第2章 第26話 白梅の祝福と新たな風
――婚礼の決意
その夜、越後屋の奥座敷。
清之助は父母の前に座り、背筋を伸ばした。
「先日のお話ですが……あの縁談を、お受けしたく存じます」
母は目を潤ませ、父はゆっくりと頷いた。
「そうか。染物問屋との縁組は、越後屋にとっても良き縁となるだろう」
清之助は深く頭を下げた。
胸の奥には、まだ痛みが残っている。
けれど、その痛みが消えるのを待つばかりではいられなかった。
顔を上げ、父母をまっすぐに見つめる。
「先方のお嬢様にも、誠意を尽くしてまいります」
母の口元に、安堵の笑みが浮かんだ。
――婚礼
冬の気配が忍び寄るころ、江戸の空は高く澄んでいた。
澄月庵の庭先で、紗江は贈り物の包みを整えていた。
淡い藍色の反物には、白梅の文様が染め抜かれている。
傍らでそれを見ていたお蘭が、ためらいがちに口を開いた。
「紗江様……清之助さんのお気持ちを聞かれて、これから、お仕事をご一緒しづらくはありませんか?」
紗江は手を止めた。
「……少し、戸惑いました。私には、同じお気持ちをお返しすることはできませんから」
反物へ目を落とし、そっと布の端を整える。
「でも、清之助さんには、良いところがたくさんあるでしょう。誠実で、細やかなお気遣いもできて……私の作る物にも、いつも真剣に向き合ってくださいます」
お蘭は静かに頷いた。
「私のことを、あんなふうに大切に想ってくださったことも、嬉しかったんです。清之助さんのお人柄は、私も好きですから」
紗江は少し言葉を探してから、続けた。
「だからこそ、これからは清之助さんご自身にも、幸せになっていただきたいです」
白梅の文様を見つめる目が、柔らかくなった。
「そのうえで、また一緒にお仕事をしていけるなら……私にとって、とても嬉しいご縁だと思います」
「……そうですね」
お蘭も微笑み、反物へ目を向けた。
「花嫁様にも、そのお気持ちが届くといいですね」
「ええ。お二人に喜んでいただけたら、嬉しいです」
添える小さな札には、紗江の筆で祝いの言葉が記されていた。
『花嫁さまへ。お二人の日々が、穏やかで幸せなものとなりますように』
紗江は小さな札を添え、丁寧に包みを閉じた。
「では、私がお届けしてまいりますね」
お蘭が手を差し出したとき、傍らから声がした。
「いや、ここは俺が行こう」
振り向くと、葵が立っていた。
「葵様が……? でも、お祝いを届けるために行っていただくのは、気が引けます」
「俺も、清之助殿に祝いを伝えたい」
葵は包みへ目を向け、それから紗江を見た。
「そなたの気持ちを知りながら、あの男は自分の想いを伝えた。……勇気の要ることだっただろう」
紗江は黙って頷いた。
葵も、清之助がどれほどの覚悟で紗江に向き合ったのか、考えずにはいられなかった。
その想いに、自分からも何か応えたい。
婚礼の知らせを聞いてから、会って言葉を交わしたいと思っていた。
「今日は、顔を見て祝いたいんだ。俺に届けさせてくれ」
「……はい」
紗江は包みを持ち上げ、葵へ渡した。
「お二人に、どうぞお幸せにとお伝えください」
「ああ」
葵は頷き、大切に包みを受け取った。
――白梅の祝福
越後屋の奥座敷には、婚礼を祝う人々の声が届いていた。
新しい紋付に身を包んだ清之助は、葵の姿を認めると、少し驚いたように目を見開いた。
「葵様……わざわざお越しくださったのですか」
清之助の顔に、笑みが浮かんだ。
今日、この人が訪ねてくれたことは、素直に嬉しかった。
「婚礼、おめでとう。紗江からも、お二人への祝いを預かっている」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。
「……ありがとうございます」
清之助は両手で包みを受け取った。
淡い藍色の反物に、白梅の文様が染め抜かれている。
添えられた札には、花嫁への祝いの言葉があった。
紗江らしい、優しい心遣いだった。
