた。
「布を織れなくなった私は、弥吉に何も告げず、織物場を去りました」
「なぜ、何も告げなかった?」
「私がそばにいれば、あの者は自分を責め続けると思ったのです」
誠一は俯いた。
「あの者は、私の腕を見るたびに詫びておりました。自分のせいで、私が織れなくなったのだと……。このままでは、機に向かうことさえできなくなるのではないかと、案じたのです」
「それで、身を引いたのか」
「はい。私がいなくなれば、あの者も織ることに心を向けられる。あのときは、そう考えておりました」
誠一は膝の上で、静かに拳を握った。
「けれど、先日届いた反物を目にして……弥吉が今も織り続けていることを知りました。私が教えたことを、あの者は自分のものにしておりました」
声が、かすかに震える。
「嬉しかったのです。もう一度、会いたいと思いました」
誠一は顔を上げた。
「ただ、今さら何と言えばよいのか……。勝手に去った私を、あの者がどう思っているのかも分かりません」
葵は、しばらく誠一を見つめていた。
「弥吉を思ってのことだったのだな」
「はい……」
「だが、何も告げずに去られた弥吉は、そなたの思いを知ることができなかった」
誠一は言葉を失った。
「自分のせいで師を失ったと、今も思っているかもしれぬ」
「……そうでございますね」
誠一の視線が、膝の上へ落ちた。
「私は、あの者のためと思いながら、あの者の気持ちを聞こうともしませんでした」
「今なら、聞ける」
葵の声に、誠一は顔を上げた。
「相手を思うことと、本心を隠すことは違う」
葵は、誠一の肩にそっと手を置いた。
「今度は、そなたの言葉で伝えるのだ。弥吉の話も、聞いてやれ」
「……はい」
誠一は目を潤ませ、深く頷いた。
「今度こそ、そういたします」
膝の上で握りしめていた手をほどき、静かに頭を下げる。
「ありがとうございます、葵様」
――旅立ち
翌朝。
澄み渡る秋空の下、葵、紗江、お蘭、誠一の四人は、京都を目指して江戸を発った。
誠一は一度、遠ざかっていく町並みを振り返った。
十年前、京都を去ったときは、二度と戻ることはないと思っていた。
今は、あの織物場へ続く道を歩いている。
「誠一さん?」
少し先で、紗江が足を止めていた。
誠一は顔を上げ、微笑んだ。
「ただいま参ります」
古い布を収めた包みを背負い直し、三人のもとへ歩み寄る。
(弥吉……お前の話を、聞かせてくれ)
秋風に背を押されるように、一行は西へ向かって歩み始めた。




