第2章 第25話 紗江拵えと、告げた想い
――翌朝。
宿で一夜を明かした一行は、再び江戸へ向けて歩き出した。
昨夜は疲れから口数も少なかったが、ひと晩休んだ今は、道中の会話にも笑い声が戻っていた。
やがて街道沿いの茶屋に差しかかると、お蘭がふと足を止めた。
「紗江様、ご覧ください」
小さな茶屋の軒先に、子どもたちが集まっていた。その向こうで、胸元に飾り布をあしらった前掛け姿の少女が、客へ茶を運んでいる。
「あの時の宿屋の娘じゃないかしら」
紗江は、懐かしそうに目を細めた。
少女が身を屈めると、裾の飾り布がふわりと揺れた。茶碗を置いて客と言葉を交わすその顔は、明るくほころんでいる。
「紗江様の仕立てた前掛けが、よく似合っていますね」
「本当ね。気に入ってくれて良かった」
「……あの前掛けは、紗江殿がお作りになったのですか」
声に振り向くと、清之助も少女を見つめていた。
「ええ。宿でお世話になったお礼に」
「そうでしたか。動きやすそうですし、仕事着でありながら、着る楽しみもございますね」
少女が茶屋の奥へ戻るまで見届けてから、清之助は紗江へ向き直った。
「紗江殿。ぜひ、あの前掛けを越後屋でも扱わせていただけませんか。働く娘たちに、きっと喜ばれると思うのです」
思いがけない申し出に、紗江は目を丸くした。
「これを、お店で?」
「はい。仕立てやお代のことも、きちんとご相談のうえで。お許しいただけるなら、ぜひ」
身を乗り出しかけた清之助の横から、お蘭が口を挟んだ。
「清之助さん。まずは、無事に江戸へ帰ってからにいたしましょう。詳しいお話は、私も一緒に伺います」
「……これは、失礼いたしました。つい、商いのことになると」
清之助が姿勢を正すと、紗江はくすりと笑った。
「江戸へ戻ったら、ゆっくりお話ししましょう」
「はい。ありがとうございます」
その嬉しそうな顔に、お蘭も小さく笑みをこぼした。
「さあ、そろそろ行こう」
葵の声に、一行は再び歩き出した。
――紗江拵え(さえごしらえ)
江戸へ戻って、数日が過ぎた。
澄月庵には、穏やかな時間が流れていた。
「こうして、ゆっくりお茶を飲めるのは嬉しいですね」
お蘭が茶を注ぎながら微笑む。
「本当ね」
紗江も頷き、茶碗を手に取った。
その時、門の方から声が響いた。
「紗江殿!」
顔を出したのは、越後屋の清之助だった。手には、風呂敷包みを大事そうに抱えている。
お蘭は茶碗を置いた。
「……ゆっくりできると思ったのですが」
紗江が思わず笑うと、清之助は不思議そうに二人を見比べた。
「何かございましたか?」
「いいえ。今日は、どうなさいました?」
清之助は待っていましたとばかりに、包みを開いた。
「あの前掛けを、試しに一着仕立ててみました。まずは、紗江殿にご覧いただきたく」
広げられた前掛けを見て、紗江は身を乗り出した。
胸元を覆う布に、肩と裾の飾り布。宿屋で少女に作ったものが、丁寧に再現されていた。
「まあ……もう仕立ててくださったんですね」
「はい。店の者に見せましたら、自分の娘にも欲しい、女房にも着せたいと、口々に申しまして」
清之助は、前掛けを掲げた。
「これは売れます。茶屋に旅籠、料理屋……いや、店仕事に限らず、家で働く方にも喜ばれるはずです」
「清之助さん」
お蘭が声をかけた。
「まずは、紗江様のお話を伺いましょう」
「あ……はい。失礼いたしました」
清之助が前掛けを下ろすと、紗江は笑いながら手を伸ばした。
布地を指で確かめ、縫い目をたどる。
「柔らかくて、良い木綿ですね。これなら、洗って何度も使えそう」
清之助の顔が明るくなった。
「では、越後屋で扱わせていただけますか?」
「ええ。ただ、作るなら布地の質は落とさないでください。毎日着るものですから、肌触りや動きやすさを大切にしたいんです」
紗江は肩の飾り布を、そっと整えた。
「綺麗だから着たいと思ってもらえて、着てみたら仕事もしやすい。そんな前掛けにしたいですね」
清之助は深く頷いた。
