第2章 第16話 旅立ちと清之助
――越後屋
店の奥では、番頭たちが忙しく帳面をめくる音が響いていた。
その中で、清之助だけが、ぼんやりと帳面を眺めていた。
(……紗江殿)
あの時、思わず抱きしめてしまった。
取り乱した自分が恥ずかしい。
(しばらくは、顔を合わせられぬな)
そう思いながら、浮かぶのは紗江の姿ばかりだった。
声が聞きたい。
もう一度、顔が見たい。
清之助は帳面を閉じ、立ち上がった。
「加賀屋に行ってくる」
番頭が驚いた顔をした。
「若旦那様、今日は大事な商談がございますが……」
「……それまでには戻る」
羽織に袖を通すと、清之助は足早に店を出た。
――加賀屋。
「いらっしゃいませ。まあ、清之助様」
女将が笑顔で迎えた。
清之助は店内へ目を向けてから、ためらいがちに口を開いた。
「あの……紗江殿は、最近こちらへおいでになりましたか」
「ええ、二日前に。近々、旅に出られるそうで、そのご挨拶にいらっしゃいましたよ」
「旅に……?」
思いがけず、声が大きくなった。
女将は頷いた。
「しばらく江戸を離れると伺っております」
清之助は、羽織の袖口を握った。
「……ご出立は、いつでしょうか」
「明後日の早朝だそうですよ」
「明後日……」
まだ二日ある。
けれど、何を言いに会いに行けばよいのか、分からなかった。
「お急ぎのご用でしたか」
「いえ……。教えていただき、ありがとうございます」
清之助は頭を下げ、店を出た。
外の風が、頬を冷やした。
(どこへ行かれるのだろう)
聞けばよかった。
だが、行き先を知ったところで、引き止めることなどできはしない。
清之助は、澄月庵へ続く道に目を向けた。
(せめて、お見送りだけでも)
会えば、また気持ちを抑えられなくなるかもしれない。
それならば、遠くから姿を見るだけでいい。
そう自分に言い聞かせ、店へ戻った。
――旅立ちの朝
夜明け前の澄月庵では、葵、蒼馬、蓮、隼人、無刄、お蘭、そして紗江が、旅支度を整えていた。
葵が一同を見渡した。
「では、行くとしよう」
一行は庵を後にした。
まだ人通りの少ない道を、朝靄が薄く覆っている。
その中を進みながら、蒼馬が路地の奥へ目を向けた。
物陰に、人影があった。
(……越後屋の若旦那か)
清之助は一行が通り過ぎるまで身を潜めていたが、やがて物陰から出て、後を追い始めた。
蓮も、その姿に気づいていた。
隼人が声を落とす。
「なあ、あの人、ずっとついてくるぞ」
「ああ」
「いいのか?」
「紗江様の商いのお相手だ。手荒な真似はするなよ」
蓮は、振り返らずに続けた。
「今のところ、何かする様子はない。しばらく様子を見よう」
「……分かった」
隼人は頷き、歩調を戻した。
清之助は、少し離れたところを歩いていた。
見送りに来ただけだった。
庵を出る姿を見たら、帰るつもりでいた。
けれど、紗江が遠ざかると、足が勝手に動いてしまった。
(次の辻まで……)
その辻を過ぎても、立ち止まれなかった。
紗江は時折、隣を歩くお蘭に顔を向けている。
何を話しているのかは、ここからでは聞こえない。
その後ろ姿を、清之助は追った。
どこへ向かうのかも、どれほど長い旅になるのかも分からない。
それでも、今はまだ見失いたくなかった。
朝靄の向こうで、一行が角を曲がった。
清之助は足を速めた。
一つは未来へ歩む者たち。
一つは、その背を見失うまいと追う者。
それぞれの想いを胸に、江戸の朝は静かに明けていった。
――旅路、夕刻。
一行は山道を進んでいた。
紗江の足取りには、少しずつ疲れが見え始めていた。
「紗江、大丈夫?」
隼人が心配そうに声をかけた。
「ありがとう。大丈夫です」
紗江は顔を上げ、微笑んだ。
その後ろ、木々の陰には清之助がいた。
(……大丈夫だろうか。あの笑顔の奥で、無理をしてはいないか)
紗江が足元を確かめながら歩く姿を、気がかりそうに見つめていた。
――その夜、宿屋。
「ふぅ……」
部屋に入った紗江は、ようやく息をついた。
荷を下ろそうとして、置かれている小さな包みに気づく。
「……これは?」
包みを開くと、美しい和菓子が入っていた。
