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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第2章 第22話 会いたかった人、守りたい今

紗江は、暗い教会の中に立っていた。

冷たい雨が窓を打ち、礼拝堂に音を響かせている。

薄闇の中には、古びた木の椅子が並んでいた。

幼い頃、一人で絵を描いていた場所だった。


椅子の背が、見上げるほど高い。

机の上には、一枚の絵があった。

裾に花を並べたワンピース。


「……できたよ」

口をついて出たのは、幼い声だった。

絵を持って振り返る。

けれど、見せる相手はいない。


「誰か……見て」

雨音だけが答えた。

紗江は俯いた。

小さな手が、紙の端を握り締める。

それでも、捨てられなかった。


「……これだけは、なくしたくない」


『ほう。そなたには、それがあったか』

礼拝堂の奥で、声がした。

『ならば、孤独もさほどつらくはなかったのだな』


紗江は絵を胸に抱いた。

「……誰? 何を言っているの」


声が途絶えた。

やがて、闇の奥から再び言葉が響いた。

『ならば、やり方を変えよう』


雨音が止んだ。


『お前の父と母を、生き返らせてやる』


紗江は顔を上げた。

開いた扉の向こうに、二人が立っていた。


「……パパ? ママ?」

女が微笑み、両腕を広げる。

男も、その傍らで紗江を待っていた。

紗江は一歩、踏み出した。

ずっと、こうして迎えてほしかった。


『ただし、今持っているものをすべて差し出せ』


小さかった身体が、元の姿へ戻っていく。

紗江の足が止まった。


『その夢も、才も。葵も、仲間も。すべて差し出せば、両親を返してやろう』

「……何を言っているのですか」

『両親に会いたかったのであろう?』


この人たちが、父と母。

そう思うだけで、胸が痛いほど締めつけられた。


(顔も知らない。思い出もない。それなのに、なぜ、こんなに会いたいと思ってしまうんだろう)

紗江の手が、二人へ伸びかける。


(今の幸せをすべて失う。それは、心を殺してしまうのと同じなのに……)

(なぜ、こんなに……)


涙で、二人の姿が滲んでいた。

あそこへ行けば、抱き締めてもらえる。

一度も呼べなかった、お父さんとお母さんと呼べる。


「おいで、紗江」

母が、両腕を広げた。

紗江は動くことも、伸ばしかけた手を下ろすこともできなかった。


その時、胸に抱いていた絵が、かさりと鳴った。

紗江は俯いた。

皺だらけの紙を抱く指に、ゆっくりと力がこもる。


中村座の太鼓の音が、耳の奥に蘇った。

自分の仕立てた着物をまとい、花道を歩く娘たち。

客席に満ちた拍手。

舞台を終え、顔を輝かせて駆け寄ってきた皆。

団十郎の言葉。

涙を浮かべ、頭を下げてくれた誠一の姿。


紗江は、皺だらけの絵を胸へ引き寄せた。


(……ごめんなさい)

(私はもう、あの時の子どもではない……)

(……もう……戻れない)


その時、母の声が響いた。

『紗江、助けて!』


顔を上げると、二人の背後の光が薄れ始めていた。

母が手を伸ばす。

『紗江、もう捨てたりしないから』


紗江は息を呑んだ。

「……捨てた?」


伸ばされた手を見つめたまま、首を振る。

「……あなた方は、私を捨てたのですか」


返事を待った。

違うと、言ってほしかった。

けれど、母はただ手を伸ばし続けていた。


「父と母は事故で亡くなったから、一緒に暮らせないのだと……」

絵を抱く手が震えた。

「……私を、捨てたのですか」

問いかける声も、震えていた。


『そんなこと、どちらでもよいだろう』

男が苛立たしげに言い放った。

紗江は言葉を失った。


『私たちのことは諦めるのか。今の生活を差し出せば、私たちと暮らせるのだぞ』


紗江は、震える息をゆっくりと吐いた。

伸ばされた手から、二人の顔へ目を上げる。


「私の大切なものを、何もかも捨てろと言うんですね」

絵を胸に抱き直した。

「……差し出しません」


二人の腕が、ゆっくりと下がった。


「……親のいなかった私にもわかります。あなた方は、私の親ではありません」


扉が閉じていく。

紗江は二人の姿が見えなくなるまで、そこに立っていた。

扉が閉じる寸前、二人の顔が揺らぎ、鏡の殿の化身の顔へと変わった。

紗江は息を詰めた。


扉が閉ざされた後も、涙は止まらなかった。

俯いたまま、しばらく動けなかった。


やがて、濡れた絵を掌でそっと伸ばした。

皺の残る紙に、藍色の光が灯る。

光は紗江の手の中で、一枚の鏡へと姿を変えた。


――瑠璃天糸鏡(るりてんしきょう)。


映っているのは、涙に濡れた自分の顔だった。

紗江は頬を拭った。

そして鏡を胸に抱き、閉ざされた扉に背を向けた。


「紗江」

葵の声がした。

続いて、皆が自分を呼ぶ声が聞こえる。


紗江は顔を上げた。

「……今、帰ります」

鏡を抱き直し、声のする方へ歩き出した。

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