「承知いたしました。そのお考え、しかと職人たちにも伝えます」
そして、改めて姿勢を正した。
「紗江殿にお納めする分についても、ご相談させてください。紗江殿の工夫をお借りする以上、曖昧にはできません」
紗江が口を開くより早く、お蘭が頷いた。
「ええ。そこは、きちんと決めていただきましょう」
清之助とお蘭の真剣な顔を見て、紗江は微笑んだ。
「では、お願いします」
「はい。それから、品の名ですが――『紗江拵えの前掛け』というのはいかがでしょう」
「私の名前を?」
「紗江殿が考えた品ですから。お客様にも知っていただきたいのです」
紗江は、もう一度、前掛けへ目を落とした。
宿屋で、一人の少女に喜んでもらいたくて仕立てたものだった。
それが今、まだ会ったことのない誰かのもとへ届こうとしている。
「……嬉しいです。よろしくお願いします」
清之助は、満足そうに笑った。
やがて、越後屋の店先に、色とりどりの前掛けが並んだ。
淡い藍、桜色、生成りの木綿。
茶屋の娘も、旅籠の女中も、職人の妻も、気に入った一枚を選んでいく。
仕事の合間に裾の飾り布を整えたり、顔なじみと互いの色を見比べたり。
働く日々に小さな楽しみを添えるその前掛けは、「紗江拵え」の名とともに、江戸の町へ広まっていった。
――清之助の決意
それから、半月ほどが過ぎた。
越後屋には、「紗江拵えの前掛け」の注文が相次いでいた。
清之助は帳簿を繰りながら、次に仕立てる分の布地を確かめていた。
藍は、落ち着いた色を好む者に。
桜色は、若い娘たちに。
どの色もよく売れている。
(新しい前掛けも、紗江殿にご相談してみようか)
前掛けを広げ、嬉しそうに笑った顔が浮かぶ。
清之助の口元が、自然と緩んだ。
「清之助」
店の奥から、父の声がした。
帳簿を閉じて座敷へ向かうと、父と母が並んで待っていた。
「父上、母上。何かございましたか」
清之助が腰を下ろすと、父が口を開いた。
「お前の縁談のことだ」
帳簿を置こうとした手が、止まった。
母が、静かに言葉を継いだ。
「染物問屋の紺屋源右衛門殿の娘御を、覚えているでしょう。先方から、お話をいただいているのです」
「……はい」
「器量もよく、しっかりした娘さんだと聞いています。お前も、もう二十四。そろそろ身を固めてもよい頃でしょう」
清之助は、膝の上へ手を戻した。
父が、傍らの帳簿へ目を向ける。
「前掛けの商いは、よくやっている。店の者たちからも聞いておる」
「ありがとうございます」
「これから数を増やすなら、良い布を途切れず仕入れねばならん。源右衛門殿との縁が深まれば、互いの商いにも助けとなろう」
清之助にも、それはわかっていた。
紗江と約束した布地の質を守りながら、増え続ける注文に応える。そのために、確かな仕入れ先は欠かせない。
「いずれ、お前がこの店を継ぐ。店の者や、仕事を頼んでいる職人たちのことも考えてもらいたい」
「……承知しております」
答えた声は、自分でも驚くほど小さかった。
母はしばらく清之助を見つめてから、そっと尋ねた。
「心に決めた方がいるのですね」
清之助は顔を上げた。
母の眼差しは、穏やかだった。
「近頃のお前を見ていれば、わかります。その方に、お話はしたのですか」
清之助は、首を横に振った。
「……いいえ」
「これから、お伝えするつもりは?」
問いかけに、すぐには答えられなかった。
紗江の笑顔が浮かぶ。
けれど、その隣にはいつも、葵がいた。
清之助は視線を落とした。
「その方には……想う相手がおります」
母は、何も言わなかった。
父も口を閉じ、清之助の返事を待っていた。
「少し、考える時間をいただけますか」
やがて、父が頷いた。
「来月の初めまでに返事をしたい。先方を、いつまでもお待たせするわけにはいかんからな」
「はい」
話が終わっても、清之助は座敷に残っていた。
店先から、客を迎える声が聞こえる。
前掛けの色を迷う娘に、手代が別の一枚を勧めていた。
