第2章 第17話 鏡の殿と紅蓮の誓い
――霞ノ郷へ。
霧に包まれた山あいの道をいくつも越えた。
夜明け前。
一行はついに霞ノ郷の入り口へ辿り着いた。
そこに待っていたのは、白髪の郷主・霞王だった。
深い皺を刻んだ顔には、この郷が歩んできた歳月がそのまま刻まれている。
杖を突きながら、ゆっくりと一行へ歩み寄ると、静かに口を開いた。
「……待っておったぞ」
「この郷に人が来るのは久しぶりじゃ。幻に抗うには、己の心を制せねばならぬ」
「――覚悟はよいか」
葵は静かに頷いた。
霞王の鋭い視線が、一人一人をゆっくりと見渡していく。
そして――清之助で止まった。
「……お主」
清之助が緊張した面持ちで頭を下げる。
「お主からは、覚悟が見えぬ」
霞王の声が冷たく響く。
「鏡の殿は、己と向き合う覚悟なき者を許さぬ。こちらで待たれよ」
清之助は一瞬、唇を噛んだ。
だが、すぐに深く頭を下げた。
「……はい。私は商人でございますので、控えさせていただきます」
そして、仲間たちに笑顔を向けた。
「では、皆様。こちらでお待ちしておりますね」
……だが、その言葉に応える声はなかった。
七人の背中が、霧の中へ消えていく。
清之助だけが、その場に立ち尽くしていた。
――神域の記憶試練・鏡の殿
霞王に導かれ、七人は深い樹々の間を進んだ。
霧の奥から、ただならぬ妖気が漂ってくる。
誰も言葉を発しなかった。
やがて樹々が途切れると、目の前に白い帳が揺れていた。
霧とも光ともつかぬその向こうに、鏡の殿が姿を現す。
壁も天井も、床に至るまで鏡で覆われていた。
映し出された七人の姿が幾重にも連なり、殿の奥へ果てしなく続いている。
霞王が足を止め、七人を振り返った。
「ここに入る者は、己の心と向き合う覚悟が要る」
その声が、低く沈んだ。
「殿の中では、心の奥底に潜む闇が、形となって現れる」
霞王は、一人一人の顔を見据えた。
「それに呑まれれば、心は砕ける。二度と戻れぬ者もおる」
七人は、息を詰めて聞いていた。
「ここでは、嘘も偽りも通じぬ。己にさえ隠してきたものを、鏡は映し出す」
葵が一歩、前へ出た。
「それでも行く。もう、幻に惑わされるわけにはいかぬ」
霞王はしばらく葵を見つめ、静かに頷いた。
「ならば……行け」
殿の入り口を覆う光の帳が、音もなく左右へ開いた。
葵に続き、六人も足を踏み入れる。
湖面のような鏡の床に、それぞれの姿が揺れた。
――霞ノ郷の入り口。
清之助は、七人が消えた霧の向こうを見つめていた。
(……俺は、ここまでか)
握り締めた拳に、力がこもる。
(紗江殿を守りたい。それなのに、俺には何もできない)
その時、背後から声がした。
「……心配か」
振り向くと、七人を送り出した霞王が戻ってきていた。
「……はい」
霞王は道の傍らの石に腰を下ろし、清之助にも座るよう促した。
「鏡の殿は、古くから忍びの試練の場とされてきた」
清之助は隣に腰を下ろし、黙って耳を傾けた。
「遥か昔、神々がこの地を選び、忍びの魂を試す場としたという。それ以来、この郷を覆う霧が晴れることはない」
霞王は、樹々の向こうへ目を向けた。
「あの試練を乗り越えた者は、少ない」
清之助の顔が強張った。
「己の心に呑まれ、戻らなかった者もおる」
「では……紗江殿たちは……」
霞王は、清之助へ視線を戻した。
「あの者たちは、強い絆で結ばれておる。たとえ互いの姿が見えずとも、共に過ごした日々まで失われるわけではない」
「……絆」
「苦しみの中で踏みとどまる時、支えとなるのは、そうしたものじゃ」
霞王の目元が、わずかに和らいだ。
「お主も、その絆の一部であろう」
「……私も、でございますか」
「あの者たちの心の中には、小さくとも、お主の姿がある。それもまた、支えとなろう」
清之助の胸に、じんわりと温かいものが広がった。
「小さく……でございますか」
霞王は、かすかに笑った。
「大きさを気にするでない。信じて、待つことじゃ」
「……はい」
清之助は拳をほどき、膝の上に置いた。
もう一度、霧の向こうを見つめる。
(どうか、ご無事で)
