第2章 第15話 幻の刃と守る約束
西の空が朱に染まる頃、二人は日本橋の通りを離れ、細い路地へ入った。
その途端、町の喧騒が途絶え、
風がぴたりと止まる。
二人の足が止まった。
「紗江、私の後ろへ」
葵の声に緊張が走った。
紗江が息を呑むより早く、葵はその前へ立ち、刀を抜いた。
鋭い金属音が、静まり返った路地へ響く。
「出てこい」
返事はない。
ただ、屋根の上を黒い影が横切った。
次の瞬間、地面へ小さな玉が落ちる。
白い煙が弾け、二人の視界を一瞬で覆い尽くした。
「紗江、決して私から離れるな!」
「はい!」
紗江は葵の着物の袖を強く掴んだ。
煙の中に、人影が浮かぶ。
一人。
二人。
五人。
やがて十を超える影が、二人を取り囲んだ。
煙の向こうで、路地の壁がぐにゃりと歪んだ。
来たはずの道が、ひどく遠く見える。
耳元では、言葉にならない囁きが幾重にも重なっていた。
紗江は葵の袖を握り直した。
確かに触れているその布だけが、頼りだった。
葵が最も近い影へ刀を振るう。
しかし、刃は何の手応えもなく空を切った。
斬られたはずの影は煙となって消え、その背後から同じ姿が二つ現れる。
「……幻か」
白い面を着けた忍びが、煙の向こうに立っていた。
冥が両手で印を結ぶと、無数の影が一斉に葵へ襲いかかった。
葵は右から迫る刃を払い、紗江を背に庇ったまま、次の影へ刃を返した。
だが、斬っても斬っても影は煙となり、別の場所から現れた。
(本物はどれだ……)
刃が風を切る音。
衣擦れの音。
幾つもの足音が四方から重なり、本物の気配を覆い隠している。
「――ッ!」
葵は刀を大きく振り抜いた。
白煙が流れ、影の群れが一瞬揺らぐ。
その隙だった。
煙の中から伸びた手が、紗江の手首を掴んだ。
強く引かれ、葵の袖を握っていた指がほどける。
「きゃっ……!」
「紗江!」
振り返った葵の背後へ、別の影が迫る。
殺気を感じた時には、すでに刃が振り下ろされていた。
避ければ、紗江を連れ去られる。
葵は迷わず、紗江へ手を伸ばした。
刃が、葵の左腕を裂いた。
鮮血が飛び、緋色の羽織に濃い染みが広がった。
「葵様!」
葵は痛みに顔を歪めながらも、紗江を掴む男の腕へ切っ先を向けた。
「その手を離せ」
低い声が、煙の中へ響く。
男の動きが止まった。
普段の穏やかさは、どこにもない。
葵の全身から放たれる凄まじい殺気に、周囲の影さえ怯んだように揺らめいた。
「私は今、手加減ができぬぞ」
葵が間合いを詰める。
男は紗江の手首を放し、迫る切っ先から逃れるように後方へ飛び退いた。
葵はすぐに紗江を引き寄せ、背に庇った。
迫る影を迎え撃ち、刀が弧を描くたび、幻が煙となって消えていく。
その時、右手の煙の奥で、小石が鳴った。
葵はその音へ刃を向けた。
黒装束の男が、身を捻って斬撃をかわす。
切っ先が袖を裂いた。男は煙と消えることなく、地面を蹴って後方へ退いた。
葵は紗江の前で、刀を構え直した。
煙の向こうで、冥の手が一瞬止まった。
やがて片手を上げると、影は一斉に葵から離れた。
再び煙が路地を覆い、次の風が吹いた時には、冥も夜鴉も跡形なく消えていた。
「葵様……腕が」
「これくらい、何でもない」
そう答えた葵は、左腕を押さえたまま、小さく息を吐いた。
袖口から落ちた血が、地面に赤い点を作る。
「何でもなくありません。早く戻りましょう」
紗江は震える手で葵を支えた。
葵は何か言おうとしたが、紗江の青ざめた顔を見ると、黙って頷いた。
――澄月庵。
紗江は葵を部屋へ座らせ、急いで手当てを始めた。
傷口を洗い、止血の薬草を当て、その上から清潔な布を巻く。
けれど、布にはすぐに赤い血が滲んだ。
紗江はその上に新しい布を重ね、傷口を押さえた。
指が、震えている。
自分の手首を掴んだ男。
背後から葵へ振り下ろされた刃。
あの瞬間が、何度も脳裏に蘇った。
葵が自分を助けようとしなければ、傷を負うことはなかった。
「……葵様、ごめんなさい」
堪えていた涙が、紗江の頬を伝った。
「私のせいで……」
「違う」
葵は、はっきりと言った。
「でも、私がいなければ……」
「違う、紗江」
葵は傷ついていない右手を伸ばし、紗江の頬を伝う涙を拭った。
「守ると約束したのは、私だ」
その指先は、驚くほど優しかった。
「葵様……」
「紗江が無事で、本当によかった」
真っ直ぐに見つめる瞳に、迷いはなかった。
その優しさに、紗江の胸はかえって痛んだ。
葵様が傷つくくらいなら、自分が斬られた方がよかった。
あの時、自分が葵様を庇えていたら。
紗江は、血の滲む布へ目を落とした。
守ってもらいたかったのではない。
自分も、この人を守りたかった。
涙を拭い、傷口に当てた布を押さえ直した。
