第2章 第20話 あの日の笑顔
――気がつくと、蓮は見覚えのある場所に立っていた。
古びた小さな小屋。
隙間風の入る板壁。
ところどころ雨漏りする屋根。
決して立派な家ではない。
それでも、蓮にとっては、かつて家と呼べる唯一の場所だった。
「……ここは……」
小屋の中から、笑い声が聞こえる。
蓮の足が止まった。
忘れるはずがない。
幼い頃、身寄りのない子どもたちと暮らしていた場所。
親を亡くした者。
捨てられた者。
帰る場所を失った者。
事情はそれぞれ違っていたが、皆で身を寄せ合い、助け合って生きていた。
その中で年長だった蓮は、いつしか皆の兄のような存在になっていた。
――景色が揺らぐ。
幼い日の光景が浮かび上がった。
「蓮兄ちゃん、お腹すいたぁ」
小さな男の子が、蓮の袖を引っ張っている。
「さっき食っただろ」
「ちょっとしか食べてないもん」
「ったく……しょうがねぇな」
幼い蓮は、自分の握り飯を半分に割った。
「ほら」
「いいの?」
「俺は腹減ってねぇんだよ」
「ほんと?」
「ほんとだって。早く食え」
男の子は嬉しそうに握り飯を受け取った。
その隣から、別の子が顔を出す。
「蓮兄ちゃん、僕も!」
「お前は食っただろ!」
「ずるいー!」
「うるせぇなぁ!」
小屋の中に笑い声が響いた。
蓮は面倒そうな顔をしながらも、笑っていた。
――そして、別の日。
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
蓮が草履を履く。
「どこ行くの?」
「町。なんか食えるもん探してくる」
「いつ帰ってくる?」
「暗くなる前には戻るよ」
蓮は振り返った。
「いいか。俺がいない間、火ぃ使うんじゃねぇぞ」
一瞬だけ、子どもたちの笑顔が止まった。
「……はーい!」
「絶対だからな」
「わかってるって!」
「蓮兄ちゃん、早く行きなよ!」
「なんだよ、今日はやけに追い出すな」
子どもたちは顔を見合わせ、くすくす笑った。
「……なんだ?」
「なんでもなーい!」
「変な奴ら」
蓮は笑いながら、小屋を出ていった。
その背中が見えなくなるまで、子どもたちは戸口から覗いていた。
やがて――
「行った?」
「行った!」
一番小さな子が、胸の前で手を握る。
少し年上の子が、皆の顔を見回した。
「じゃあ、始めるか」
「うん!」
「蓮兄ちゃんを、びっくりさせよう」
「いつもごはんくれるから……」
「今日は、こっちが作る番」
小さな手が、慣れない火打ち石を握る。
何度も打ち合わせるうち、火口に小さな火が移った。
子どもたちは顔を寄せ、そっと息を吹きかけた。
やがて、細い焚き付けに火が灯った。
それは、蓮を喜ばせたいという、幼い子どもたちの優しさから生まれた火だった。
けれど――
誰も、その小さな火がすべてを奪うことになるとは思わなかった。
――景色が、崩れた。
気づけば蓮は、燃え盛る小屋の前に立っていた。
「……やめろ」
蓮の声が、かすれる。
「やめろ……やめろよ……!」
風が吹いた。
火の粉が舞う。
小屋の壁に、赤が走る。
「違う……そんなつもりじゃ……!」
「蓮兄ちゃーん!」
「助けて!」
「熱いよ……!」
「やだ……やだよぉ……!」
「やめろぉぉぉっ!!」
蓮は走った。
炎の中へ。
だが熱が、容赦なく押し返す。
「くそっ……!」
それでも手を伸ばす。
「そこにいるんだろ!!」
「ここだよ!!」
声は、確かにそこにあった。
なのに――届かない。
「待ってろ!!」
何度も踏み込む。
何度も弾かれる。
「俺が……俺が行くから!!」
声が、少しずつ小さくなる。
「蓮兄ちゃん……」
「ごめん……」
「こわいよ……」
「やだよ……」
「やめてくれ……」
蓮の膝が、崩れた。
「……やめてくれよ……」