今はただ、皆が戻るのを待とう。
――鏡の殿。
足を踏み入れた、その直後だった。
床に映っていた七人の影が、波紋に揺れた。
紗江が顔を上げる。
すぐ前にいたはずの葵の姿が、ない。
「葵様……?」
返事はなかった。
蒼馬も、蓮も、隼人も、無刄も、お蘭も――誰もいない。
同じ瞬間、他の六人もまた、仲間の姿を見失っていた。
声を上げても、届くのは自分の耳だけ。
それぞれの前で、鏡が静かに波打った。
その奥から、忘れられない景色が浮かび上がる。
七人の試練が、始まった。
――無刄の試練。
無刄は、炎の前に立っていた。
夜の闇を焦がし、見覚えのある家が燃えている。
「……これは……」
顔から血の気が引いた。
幼い頃、妹と二人で暮らしていた家。
――すべてを失った、あの夜だった。
当時の無刄は、幼いながらも、その腕は里の大人たちに引けを取らなかった。
命じられるまま刃を振るい、追手を退け、時には人の命を奪った。
それが忍びとして生きることなのだと、疑いもしなかった。
燃え上がる家の前に、男たちの影が浮かんだ。
『無刄に伝えろ』
一人が、炎を眺めながら吐き捨てる。
『これは、あの小僧への報いだとな』
『奴も中にいるのか?』
『いなければ、戻った時に思い知るだろう』
男たちの笑い声が、炎の音に交じった。
「……俺への、仕返しか」
その時――
「兄さま!」
炎の中から、幼い声が聞こえた。
「兄さま! 助けて!」
「咲子!」
無刄は、炎の中へ飛び込んだ。
熱が肌を焼く。
煙を吸い込むたび、喉と胸が激しく痛んだ。
「咲子! どこだ!」
崩れた柱を乗り越え、落ちてくる火の粉を払いながら、声のする方へ走る。
「兄さま! 熱い……!」
「今行く! 声を出し続けろ!」
煙の向こうに、小さな人影が見えた。
倒れた梁の奥で、咲子が身を縮めている。
無刄は、行く手を塞ぐ梁へ手をかけた。
「くっ……!」
焼けた木が手のひらを焦がす。
構わず力を込めた。
だが、動かない。
ふと目に入った自分の腕は、細く、小さかった。
いつの間にか、あの夜の幼い身体に戻っていた。
「兄さま……」
「待っていろ。必ず助ける」
歯を食いしばり、もう一度、梁を持ち上げようとする。
「必ず……俺が……!」
家全体が、大きく揺れた。
頭上で木が砕け、新たな梁が崩れ落ちる。
「咲子!」
二人の間に、炎が立ち上がった。
無刄は、その向こうへ手を伸ばした。
咲子も、小さな手を懸命に伸ばしている。
あと少し。
ほんの少しで、届く。
その瞬間、炎の奥で何かが爆ぜた。
激しい熱風に弾き飛ばされ、無刄は床へ叩きつけられた。
「兄さま! 助けて!」
「待て! 今行く!」
痛みをこらえて立ち上がり、再び駆け寄る。
けれど、咲子との距離は縮まらなかった。
走っても、走っても、炎の向こうへ遠ざかっていく。
「兄さま! どうして!」
咲子の声が響いた。
「どうして助けてくれないの!」
「違う! 俺は……!」
手を伸ばす。
その指先を、炎が遮った。
「兄さま……痛いよ……苦しいよ……」
「やめろ!」
無刄は叫んだ。
「咲子に触れるな!」
何度も、同じ光景が繰り返された。
妹が助けを求める。
無刄が駆け寄る。
あと少しのところで、炎が二人を引き離す。
やがて、咲子の小さな身体が崩れ落ちた。
「やめろ……」
無刄は膝をついた。
「やめてくれ……!」
頭を抱え、声を振り絞る。
「あの火は……俺への仕返しだった!」
強ければ生きられる。
強ければ、大切な者を守れる。
そう信じて、刃を振るってきた。
その恨みが、咲子へ向けられた。
「俺のせいだ……!」
自分があの仕事をしていなければ。
誰かの恨みを買わなければ。
咲子は、あの家で帰りを待っていられた。
「死ぬべきだったのは……俺だった」
その言葉に応えるように、炎が無刄を包み始めた。
肌が焼け、息が詰まる。
それでも、もう立ち上がろうとはしなかった。
(……これでいい)
(咲子が味わった苦しみを、俺も味わえばいい)
(少しは、償えるのかもしれない)
妹の声が遠ざかる。
炎も、熱も、次第に消えていった。