しばらく札を見つめてから、清之助は指先で布の端を整え、そっと畳み直した。
「妻と、大切に使わせていただきます」
口にした言葉が、自分の胸にも静かに届いた。
葵は頷き、清之助の手元を見守っていた。
「この縁組で、染物の仕入れも、より確かなものにしていけるでしょう」
商いの話になると、言葉は自然に続いた。
「良い布が手に入れば、作り手にも新しい仕事をお願いできます。紗江殿のお品も、もっと多くの方にお届けしたいと思っております」
それは、心から望んでいることだった。
父から店を任される日を思えば、試してみたい商いもいくつもあった。
けれど、紗江の名を口にするたびに残る痛みは、まだ消えなかった。
「……これからも、よろしくお願いいたします」
清之助が頭を下げると、葵も姿勢を正した。
「こちらこそ。頼りにしている」
顔を上げた清之助は、少し笑った。
この人を、嫌いになれたら。
そんなことを思った日もあった。
けれど今、まっすぐに向けられた眼差しを見ていると、訪ねてきてくれて良かったと思う。
「紗江殿に、ありがとうございましたとお伝えください」
「ああ。必ず伝える」
そのとき、奥の襖が静かに開いた。
薄紅の打掛に身を包んだ花嫁が、こちらを見つめていた。
清之助と目が合うと、微笑もうとして、その口元がわずかに強張った。
膝の上では、両手が固く重ねられている。
清之助は包みを傍らに置き、花嫁の前へ進んだ。
この人は、どれほど心細い思いで今日を迎えたのだろう。
自分の胸に残る想いを、今すぐ消すことはできない。
それでも、この人の不安に背を向けたくはなかった。
「……お待たせいたしました」
花嫁が、そっと顔を上げた。
「私も、緊張しております。何からお話しすればよいのか、先ほどから考えておりました」
花嫁の口元が、少し和らいだ。
清之助は、その表情にほっとした。
「至らぬところもあるでしょうが……これから、少しずつ互いのことを知っていければと思っております」
「……はい」
小さな返事を、清之助は聞き漏らさず受け止めた。
花嫁が顔を上げる。
清之助はその目を見つめ、穏やかに微笑んだ。
少し遅れて、花嫁の口元にも笑みが浮かんだ。
葵は、二人の姿を静かに見守っていた。
清之助の胸にあるものが、すべて晴れたわけではないだろう。
それでも今、彼は目の前の人に心を向けていた。
葵の肩から、ようやく力が抜けた。
清之助がこちらを振り向くと、葵は軽く頭を下げた。
「……どうか幸せに」
「ありがとうございます、葵様」
その笑みを受け止めて、葵は席を辞した。
帰り道、澄んだ空を仰ぐ。
来るときには胸に残っていた気がかりが、少し和らいでいた。
紗江には、二人が笑っていたと伝えよう。
葵は澄月庵へ向かう足を進めた。
――新たな風
その夜。
澄月庵の行灯に、明かりがともっていた。
「ごめんくださいませ」
控えめな声に紗江が振り向くと、戸口に一人の若い娘が立っていた。
髪をきちんと結い上げ、質素な着物を整えている。
胸に抱えていたのは、紗江が仕立てた小さな手提げだった。
「その手提げ……」
紗江の視線に気づくと、娘は頬を赤らめた。
「はい。紗江様のお作りになった物でございます。大切に使わせていただいております」
手提げには使い込んだ柔らかさがあり、それでも汚れはほとんど見当たらなかった。
「ありがとう。こんなに大切にしてくださって、嬉しいです」
紗江が微笑むと、娘の表情もわずかに和らいだ。
けれど、何かを言いかけては口を閉じ、手提げを抱く手に力を込めている。
「どうしました?」
娘は息を吸い、紗江をまっすぐに見つめた。
「……どうか、私を弟子にしてくださいませ」
紗江とお蘭は、思わず顔を見合わせた。
「弟子……ですか? 私、人に教えたことはなくて……」
「弟子と呼んでいただけなくても構いません。掃除でも、使い走りでもいたします。どうか、ここで学ばせてくださいませ」
娘は深く頭を下げた。
