第2章 第23話 この時を生きる
葵は、暗闇の中に立っていた。
光はない。
地面も、空もない。
どこまでも続く闇の中に、ただ一人取り残されていた。
「……ここは」
葵の声が、虚しく闇へ吸い込まれていく。
その時――。
どこからともなく、声が聞こえた。
『お前は、時の外れ者』
一つだった声が、次第に数を増していく。
『この時代の者ではない』
『存在してはならぬ』
『お前には、帰るべき時すらない』
『消えろ』
『ここにいてはならぬ』
『消えろ』
無数の声が、四方八方から葵へ襲いかかった。
葵は刀を抜いた。
「……黙れ」
声のする方へ刀を振るう。
だが、刃は空を斬るばかりだった。
『消えろ』
「俺は、消えない!」
再び刀を振るうが、声は止まらない。
むしろ、闇の中から次々と新たな声が生まれていく。
『お前は何者だ』
「…………」
『お前は、どこから来た』
葵は答えられない。
『誰がお前を、この世へ生み落とした』
刀を握る手に、力がこもる。
『お前は、何のために生まれた』
「……分からない」
葵の声が、暗闇に落ちる。
自分が何者なのか。
なぜ光とともに現れ、この時代に生きているのか。
どれほど考えても、答えは見つからなかった。
「分からない……」
幼い頃から、胸の奥に抱き続けてきた問いだった。
自分には、確かな過去がない。
帰るべき故郷も、生まれを知る者もいない。
「俺は……何者なんだ」
声が震える。
「俺は、なぜここにいる」
その瞬間、闇の中に無数の人影が現れた。
顔の見えない者たちが、葵を遠巻きに取り囲んでいる。
『得体の知れぬ者』
『人ではない』
『災いを招く者』
人影は葵へ背を向け、一人、また一人と闇の中へ消えていく。
「待て」
葵が手を伸ばす。
誰も振り返らない。
「誰か……教えてくれ!」
最後の人影が消えた。
葵は、再び一人になった。
暗闇が足元から這い上がり、葵の身体を飲み込もうとする。
『お前は、どの時にも属さない』
『誰とも同じ時を生きることはできない』
『お前に帰る場所などない』
葵はその場に膝をついた。
握っていた刀が、手から滑り落ちる。
刀を拾おうとした。
だが、伸ばした指先が柄に届かない。
すぐそこにあるはずの刀が、ひどく遠かった。
(俺が何者なのか、誰にも分からない)
(俺自身にも分からない)
(ならば――)
(俺は、本当にここにいてよいのか)
闇が胸元まで迫る。
身体から力が抜けていく。
(……もう、終わりか)
葵が目を閉じかけた、その時――。
『葵様』
温かな声が聞こえた。
葵の瞳が開く。
「……紗江?」
闇の向こうに、淡い光が灯った。
その光の中に、紗江が立っている。
『葵様は、葵様です』
「だが、俺は……」
『何者であっても、どこから来たとしても、それは変わりません』
紗江は、まっすぐに葵を見つめていた。
『私が知っている葵様は、いつも誰かを守ろうとなさる方です』
『悲しんでいる人を見過ごせず、傷ついた人に手を差し伸べられる方です』
紗江が微笑む。
『葵様は、私の大切な方です』
腕を傷つけたあの日、紗江は震える手で血を押さえていた。
葵が大丈夫だと言っても、その手を離そうとはしなかった。
葵の瞳が揺れた。
「……紗江」
別の光が灯る。
『葵様』
蒼馬の声だった。
『葵様が何者であろうと、我が忠義は変わりません』
さらに光が広がっていく。
『葵様は、俺たちを信じてくださった』
蓮の声。
『だから俺も、葵様を信じています』
『葵さま!』
隼人の明るい声が響く。
『どこから来たって関係ない。俺たちの主君は葵さまだけだ!』
『葵様……』
お蘭の声が重なる。
『あなた様が差し伸べてくださった手を、私は生涯忘れません』
そして――。
『葵様』
無刄の静かな声が聞こえた。
『あなた様は、行き場を失った俺に、生きる場所を与えてくださった』
『今度は俺が、あなた様のお側におります』
六人の声が、闇の中に響いていく。
葵の頬を、一筋の涙が伝った。
「……皆」
俯いていた葵が、ゆっくりと顔を上げる。
闇はまだ、葵の身体を捕らえていた。
『その者たちがお前を必要としているから、お前は存在するのか』
「…………」
『誰にも必要とされなくなれば、お前には何も残らない』
闇が囁く。
『お前は、自分が何者なのか答えられない』
葵は黙ったまま、その言葉を聞いていた。
確かに、自分の生まれは分からない。
なぜこの時代にいるのかも分からない。
その答えを、仲間たちに与えてもらうことはできない。
葵は静かに手を伸ばし、落とした刀の柄を握った。
「……そうだ」
ゆっくりと立ち上がる。
「俺は、自分が何者なのか知らない」
闇の向こうを、まっすぐに見据える。