あとには、音も光もなかった。
「……咲子」
暗闇の中で、頬を涙が伝った。
「すまなかった……」
震える手を見つめる。
それは、幾度となく刃を握ってきた、今の自分の手だった。
「この手が、あの火を招いた」
拳を握り締める。
「俺には……誰かを守る資格などない」
その時――
『兄さま』
幼い声が聞こえた。
無刄は顔を上げた。
暗闇に淡い光が浮かび、その中に咲子が立っていた。
あの日のままの姿で、こちらを見つめている。
「……咲子」
『兄さま……泣かないで』
「なぜだ」
無刄は首を振った。
「なぜ、お前が俺を慰める」
声が震えた。
「あの者たちが火を放ったのは、俺への仕返しだった。俺が恨みを買わなければ、お前は死なずに済んだ」
咲子は、黙って聞いていた。
「俺が、お前を殺したようなものだ!」
叫びが、暗闇に響いた。
「俺を恨んでいるだろう」
咲子は静かに首を振った。
『恨んでいないよ』
「嘘だ!」
『嘘じゃない』
咲子は、まっすぐに無刄を見つめた。
『兄さまがお仕事へ行くたび、私は心配だった』
「……咲子」
『怪我をして帰ってきた日もあったね』
戸口で待つ妹の姿が、脳裏に蘇った。
傷だらけの無刄を見ると、咲子は小さな手で布を巻いてくれた。
巻き終えると、安心させるように笑った。
『でも、兄さまが帰ってくると嬉しかった』
目の前の咲子も、あの頃と同じように微笑んだ。
『一緒に食べたご飯も、眠る前に話してくれたお話も、全部覚えているよ』
無刄は、何も言えなかった。
『私は、兄さまの妹でいられて幸せだった』
涙が溢れた。
「だが……俺はお前を守れなかった」
『うん』
咲子は、その事実を否定しなかった。
無刄は俯いた。
『でも、兄さまが私と一緒に死ぬことは、望んでいないよ』
息を呑み、妹を見る。
『ずっと苦しんでいてほしいとも、思っていない』
咲子が、一歩近づいた。
『兄さまは、今も誰かを守ろうとしているのでしょう?』
淡い光の中に、仲間たちの姿が浮かんだ。
紗江を守るため、冥の前に立った日。
蒼馬、蓮、隼人と背中を預け合い、敵へ立ち向かった日。
かつて夜鴉だった自分を、葵たちは受け入れてくれた。
その者たちのために、もう一度刃を握ると決めた。
『兄さまの手は、人を傷つけるだけの手ではないよ』
無刄は、拳をほどいた。
咲子を守れなかった。
自分が奪った命も、戻らない。
それでも、この手で守りたい者たちがいる。
「……そうだな」
ゆっくりと立ち上がった。
「俺がしてきたことも、お前を守れなかったことも、消えない」
咲子を、まっすぐに見つめる。
「だが――俺がここで死ぬことは、償いではない」
刀の柄に手をかけた。
「お前を忘れず、己の罪からも逃げずに生きる。この手で守れる命を、守っていく」
その声は、もう揺らがなかった。
「それが、俺の選ぶ道だ」
咲子が微笑んだ。
『うん』
『私の分まで生きて、兄さま』
「……ああ」
『兄さまには、笑っていてほしい』
妹の姿が、淡い光に包まれていく。
『大好きだよ、兄さま』
無刄は、消えていく咲子へ手を伸ばした。
「俺もだ」
涙をこぼしながら、妹を見つめる。
「お前は、いつまでも俺の大切な妹だ」
咲子は嬉しそうに笑った。
小さな姿が光へとほどけ、無刄の胸に溶け込んでいった。
再び、暗闇に炎が燃え上がる。
無刄は刀を抜いた。
炎の向こうに、あの家が見えた。
もう、目を逸らさなかった。
咲子と暮らした日々も、失った夜も、背負っていく。
一歩、前へ踏み出した。
「俺は、生きる」
刀を構え、炎を見据える。
「この手で、仲間を守る!」
渾身の力で、斬り下ろした。
轟音とともに炎が割れ、その奥から眩い赤い光が吹き上がる。
握っていた刀が光に包まれ、二筋に分かれた。
無刄の両手に、二振りの刃が形を成していく。
柄を握ると、刃に沿って紅い炎が走った。
熱は、無刄の手を焼かなかった。
――炎を鎮める双刃・紅蓮刃。
無刄は、双刃を振るった。
赤い光が暗闇を駆け抜ける。
燃え盛っていた炎が静かに鎮まり、最後の火の粉が、闇の中へ消えていった。