「わぁ……綺麗」
隼人が傍らから覗き込んだ。
「誰が置いたの?」
「さあ……?」
紗江も、不思議そうに首を傾げた。
隼人はそっとお蘭に近づき、耳打ちした。
「ねえ、あの人、毒とか入れてないよね?」
お蘭が呆れたように眉を上げた。
「馬鹿なことを言うな」
その後、湯から上がった紗江は、浴衣姿で廊下を歩いていた。
まだ湿り気の残る髪が肩にかかり、頬はほんのりと染まっている。
その姿を、清之助が物陰から見かけた。
(……美しい)
胸が高鳴り、思わず顔を覆った。
(いかん、いかん……)
それでも、紗江が通り過ぎた方へ、つい目が向いてしまった。
紗江とお蘭が部屋へ戻ると、若い宿の娘が布団を敷いていた。
年の頃は十六ほど。
小柄な娘が身につけている着物は、胸元のあたりが擦れ、布が薄くなっていた。
それでも、ほころびは丁寧に繕われている。
「……その着物、とても大事にしているのね」
紗江がそっと声をかけると、娘は恥ずかしそうに笑った。
「母の形見なんです。なかなか捨てられなくて」
旅の荷から寝間着を取り出していた紗江は、思わず手を止めた。
娘の指が、薄くなった胸元をそっと撫でた。
(……それなら)
幸い、旅の荷には木綿があった。
その夜、紗江は針を取り、胸当て付きのエプロンを仕立て始めた。
形見の着物を、日々の仕事の擦れや汚れから守れるように。
裾にはふんわりとした大きなフリルを、肩には小さな飾りフリルを添えた。
江戸にはない、不思議で可憐な装いだった。
紗江はお蘭に頼み、宿の娘をもう一度呼んでもらった。
夜更け、縫い上がったエプロンを、紗江は娘に手渡した。
「これを着てみて。胸元が擦れないようにと思って」
娘は目を丸くしながら、恐る恐る身につけた。
胸当てが着物の薄くなったところを覆い、裾のフリルがふわりと広がる。
「かわいい!……あの、頂いてよろしいのですか」
娘は紗江の顔をそっと覗き込んだ。
「あなたのために仕立てたのだから、使ってちょうだい」
紗江が微笑むと、娘は胸当てに手を添えた。
「ありがとうございます。これで、形見の着物を守れます」
そう言って、嬉しそうに身体を右へ左へと揺らした。
動くたびにフリルが揺れる。
その姿を見て、紗江の頬も思わず緩んだ。
紗江はまだ知らない。
この一枚のエプロンが、やがて思いもよらぬ評判を呼ぶことになるとは――。
――翌朝。
部屋を出て玄関へ向かうと、新しい草履が人数分、きちんと並べられていた。
「これは……?」
紗江が足を止めた。
どれも真新しく、鼻緒も丈夫そうだった。
なかでも紗江の分は、ひと目で分かるほど丁寧な作りで、鼻緒には柔らかな布が使われていた。
「誰が……?」
蓮が、にやりと笑った。
「さあね」
葵は並んだ草履に目を落とし、黙って履いた。
鼻緒の具合を確かめてから、ふと玄関の外へ視線を向ける。
(……)
――宿の外、物陰。
清之助は、満足そうに微笑んでいた。
(喜んでくれただろうか)
紗江が新しい草履に足を通す姿を見て、ほっと息をついた。
その背後に、いつの間にか蒼馬が立っていた。
「清之助殿」
「うわっ!」
清之助は肩を跳ねさせ、振り向いた。
蒼馬が静かに笑った。
「もう少し、上手く隠れた方がよろしいかと」
「……気づいておられましたか」
「ええ。最初から」
清之助は、恥ずかしそうに頭を下げた。
「申し訳ありません……」
「いえ。紗江様を想うお気持ちは、よく分かります」
蒼馬の声は穏やかだった。
だが、続く言葉には、慎重な響きがあった。
「ですが、この先は危険です。引き返された方がよろしいかと」
清之助は黙った。
宿の玄関から、旅支度を整えた一行の声が聞こえてくる。
空を見上げると、朝の光が山の端を照らしていた。
ここで引き返せば、店に戻れる。
帳面を開き、商いに向き合う、いつもの暮らしに。
けれど、紗江がこの先へ進むと知りながら、自分だけ帰る気にはなれなかった。
「それでも、行きます」
清之助は蒼馬へ目を戻した。
その目に、迷いはなかった。
蒼馬はしばらく清之助を見つめ、小さく息をついた。
「……分かりました」




