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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第2章 第19話 雨の記憶と黄雷槍

――蒼馬の試練


蒼馬は、雨の中に立っていた。

激しい雨が地面を叩き、足元の土を黒く濡らしている。

目の前には、見覚えのある家があった。

古びた板戸。

泥に濡れた庭。

軒先から落ちる雨粒。

そして――鼻をつく、血の匂い。


「……ここは」

蒼馬の顔から血の気が引いた。

忘れるはずがない。

ここは、生まれ育った忍びの里。

十歳のあの日、父と母を失った場所だった。


家の前に、父が倒れている。

雨に打たれた背中は、ぴくりとも動かない。

「父上!」

駆け寄ろうとした蒼馬は、足元に目を落とした。

泥にまみれた、小さな足。

握りしめた手も、細い腕も、子どものものだった。


息が詰まる。

蒼馬は、十歳の自分に戻っていた。


「……蒼馬……」

かすかな声が聞こえた。

「……母上?」

裏庭から、母がよろめきながら姿を現した。

着物は血に染まり、片手で柱にすがっている。

雨に濡れた顔は、苦痛に歪んでいた。


「母上……!」

蒼馬が駆け寄ろうとすると、母は小さく首を振った。

「……来ては……だめ……」

今にも消え入りそうな声に、足が止まる。


「母上……」

母が激しく咳き込み、その場に膝をついた。

「母上!」

父は動かない。

母も、身体を支えるのがやっとだった。

今、何が起きているのか。

目の前の光景が、まことのこととは信じられなかった。


――その時。

母の背後、暗い家の中から、刃を手にした男が現れた。

蒼馬の目が大きく見開かれる。

母も、その気配に気づいた。

背後を振り返り、もう一度、蒼馬を見る。

苦痛に歪んだ顔。

震える唇。

それでも、その瞳だけはまっすぐに我が子を見つめていた。


母は、残された力を振り絞って叫んだ。

「――逃げて!」


男の刃が動いた。

母の身体が、崩れ落ちる。


「……母上?」

蒼馬は立ち尽くした。

駆け寄ることも、逃げることもできなかった。

声さえ出せず、ただ雨の中で、小さな身体を震わせていた。


やがて、異変に気づいた里の忍びたちが駆けつけた。

怒号が飛び交い、刃のぶつかる音が響く。

敵の忍びは退けられた。

けれど、倒れた父も母も、二度と蒼馬の名を呼ばなかった。


「――逃げて!」

あの声が、耳の奥で繰り返される。

何年経っても消えなかった。

どれほど鍛え、戦いを重ねても、蒼馬の心は、この雨の中に取り残されたままだった。


「母上ぇぇっ!」

叫んだ瞬間、蒼馬は今の姿に戻っていた。

雨に濡れた地面へ、膝をつく。


「俺は……何もできなかった」

泥の上に置いた拳が震える。

「父上も、母上も……守れなかった」

雨が容赦なく蒼馬を打った。


(俺は……弱い)

(あの時から、何も変わっていないのか……)

拳を、さらに強く握りしめる。


その時、脳裏にいくつもの光景が浮かんだ。

葵の前に立ち、刃を受けた日。

紗江を守るため、敵の前へ躍り出た日。

蓮や隼人と背中を預け合い、戦った日。


守れた命がある。

共に生きてきた仲間がいる。


「……違う」

蒼馬は顔を上げた。

「俺は、もうあの日の俺ではない」


それでも、胸の痛みは消えなかった。

今、誰かを守れるようになったからといって、あの日、何もできなかった自分を許せるわけではなかった。


「……母上」

小さな声がした。

蒼馬が振り返ると、雨の中に一人の少年が立っていた。

泥だらけの足。

雨に濡れた髪。

震える小さな身体。

あの日の、蒼馬だった。


少年は俯いたまま、呟いた。

「俺が……弱かったから」

蒼馬は黙って見つめた。

「俺がもっと強かったら……父上も、母上も……」

小さな拳が震えている。

「俺が……助けられたかもしれない」


それは、ずっと胸の奥に閉じ込めてきた言葉だった。

誰にも言えなかった。

誰にも聞かせなかった。

十歳のあの日から、自分自身に向け続けてきた言葉。


蒼馬は少年の前まで歩いていった。

静かに膝をつき、目線を合わせる。

「違う」

少年が顔を上げた。

「お前は弱かったんじゃない」

蒼馬の声が、雨音の中に響いた。

「まだ幼かったんだ」


少年の瞳が揺れる。

「怖かっただろう」

蒼馬は、その顔を見つめた。

「父上が倒れていて、母上が血を流して……何が起きているのかも分からなかった」

「…………」

「動けなくて当然だ」


少年の目から、涙がこぼれた。

「でも……俺は、何もできなかった」

蒼馬は、すぐには答えなかった。

目の前の少年も、父と母のもとへ駆け寄りたかったのだ。

助けたかったのだ。

それができなかった自分を、ずっと責めていた。


蒼馬は、小さな肩に手を置いた。

「お前は、生きた」

「……え?」

「母上は、お前に生きてほしかったんだ」


少年の瞳が、大きく見開かれる。

「――逃げて!」

雨の向こうから、あの日の声が聞こえた気がした。

蒼馬を見つめていた、母の瞳。

残された力で叫んだ、最後の言葉。


「お前が生きたから、俺がいる」

蒼馬は、少年をまっすぐに見つめた。

「だから……もう、俺はお前を責めない」


少年の唇が震えた。

「……本当に?」

「ああ」

蒼馬は頷いた。

肩に置いた手に、そっと力を込める。

「よく生きたな」


少年の顔が、くしゃりと歪んだ。

あの日の蒼馬は、声を上げて泣いた。

蒼馬は何も言わず、その小さな身体を抱きしめた。

細い指が、蒼馬の着物を握りしめる。

その手を離させることなく、泣き声が静まるまで抱いていた。


やがて、腕の中の少年が淡い光へと変わっていく。

光は蒼馬の胸へ吸い込まれるように消えた。

蒼馬は、その胸に手を当てた。


――天空に、雷光が走った。

轟音とともに、一条の雷が大地を貫く。

眩い光の中で、黄金の雷が一つの形を成していった。

一本の槍。


蒼馬は立ち上がり、その柄へ手を伸ばした。

掴んだ瞬間、雷が激しく弾ける。


――雷鳴の槍・黄雷槍(こうらいそう)。


柄を通して伝わる震えを、蒼馬は受け止めた。

やがて雷は静まり、黄金の光となって穂先を包んだ。


蒼馬は空を見上げた。

雨は、いつしか止んでいた。


「……行こう」

胸に残る温もりへ、そう呟く。

黄雷槍が、低く雷鳴を響かせた。


次の瞬間、眩い光が蒼馬を包み――

試練の世界が、崩れ始めた。

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