炎の音だけが、世界を満たす。
「俺のせいだ……」
拳が震える。
「俺が……そばにいれば……」
「俺が……出ていかなきゃ……」
「俺が……」
言葉が、途切れた。
その先を、もう誰も聞いていない。
――ただ、焼け落ちる音だけが残った。
蓮は、灰の中に手を突っ込んだ。
「……なんでだよ」
「なんで……俺だけが残るんだよ……」
指の間から、黒い粉がこぼれる。
「俺は……ただ……」
「守りたかっただけなのに……」
その日から、蓮は誰かを大切にすることを恐れるようになった。
手を伸ばさなければ、失わずに済む。
そう言い聞かせて、人との間に距離を置いてきた。
それでも、あの声を忘れられた夜はなかった。
「……俺は、間違ってない」
「間違ってないはずだ……」
――その時だった。
『蓮兄ちゃん』
声がした。
蓮が顔を上げる。
炎の向こうに、子どもたちが立っていた。
あの日のままの姿で。
「……お前ら……」
誰も泣いていない。
誰も責めていない。
ただ、少し困ったように笑っていた。
一番小さな子が言った。
『蓮兄ちゃん、ありがとう』
蓮の喉が、詰まる。
「……ふざけんなよ」
「ありがとうなんて……言うなよ……」
『だってさ』
別の子が笑う。
『蓮兄ちゃん、いつもくれたじゃん』
「……何を」
『ごはん』
『場所』
『あったかいとこ』
『笑う時間』
『怖くない夜』
一つずつ、指を折るように。
「……俺は」
「守れなかった」
『守ってくれたよ』
即答だった。
あまりにも、迷いがなかった。
『一緒にいてくれた』
『怒ってくれた』
『笑ってくれた』
『それだけで、よかった』
蓮の頬を、涙が伝った。
「……俺はさ」
声が震える。
「ずっと……お前らを殺したと思ってた」
「俺のせいで……全部終わったって」
子どもたちは、少しだけ黙った。
そして――
『でもさ』
一番小さな子が、笑った。
『蓮兄ちゃんといた時間、楽しかったよ』
その一言で、蓮の中の何かが、崩れた。
「……っ……」
蓮は、その場に膝をついた。
「……じゃあ、俺は……」
「これから、どうすればいい……」
『蓮兄ちゃんにも、幸せになってほしい』
蓮は顔を上げた。
『僕たちといた時みたいに、また笑ってよ』
「……俺が、昔みたいに笑ってもいいのか」
『うん』
子どもたちは、まっすぐ蓮を見つめていた。
『僕たち、蓮兄ちゃんが笑うと嬉しかったんだよ』
風が吹いた。
炎が、少しずつ薄れていく。
蓮は、ゆっくりと立ち上がった。
「……でも」
「また、誰かを失うかもしれねぇ」
子どもたちは、しばらく黙っていた。
『……でも、ひとりにならないで』
一番小さな子が言った。
『蓮兄ちゃんが、ずっとひとりなのは嫌だよ』
蓮は唇を噛んだ。
「……怖ぇんだよ」
『うん』
子どもたちは頷いた。
『でも、誰かがお腹すかせてたら、また分けてあげるでしょ?』
蓮は、涙に濡れた顔で笑った。
「……ああ。そうだな」
炎が消えていく。
子どもたちの姿も、少しずつ薄れていく。
最後に、一番小さな子が言った。
『蓮兄ちゃん』
「……なんだ」
『ありがとう』
蓮は、もう何も言わなかった。
ただ、深く頷いた。
「……じゃあな」
子どもたちは笑っていた。
そして――消えた。
蓮はしばらく、その場に立っていた。
やがて、静寂の中を柔らかな風が吹き抜けた。
灰に覆われていた地面から、澄んだ水が湧き上がる。
水は蓮の手元へ集まり、鮮やかな翠色の光へと変わっていった。
やがて光は、一振りの扇を形作る。
蓮は現れた扇を手に取り、静かに見つめた。
――水を操る扇・翠水扇。
「……今度は」
蓮は、翠水扇を握りしめた。
「怖くても、手を伸ばす。もう、背は向けねぇ」
扇を開くと、澄んだ水が焼け跡へ広がった。
灰を洗い流したその下から、小さな若草が顔を出した。