「どこから来たのかも、何のために生まれたのかも分からぬ」
葵の身体を覆っていた闇が、わずかに揺らいだ。
「だが――」
刀を構える。
「生まれが、今の俺のすべてを決めるわけではない」
紗江と出会った。
蒼馬たちと共に生きてきた。
救えなかった者もいる。
守ることのできた命もある。
喜びも、悲しみも、迷いも――。
そのすべてを、この時代で確かに重ねてきた。
「俺が何者であるかは、俺がどう生きるかによって示せばよい」
葵の瞳に、強い光が宿った。
「俺は、誰かに必要とされるためだけに生きるのではない」
刀を握る手に力を込める。
「俺自身が、ここで生きると決める」
葵を包んでいた闇が、音を立ててひび割れていく。
『お前には過去がない』
「それでも、今がある」
『帰るべき時もない』
「俺には、帰る場所がある」
葵の脳裏に、大切な者たちの姿が浮かんだ。
「俺を主と信じ、仕えてくれる者たちがいる」
そして――。
紗江の笑顔が浮かぶ。
「共に生きたいと願う者がいる」
葵は闇の向こうを、まっすぐに見据えた。
「たとえ生まれの謎が解けずとも――俺は、俺だ」
その声に、もう迷いはなかった。
葵は刀を大きく振りかぶった。
「だから俺は――この時を生きる!」
刀を振り下ろす。
闇が、轟音とともに斬り裂かれた。
裂け目から紫色の光が吹き上がり、暗闇を一瞬で照らし出した。
その光が、葵の握る刀へ流れ込んでいく。
刀身が眩く輝き、その姿を変えていった。
葵は柄を握り直した。
静かでありながら、揺るぎない力が掌から伝わってくる。
葵は指に力を込めた。
柄は吸いつくように掌へ収まり、刀の重みが腕に馴染んだ。
――時を断つ刀・紫皇刀。
葵は、その刀を構えた。
紫色の光が、刀身を包んでいく。
一閃。
残っていた闇が音もなく断ち切られ、眩い光が世界を満たした。
光が薄れると、葵の傍らには紗江たちがいた。
その時、郷の奥深くから、古い声が響いた。
『神器の力は、汝らの絆によりて目覚める』
七色の光が重なり、七人を包んだ。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫――。
やがて光は静かに消え、それぞれの神器へと宿っていく。
いつしか深い霧は晴れ、森には鳥の声が戻っていた。
七人は顔を見合わせる。
傷つき、迷い、それぞれが己と向き合った。
それでも、誰一人欠けることなくここまで辿り着いた。
――霞ノ郷の入り口。
清之助は、今日も霧の向こうを見つめていた。
一日が過ぎ、また一日が過ぎた。
霞王は、「案ずるな。試練の中では、人によって時の流れが異なる」と告げた。
それでも、清之助の不安は募るばかりだった。
そして、三日目の朝――。
白い霧の向こうに、いくつもの影が浮かんだ。
一人、二人――。
やがて、それが七人の姿となる。
「……!」
清之助は思わず駆け出した。
「紗江殿! 皆様!」
その声に気づき、紗江が笑顔で大きく手を振る。
「清之助様! ただいま戻りました!」
清之助は紗江の前で足を止めた。
何か言おうとして、言葉が出ない。
その笑顔を確かめるように見つめ、ようやく息を吐いた。
「……よかった。本当に、よかった。三日も戻らず、心配いたしました」
「待っていてくれたのか」
葵の問いに、清之助は頷いた。
「はい。皆様のご無事を祈っておりました」
そう答えてから、七人を見回す。
「ですが……皆様、少しお痩せになられましたね……」
紗江が思わず自分の頬に触れた。
「えっ、そんなに?」
その様子に、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。
葵も小さく微笑む。
「心配はいらぬ。俺たちは、だいぶ強くなったようだ」
「……そう、なのですか?」
清之助は改めて七人を見る。
確かに、三日前と同じ顔ぶれだった。
けれど――何かが違う。
誰もが静かに前を見ている。
その眼差しには、ここへ来た時にはなかった強さが宿っていた。
清之助には、その理由までは分からなかった。
葵がそんな清之助の肩を軽く叩く。
「清之助、待たせたな」
「いえ」
清之助は笑った。
「皆様がお戻りになったのなら、それで十分でございます」
やがて一行は、霞ノ郷を振り返った。
白い霧の奥に、郷は静かに佇んでいる。
紗江は胸元の瑠璃天糸鏡に触れた。
ここで得たものは、神器だけではない。
己の弱さに向き合った時、聞こえてきた仲間たちの声。
顔を上げた先にあった、葵の姿。
紗江は鏡から手を離し、皆を見た。
「行こう」
葵の声に、皆が頷いた。
清之助も、その傍らに並ぶ。
七つの神器を携え、一行は霞ノ郷をあとにした。
江戸へ。
そして――新たな戦いへ。