「……もう少しだけ、我慢してください」
「ああ」
震えていた指へ、少しずつ力が戻っていった。
やがて手を緩めると、布に新たな血は滲んでいなかった。
「良かった……出血が止まったみたい」
ようやく、紗江の肩から力が抜けた。
葵はそんな紗江を、何も言わず見つめていた。
翌日の夕刻、澄月庵。
障子越しの光が、紗江の横顔を柔らかく照らしていた。
玄関先で、控えめな声がした。
「……失礼いたします」
紗江が出ていくと、清之助が立っていた。
羽織も着けず、少し息を切らしている。
「紗江殿が襲われたと、町で聞いて……」
清之助は紗江の姿を確かめるように見つめた。
「お怪我はありませんか」
「はい。葵様が守ってくださったので、私は無事です」
「よかった……本当によかった」
清之助は一歩近づき、思わず紗江を抱き寄せた。
紗江は驚き、身を引こうとした。けれど、肩に触れる手が小刻みに震えていることに気づき、言葉を呑んだ。
廊下の奥で、葵はその光景を見ていた。
踏み出しかけた足が止まる。
右手を握りしめたまま、その光景から目を離せなかった。
やがて清之助は、はっとして身を離した。
「……申し訳ありません。取り乱しました」
「いえ……ご心配くださって、ありがとうございます」
紗江は一歩下がり、頭を下げた。
――その夜、澄月庵の奥の間。
葵、蒼馬、蓮、隼人、無刄、お蘭、そして紗江が集まっていた。
紗江は、前日の襲撃を振り返った。
「路地の壁が歪んで、来た道が遠くに見えたんです。人影がいくつも現れて、耳元では、何を言っているのか分からない囁きが……」
無刄が口を開いた。
「……冥幻だ。冥が操る幻術だ」
「冥幻……」
「中村座で火事を見せたのも、同じ術だった」
無刄の言葉に、隼人が頷いた。
「あの時は、大火事だと思って、皆が必死に水をかけたんだ。誰も疑わずに」
「俺は、無刄に引っ叩かれてようやく……」
蓮が続けた。
「それでも、しばらくは火が見えていた。幻だと言われても、すぐには信じられなかった」
「あの時は香炉を止められたが、術の中に取り込まれれば、そう簡単には抜け出せない」
無刄は、葵の左腕に巻かれた布へ目を向けた。
「幻だと分かっていても、目や耳は惑わされる。その中に本物の刃が混じれば、見極めるのは難しい」
「一度だけ、実体を捉えた。だが、紗江を連れ去られかけた」
葵の言葉に、皆が黙った。
「恐怖に呑まれれば、己を見失う者もいる。次に備えるなら、幻を見破るだけでなく、惑わされても心を保つ術が要る」
「……その術を学べる場所はあるか」
無刄は皆の顔を見渡した後、葵へ視線を戻した。
「霞ノ郷なら、あるいは」
「霞ノ郷……?」
紗江が聞き返した。
「人知れず、忍たちが修行を積んできた郷だ。幻術を見破り、己の心を守る術が伝わっている」
無刄は一度、言葉を切った。
「ただし、その修行で向き合うのは敵ではない。己の恐れだ。耐えきれず、心を壊した者もいる」
葵はしばらく考えた後、お蘭へ顔を向けた。
「お蘭、私たちが留守の間、紗江を守ってくれるか」
「なぜですか、葵様。私も参ります」
紗江の声に、葵が振り向いた。
「道中は危険が伴う。紗江は――」
「連れて行ってください」
紗江が立ち上がった。
一同が驚いて紗江を見た。
葵が首を振る。
「紗江、今の話を聞いていたであろう」
「はい。でも、ここでじっとしてはいられません」
紗江は葵を真っ直ぐに見つめた。
「私のせいで、また誰かが傷つくなんて、嫌です」
声は震えていた。それでも、目を逸らさなかった。
「戦えなくても、せめて、自分の身を守れるようになりたいんです。私のせいで皆さんを危険な目に遭わせたくありません」
「そなたの気持ちは分かる。だが、その修行でそなたが傷つくかもしれぬのだぞ」
「それでも、私も皆さんとご一緒したいのです! お願いします。私も連れていってください」
無刄が短く息を吐いた。
「……危険だぞ、紗江。途中で引き返したくなっても、すぐに帰れるとは限らない」
「それでも、参ります」
紗江は一歩も引かなかった。
「私も、紗江様が修行を受けられることに賛成です」
お蘭が葵へ顔を向けた。
「私も参ります。紗江様に手助けが必要な時は、私が支えますから」
「お蘭……」
紗江が振り向くと、お蘭は頷いた。
葵は紗江へ視線を戻した。
行灯の明かりに照らされた横顔は、凛としていた。
「……分かった。ともに行こう」
紗江は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
こうして、霞ノ郷への旅立ちが決まった。
一行はそれぞれの覚悟を胸に、準備の日々を過ごすこととなった。
己の恐れと向き合う修行。
そこで何を見せられるのかは、まだ誰にも分からなかった。




