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元禄美装録  作者: 月島 桃


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第2章 第18話 雪夜の救いと橙月華

※本話には、過去の暴力被害と、生きることを諦めようとする心理描写が含まれます。

お蘭は、荒れ果てた小屋の中に立っていた。

外では、激しい吹雪が荒れ狂っている。

隙間だらけの板壁から雪が舞い込み、凍えるような風が身体を打ちつけていた。


「……ここは……」

お蘭の顔から血の気が引く。

忘れられるはずがない。

かつて、すべてを諦めようとした場所だった。


その瞬間――

封じ込めていた記憶が、断片となって蘇った。


薄暗い部屋。

荒い息遣い。

震える手で着物を押さえながら、必死に逃れようとする自分。

そして――

ゆっくりと近づいてくる、里の頭の顔。


「いや……」

お蘭は目を塞ぎ、小刻みに震え始めた。

「来ないで……」


逃れようともがいたことだけは覚えている。

助けを求めて声を上げたことも。

けれど――

その先の記憶は、深い霧に閉ざされていた。

無理に思い出そうとすると、胸が締めつけられ、息ができなくなる。


「やめて……」

お蘭はその場に膝をついた。

「もう……見せないで……」


景色が揺らぐ。


気がつけば、幼いお蘭は里を逃げ出していた。

行くあてもなく、吹雪の中を歩き続けた。

足の感覚は、とうに失われている。

食べるものもない。

着物は破れ、その隙間から凍える風と雪が容赦なく入り込んだ。


それでも、お蘭は歩き続けた。

あの里から、少しでも遠くへ。

誰にも見つからない場所へ。


やがて、朽ちかけた小屋へ辿り着いた。

中へ入ると、お蘭は崩れるように床へ座り込んだ。


「もう……」

膝を抱え、小さく呟く。

「もう……終わりでいい」


身体が冷たい。

痛い。

それ以上に――自分の身体が、自分のものではなくなってしまったように感じられた。


(……誰も、助けに来ない)

(私は、もう……以前の私ではない)


胸の奥から、暗い声が聞こえてくる。

『お前は穢れた』

「…………」

『誰も、お前を必要とはしない』

お蘭は耳を塞いだ。

それでも声は消えない。


『生きていても、苦しみが続くだけだ』

(……そうかもしれない)

『だったら――』


お蘭は、ゆっくりと目を閉じた。

(ここで、終わりにしよう)