紗江の作ったものが、この店に人を呼んでいる。
そのことが嬉しくて、少しでも力になりたくて、清之助は夢中で働いてきた。
会いに行けば、紗江はいつも笑顔で迎えてくれた。
商いの話を聞き、一緒に布を選び、新しい工夫を喜んでくれる。
その時間を、手放したくなかった。
けれど、紗江が葵を見る時の眼差しを、清之助は知っていた。
葵が傍らに来るだけで、ふっと肩の力が抜けることも。
(……私に、向けられたものではない)
わかっていながら、会う理由を探していた。
新しい品の相談も、売れ行きの報告も、嘘ではなかった。
ただ、その用事が済んでも、もう少しだけ話していたかった。
清之助は、閉じた帳簿に手を置いた。
この店を継ぎたいと思う気持ちも、紗江を慕う気持ちも、どちらも本当だった。
だからこそ、何も伝えずに縁談を受ければ、いつまでも心を残してしまう気がした。
(お返事を求めるのではない。ただ、一度だけ……)
清之助は、ゆっくり顔を上げた。
(自分の言葉で、お伝えしよう)
店先で、また客を迎える声がした。
清之助は帳簿を手に、立ち上がった。
――告白
数日後、清之助が澄月庵を訪ねてきた。
手には、風呂敷包みを抱えている。
「清之助さん。どうぞ、お入りください」
紗江が迎えると、清之助は静かに頭を下げた。
「今日は、少しお話ししたいことがございまして」
いつもの弾むような声とは違っていた。
紗江は頷き、客間へ案内した。
お蘭が茶を運んできたが、清之助の様子を見ると、そっと席を外した。
庭の木々を、風が揺らしていた。
清之助は茶碗に手を添えたまま、しばらく黙っていた。
紗江も急かさず、向かいに座って待った。
「……前掛けが、よく売れております」
やがて、清之助が口を開いた。
「お買い上げくださった方がお知り合いを連れてきて、今度はその方が別の方を……ありがたいことです」
「良かった。皆さん、気に入ってくださったんですね」
紗江が微笑むと、清之助もわずかに笑った。
「はい。紗江殿のお品を扱わせていただくようになって、店でお客様の笑顔を見ることが増えました」
清之助は、茶碗から手を離した。
「私も、商いをするのが、以前にも増して楽しくなりました」
「清之助さんが、大切に売ってくださるからですよ。私も、安心してお任せできます」
その言葉に、清之助は目を伏せた。
膝の上で、一度、指を握り直す。
「……私に、縁談の話が参りました」
「縁談……ですか」
紗江は、静かに茶碗を置いた。
「はい。染物問屋の娘御です。父も母も、良いご縁だと申しております」
清之助は顔を上げた。
「お返事をする前に、どうしても、紗江殿にお伝えしたいことがございました」
紗江は、その眼差しを受け止めた。
「私は……紗江殿を、お慕いしております」
風が、庭の葉を鳴らした。
紗江の唇がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。
清之助は、まっすぐに紗江を見つめていた。
「お会いするたびに、次はいつお会いできるだろうと、そればかり考えておりました」
口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「商いの話をしに来たはずが、お話が済んでも、なかなか帰る気になれず……お蘭殿には、何度も見抜かれてしまいましたね」
紗江の目元が、ゆっくりと潤んだ。
「清之助さん……」
「紗江殿のお心が、葵様にあることは存じております」
清之助は静かに続けた。
「ですから、お返事をいただきに来たのではございません。ただ、何も申し上げずに終えてしまえば、私はいつまでも、ここへ来る理由を探してしまいそうで」
膝の上の指先が、震えていた。
「一度だけ、自分の言葉でお伝えしたかったのです」
紗江は、すぐには答えられなかった。
清之助が店先で、自分の作った品を嬉しそうに広げていた姿が浮かぶ。
仕立てたものを信じ、まだ見ぬ人たちへ届けてくれた。
その人が、今は懸命に笑おうとしている。
