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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第2章 第21話 もう一度、仲間を信じて

――気がつくと、隼人は雨の中に立っていた。

冷たい雨が頬を打つ。

足元には、ぬかるんだ土。

遠くには、見覚えのある村の家々が霞んでいる。


「……ここ……」

隼人の顔から、いつもの笑みが消えた。


忘れるはずがない。

幼い頃――

まだ、帰る家さえ持たなかった頃。


――景色が揺らぐ。


「はーやとぉ!」

声のした方へ振り返ると、一人の老婆が手招きをしていた。

その先に、幼い隼人がいた。

大きな瞳に、くしゃっとした笑顔。

幼い頃から愛嬌があり、人懐っこい子どもだった。


「またそんな薄い着物で歩いて。寒くないのかい?」

「平気だよ!」

「平気な顔には見えないよ。ほら」

老婆が包みを差し出す。

幼い隼人が目を輝かせた。


「なにこれ?」

「握り飯だよ。余りものだけどね」

「ほんと!?」

顔がぱっと明るくなる。


「ばあちゃん、ありがとう!」

「まったく……そんな顔されたら、またやりたくなるじゃないか」

老婆が笑った。


「今度、薪割り手伝うよ!」

「はいはい。期待しないで待ってるよ」

「なんだよ、それ!」

二人の笑い声が響く。


――別の日。


「隼人、これ持っていきな」

畑仕事をしていた男が、泥のついた芋を差し出した。


「いいの?」

「ああ。ちっこいのばっかりだけどな」

「やった!」

隼人は両手いっぱいに芋を抱えた。


「おじちゃん、ありがとな!」

「落とすなよ!」

「大丈夫だって!」

隼人は嬉しそうに走り出した。

向かった先には、同じように身寄りのない子どもたちがいた。


「おーい!」

隼人が大きく手を振る。

「見ろよ!」

「また何かもらったのか?」

「芋!」

得意げに芋を掲げた。


「みんなで食おうぜ!」

子どもたちの前に、芋を並べていく。

「これ、お前の」

「こっちは大きいから半分な」

「俺、この小さいのでいいや」


「……また隼人だけかよ」

誰かが、小さく呟いた。


「ん?」

「なんでもねぇよ」

「変な奴」

隼人は笑った。


気づいていなかった。

仲間たちの目に浮かんだ、わずかな影に。


――また、別の日。


村の女が隼人を呼び止めた。

「隼人ちゃん」

「ちゃん付けすんなよ!」

「いいじゃないか。まだ子どもなんだから」

「もう子どもじゃねぇ!」

「はいはい。じゃあ大人の隼人さん、これをどうぞ」

差し出された饅頭を見て、隼人の目が輝く。


「うわっ!」

「一つだけだよ」

「ありがとう!」

受け取った隼人は、すぐに走り出した。

女が呆れたように笑う。


「もう食べていいんだよ!」

「みんなと食う!」

そう叫んで、隼人は走っていった。


その背中を、仲間の少年たちが遠くから見ていた。

「……まただ」

「何が?」

「なんで、あいつばっかりなんだよ」

「仕方ねぇだろ。隼人は顔もいいし、愛想もいいから」

「俺たちだって腹減ってんのに」

「でも、隼人、いつも分けてくれるじゃん」

「そういうことじゃねぇよ」

少年の手が、ぎゅっと握られた。

「……あいつだけ特別みたいで、むかつくんだよ」


隼人は知らなかった。

自分が笑えば、誰かも笑ってくれる。

そう思っていた。

もらったものを分ければ、みんなで喜べる。

そう信じていた。


何より――

一緒にいる彼らを、本当の仲間だと思っていた。


――そして、あの日。


生きるために盗みを働くことは、一度や二度ではなかった。

だがその日、少年たちは、いつもより大きな盗みに手を出した。

そして――見つかった。


雨が降っていた。


「走れ!」

少年たちが山道を駆けていた。

背後から、大人たちの怒号が迫ってくる。

「待て!」

「逃がすな!」

隼人たちは必死に走った。


「こっちだ!」

隼人が先頭に立つ。

幼い頃から足だけは速かった。

「早く!」


だが、このままでは追いつかれる。

道は細く、雨でぬかるんでいる。

少年たちは足を止めた。


「どうする……」

「このままじゃ全員捕まるぞ」

「誰かが残れば……」

その言葉に、沈黙が落ちた。


隼人が振り返る。

「……だったら俺が引きつける」

少年たちが隼人を見る。

「俺、足速いからさ」

いつものように笑った。

「お前ら先に行けよ。あとから追いつくから」


「……追いつかれちゃ困るんだよ」

「え?」


次の瞬間、刃が閃いた。

「――っ!」

隼人の身体が崩れ落ちた。


「……え?」

太腿から、血が流れ出す。

雨が血を薄め、赤い筋となって地面を流れていく。

隼人は、自分の足を見た。

それから、仲間たちを見る。


「なに……してんだよ……」

「これなら逃げられない」

少年が言った。

「追ってきた奴らも、お前を見つければ足を止める」

隼人の目が見開かれる。


「……冗談だろ?」

誰も笑わない。


「なあ」

隼人は笑おうとした。

「笑えねぇって、それ」

誰も答えない。


「お前ら……」

「悪いな、隼人」

一人が言った。

「お前だけ犠牲になってくれ」


「……なんで」

隼人の声が震える。

その時、別の少年が吐き捨てるように言った。