意識が遠のいていく。

身体から、少しずつ力が抜けていった。


その時――

小屋の扉が、勢いよく開いた。

冷たい風とともに、白い雪が舞い込んでくる。


「まだ終わりではない」

凜とした声が響いた。

お蘭が、ゆっくりと顔を上げる。

開かれた扉の前に、葵が立っていた。

雪の中、黒い着物が風になびいている。


「……誰……?」

葵は小屋の中へ足を踏み入れた。

凍えて動けなくなったお蘭の前まで来ると、その姿をまっすぐに見つめた。


「生きることを諦めるな」

お蘭の目から、涙がこぼれた。

「でも……私は……」

震える手で、破れた着物を押さえる。

「私は……穢れた身体です」


葵の眉が、わずかに動いた。

「穢れなど、誰が決めた」

お蘭が顔を上げる。

「お前を傷つけた者か」

葵の声には、静かな怒りが宿っていた。

「お前を傷つけた者の言葉で、お前自身の価値を決めるな」


「ですが……」

「お前は何一つ悪くない」


その言葉が、お蘭の胸に届いた。

ずっと、自分が悪いのだと思っていた。

逃げ切れなかった自分が。

抗い切れなかった自分が。

生き残ってしまった自分が。


けれど葵は、迷うことなく言い切った。

「悪いのは、お前を傷つけた者だ」


お蘭の目から、次々と涙が溢れた。

葵は羽織を脱ぐと、お蘭の身体を覆った。

温かい。

それは、凍え切ったお蘭が久しく忘れていた温もりだった。


「もう大丈夫だ」

葵が、静かに手を差し伸べる。

「これ以上、お前を傷つけさせはしない」


お蘭は、その手を見つめた。

手を伸ばすことが怖かった。

信じた先で、また傷つけられるかもしれない。


けれど――

葵の目には、哀れみも蔑みもなかった。

ただ、お蘭を一人の人間として見つめていた。


「俺は、葵だ」

葵は差し伸べた手を、そのまま待っていた。

「俺のもとへ来ないか」


お蘭は震える指を、ゆっくりと伸ばした。

一度は止まりかけた手を、もう一度前へ伸ばす。

そして――葵の手を握った。

その手は力強く、温かかった。


「……葵様」

涙は、まだ止まらなかった。

けれど、その涙は先ほどまでとは違っていた。

絶望の中で初めて見つけた、一筋の光だった。


景色が、静かに止まる。


葵に手を引かれて立ち上がった幼いお蘭を、現在のお蘭が見つめていた。


「あの日……」

お蘭は、二人へ向かって一歩踏み出す。

「私は、葵様に救っていただいた」


葵が差し伸べてくれた手。

その温もりを、お蘭は今も覚えている。

「あの方がいらしたから、私は生きることができた」


その時、再び暗い声が響いた。

『葵は、お前を哀れんだだけだ』

お蘭の足が止まる。

『穢れたお前に、生きる価値などない』


暗闇の中から、無数の手が伸びてくる。

お蘭の腕を、足を、身体を捕らえ、再び過去へ引き戻そうとする。


『お前は、あの日から何も変わっていない』

「……違う」

お蘭が顔を上げた。

『葵がいなければ、お前には何もない』


「違います」

今度は、はっきりと言い切った。

お蘭は、自分を捕らえる手を振り払った。


「確かに、私は葵様に救っていただきました」

葵から受けた恩を忘れた日は、一日もない。

だからこそ、葵に仕え、その命を守ると決めた。

それは今も変わらない。


「ですが――」

お蘭は、幼い自分を見つめた。

葵の羽織に包まれ、その手を握った幼い自分が、まだ怯えた顔で立っている。


「あの手を取ると決めたのは、私自身です」


お蘭は幼い自分の前へ歩み寄った。

そして、静かに膝をつく。


「あなたは、穢れてなどいません」

幼いお蘭の瞳から、涙がこぼれた。

「悪いのは、あなたを傷つけた者です」


それは、あの日、葵が自分へ与えてくれた言葉だった。

今度はお蘭自身が、その言葉を幼い自分へ伝える。


「あなたは悪くありません」

震えている小さな手を、両手で包み込む。

「逃げてもよかったのです」

「生きることを諦めかけても、それでもあなたは生き残りました」

お蘭の声も、涙で震えていた。

「よく……生きていてくれました」


幼いお蘭が、声を上げて泣いた。

現在のお蘭は、その小さな身体を優しく抱き締める。

「もう、誰にも私たちの価値を決めさせません」


幼いお蘭の姿が、温かな橙色の光へと変わっていく。

その光は、お蘭の胸へ吸い込まれるように消えた。


お蘭はゆっくりと立ち上がった。

「私は、葵様に救っていただきました」

まっすぐに前を見つめる。

「けれど、今を生きると決めたのは私です」

もう、その声は震えていなかった。


「私は、自分の意志で葵様にお仕えしています」

葵から受けた恩だけではない。

その生き方を信じ、この人を守りたいと、お蘭自身が選んだのだ。


「私は、もう過去から逃げません」

記憶の中に立つ葵を見つめる。

「葵様が救ってくださった、この命を大切に生きます」

そして、胸に手を当てた。

「私は――私の意志で、葵様をお守りいたします!」


その瞬間、橙色の光が吹き上がった。

光はお蘭の髪へ集まり、一輪の花をかたどった美しい簪へと姿を変えていく。


お蘭が、そっと簪に触れた。

柔らかな光が身体を包み、凍えていた心の奥へ温かく溶け込んでいく。

初めて手にしたはずなのに、不思議なほどお蘭に馴染んでいた。


――月影の簪・橙月華(とうげっか)。


お蘭が顔を上げる。

吹き荒れていた雪は止み、雲の切れ間から淡い月の光が差し込んでいた。

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