「……ありがとうございます。そんなふうに、想ってくださって」
紗江は、膝の上で両手を重ねた。
「でも、私は……葵様を、お慕いしています」
清之助は、ゆっくりと頷いた。
「はい」
短い返事のあと、清之助は傍らの包みへ手を伸ばした。
風呂敷を解くと、深い藍色の反物が現れた。
「こちらを、受け取っていただけますか」
「これは……」
「これは、私からの最後の贈り物です」
清之助は反物を、そっと二人の間へ置いた。
「紗江殿の手で、どのような一着になるのか……それを楽しみにしても、よろしいでしょうか」
紗江は藍の布に触れた。
柔らかな手触りを確かめるうち、こらえていた涙が一粒、頬を伝った。
「……大切に、仕立てます」
清之助の肩から、わずかに力が抜けた。
「ありがとうございます」
「清之助さんが、私の作ったものを信じてくださったことも、今日のお言葉も……忘れません」
紗江は涙を拭い、顔を上げた。
「清之助さんにも、幸せになってほしいです」
「……はい」
清之助は深く頭を下げた。
顔を上げた時には、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
「お聞きくださって、ありがとうございました」
紗江は反物を膝に抱き、清之助が立ち上がるのを見つめた。
――三人の想い
澄月庵を後にした清之助は、門を出たところで足を止めた。
一度、深く息を吸う。
それでも、胸のつかえは取れなかった。
「清之助殿?」
顔を上げると、道の向こうから蓮と無刄が歩いてきた。
「紗江に会いに来ていたのか」
蓮の問いに、清之助は頷いた。
「はい。……想いを、お伝えして参りました」
二人の足が止まった。
清之助は、空になった風呂敷を握り直した。
「私に、縁談の話がございまして。その前に、一度だけ、自分の言葉でお伝えしたかったのです」
「……そうか」
蓮が静かに答えた。
「ちゃんと、話せたんだな」
「はい。紗江殿は、最後まで聞いてくださいました」
清之助は微笑もうとした。
「これで、私も……」
声が詰まった。
慌てて口元を引き結ぶ。けれど、目からこぼれた涙は止められなかった。
「……申し訳ございません」
顔を背けると、蓮がそっと肩に手を置いた。
「謝らなくていい」
その一言に、清之助の肩が震えた。
「わかっていたのです。紗江殿が、どなたを想っておられるか……初めから」
途切れる声を、どうにかつないだ。
「それでも、お会いできるのが嬉しくて……」
無刄が、清之助の反対側に立った。
何も言わず、その肩を支える。
清之助は俯き、声を殺して泣いた。
蓮も無刄も、先を促さなかった。
紗江の笑顔に心を寄せ、その眼差しの向かう先を知っている。
清之助の言葉は、二人にも覚えのあるものだった。
しばらくして、清之助は袖で目元を押さえた。
「……お見苦しいところを、お見せしました」
「そんなことはない」
無刄が首を振った。
「俺には、まだ伝えられない」
清之助が顔を上げる。
無刄は、その視線を受け止めた。
「紗江のそばにいられるだけでいいと、そう思ってる。だが……お前みたいに伝えようとしたら、きっと怖くなる」
蓮も、清之助の肩に置いた手をゆっくり下ろした。
「俺も同じだ。今のままでいられなくなるのが、怖いんだろうな」
清之助は二人を見つめた。
「お二人も……」
蓮は小さく笑った。
「まあな」
無刄も、わずかに頷いた。
清之助は、もう一度目元を拭った。
今度は、ひとりで涙を隠そうとはしなかった。
「……紗江殿には、幸せになっていただきたいのです」
「ああ」
蓮が答える。
「そこは、俺たちも同じだ」
清之助は、ゆっくりと息を吐いた。
「ありがとうございます。お二人がいてくださって……助かりました」
「少し、歩くか」
蓮が声をかけた。
清之助が頷くと、無刄も並んで歩き出した。
夕日が、道の先を染めていた。
清之助は風呂敷を畳み直し、二人とともに、ゆっくりと足を進めた。