「お前はいいよな」

「……え?」

「村に行けば、みんなお前ばっかり可愛がる」

「食い物だって、いつもお前だけもらえる」

「笑えば誰かが助けてくれる」

「俺たちが腹減らしてたって、誰も見向きもしねぇのに」


隼人は呆然と仲間たちを見つめた。

「……そんなふうに……」

声が掠れる。

「そんなふうに思ってたのかよ……」


雨が強くなる。


「でも……」

隼人は必死に言葉を探した。

「俺、もらったら……いつも持って帰ってきただろ?」

誰も答えない。


「芋だって……握り飯だって……」

「みんなで食ったじゃん……」

少年の一人が目を逸らした。

隼人の声が震える。

「俺、自分だけで食ったことなんか……ねぇだろ……?」


沈黙。

その沈黙が、何よりも痛かった。


「行こうぜ」

誰かが言った。

少年たちが背を向ける。


「待てよ」

誰も止まらない。


「……待って」

隼人が地面に手をつき、立ち上がろうとする。

足に激痛が走った。

「ぐっ……!」

泥の中へ倒れる。

それでも手を伸ばした。


「置いて行かないで……」

少年たちの背中が遠ざかる。


「なあ……!」

隼人の目から涙が溢れた。

「俺も……仲間だろ……?」


誰も振り返らなかった。


「俺……お前らのこと……」

雨が頬を流れる。

「仲間だって……思ってたんだぞ……」


少年たちの姿が、雨の向こうへ消えていった。

隼人だけが、雨の中に残された。

血が地面に滲んでいく。


(……もう、誰も信じない)

隼人は目を閉じた。

(仲間なんか……いらない)

(もう二度と――)


――景色が揺らいだ。


現在の隼人は、雨の中で立ち尽くしていた。

「……そうだった」


ずっと忘れたふりをしていた。

笑っていればいい。

明るくしていればいい。

誰かを笑わせていれば――

嫌われない。

置いていかれない。


「俺……怖かったんだな」

隼人が呟く。


また、自分だけが仲間だと思っているんじゃないか。

また、いつか置いていかれるんじゃないか。


だから、誰よりも明るく振る舞った。

誰かが沈んでいれば笑わせた。

喧嘩になりそうなら、ふざけて間に入った。

自分が傷ついても、笑って誤魔化した。


「……馬鹿だな、俺」


その時、雨の音に混じって声がした。

『隼人、行くぞ』

隼人が顔を上げる。

蒼馬の声。


『何してんだよ。早く来い!』

蓮の声。


『隼人』

無刄の、静かな声。


そして――

『隼人』

葵。

自分の名を呼ぶ、主君の声。


隼人は目を閉じた。

紗江の笑顔。

お蘭の呆れたような顔。

蒼馬の背中。

蓮とくだらないことで笑った時間。

無刄と共に戦った日々。


ふと、言葉も笑みも出てこなかった夜を思い出した。

いつもなら、何か冗談を言った。

けれど、その夜は黙って座っていた。

蓮は何も聞かず、隣に腰を下ろした。

蒼馬が差し出した湯呑みを受け取り、隼人は両手で包んだ。


何も話さなくても、二人はそばにいた。

笑えない自分を、置いていかなかった。


そして、葵のもとへ必ず戻ると決めている自分がいる。


誰も言わなかった。

笑わせろ、と。

役に立て、と。

明るくしていろ、と。


誰も、隼人に、隼人以外の何かになれとは言わなかった。


「……違う」

隼人が顔を上げる。


雨の向こうに、かつての仲間たちが現れた。

『また捨てられるぞ』

『また裏切られる』

『お前だけが仲間だと思ってるんじゃないのか?』

隼人の身体が震える。


怖い。

今でも、怖い。

信じれば、傷つくかもしれない。

また同じことが起こらないなんて、誰にも分からない。


「……それでも」

隼人は一歩、踏み出した。


『また傷つくぞ』

「ああ」

もう一歩。


『また置いていかれるぞ』

「そうかもしれねぇ」

隼人は顔を上げた。

そして、笑った。


それは誰かに好かれるための笑顔ではなかった。

幼い頃。

握り飯をもらって笑った時と同じ。

芋を抱えて仲間のもとへ走った時と同じ。

隼人自身の、笑顔だった。


「でもさ」

風が吹く。

「俺、やっぱり――」

隼人が手を伸ばす。

風がその腕に集まっていく。


「人と笑ってる方が好きなんだよ!」


風が弾けた。

その手に現れたのは――

風の鎖・碧風鎖(へきふうさ)。


かつての仲間たちの幻影が揺らいだ。

『信じるのか?』

隼人は碧風鎖を握る。

「ああ」


『裏切られるかもしれないのに?』

「ああ」

握った手に、力を込めた。

「それでも信じる」

隼人の目に、強い光が宿る。


「今度は――」

蒼馬。

蓮。

無刄。

紗江。

お蘭。

そして、葵。

大切な者たちの顔が浮かぶ。


「俺が選んだ仲間だからな!」


隼人が碧風鎖を振るった。

轟音とともに風が駆け抜ける。

かつての仲間たちの幻影が、次々と砕けていく。


雨が止んだ。

雲の切れ間から、一筋の光が差す。

隼人は、碧風鎖を握ったまま空を見上げた。


怖さが消えたわけではない。

それでも、皆のもとへ帰りたかった。


「……さて。早く戻らねぇとな」

風が頬を撫でる。

隼人は、誰に見せるでもなく笑った。


手の中で、碧風鎖が輝いていた。

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