手提げを抱えた指先が、小さく震えている。
「まず、お顔を上げてください」
紗江は娘の顔を覗き込み、微笑んだ。
「ちょうど、お仕事を手伝ってくださる方がいたらと思っていたんです。お針子さんとして来ていただけるなら、大歓迎です」
娘は驚いたように顔を上げた。
「……よろしいのですか?」
「ええ。おかげさまで、ご注文もたくさんいただいていて。手が足りなくなってきたところなんです」
「私も、来ていただけたら助かります」
お蘭も嬉しそうに頷いた。
「縫い物は、お好きですか?」
「はい。大好きでございます。針と糸も、いつも持ち歩いております」
娘は懐から、小さな針箱を取り出した。
「まあ。では、私たちと同じですね」
紗江が笑うと、娘の口元も少しほころんだ。
「初めは、慣れない仕事もあると思います。分からないことは、遠慮なく聞いてくださいね。一緒に縫いながら、覚えていきましょう」
「はい……! ぜひ、お願いいたします」
「いつから来られますか?」
「両親に話し、許しをいただけましたら、明日からでも」
「では、ご両親とよくお話ししてきてくださいね。……そうだ、まだお名前を伺っていませんでした」
「梅と申します。十六になります」
「お梅ちゃんですね。これから、よろしくお願いします」
その言葉を聞いた途端、お梅の膝から力が抜けた。
「あ……」
その場にへたりと座り込み、慌てて姿勢を正そうとする。
「お梅ちゃん、大丈夫?」
紗江が傍らにしゃがむと、お梅は頷いた。
けれど、返事をする前に涙がこぼれた。
「すみません……ずっと、緊張していて……」
袖で目元を押さえながら、途切れ途切れに続ける。
「門の前まで来ても、なかなか声をかけられなくて。断られたら、何とお願いしようかと、そればかり……」
紗江は、お梅の背にそっと手を添えた。
「勇気を出して、来てくれたんですね」
お梅が頷く。
「……来て、良かったです」
ようやく口元に笑みが浮かんだ。
それを見て、紗江も目元を和らげる。
「私も、来てもらえて良かった」
お蘭が手ぬぐいを差し出した。
お梅は涙を拭い、改めて深く頭を下げた。
「どうぞ、よろしくお願いいたします」
それから幾日か過ぎた夜。
作業場の机には、お梅が描いた和小物の図案が並んでいた。
「これ……全部、お梅ちゃんが考えたの?」
紗江は手を止め、一枚ずつ見ていった。
扇子に散らした小花。
巾着の口を結ぶと、葉の間から花が覗く刺繍。
着物の柄を引き立てる、小さな飾り。
どれも、使う人の姿を思い浮かべながら描いたことが伝わってきた。
「うまく描けているか、分からないのですが……」
お梅は落ち着かない様子で、紗江の手元を見つめていた。
紗江は小さな巾着の図案を取り上げた。
「この花、紐を結ぶと、少し隠れるのね」
「はい。開いたときに、もう一つ花が見えたら、嬉しいかと思いまして」
紗江は図案から顔を上げた。
「……素敵。使うたびに、楽しみがありますね」
お梅の頬が赤くなった。
「これ、一緒に作ってみましょう」
「よろしいのですか?」
「ええ。布も、糸の色も選びましょう。お梅ちゃんは、どんな色にしたい?」
お梅は図案を覗き込み、少し考えてから、机の上の糸へ手を伸ばした。
「この色を……使ってみたいです」
紗江は隣へ場所を空けた。
やがて清之助も、お梅の図案に目を留めるようになった。
越後屋から届く布や糸を広げるたび、作業場では新しい相談が始まった。
どの色を合わせようか。
どんな形なら、使いやすいだろうか。
ひと針、またひと針。
行灯の明かりの下で、お梅は縫い上がった巾着の紐をそっと引いた。
布が寄り、小さな花がひだの間に隠れる。
紗江が口を開くと、その花がもう一度姿を見せた。
「……本当。開くたびに、お花が見える」
お梅は嬉しそうに頷いた。
「思っていたとおりに、できました」
紗江も微笑み、巾着をお梅の手に返した。
机の上には、次の一枚が待っていた。




